冬を愛した人
その言葉に、小さな青い瞳が一層輝く。期待の眼差しに物怖じせず、千夏は声を張り上げた。
小瓶の中の冬――フユオは、何にでも興味を持った。フユオと共に暮らすようになってから一週間で、部屋の中の大体のものについて千夏は教えていた。
二週間目になって、フユオは「外に出てみたい」とねだった。それまでは、部屋に一人フユオを残したまま、千夏は出勤していた。もし瓶を紛失したらと思うと、なかなか家から持ち出せなかったのだ。それに、瓶の中に小さな人がいることが誰かにバレでもしたら、それこそ一大事だ。見世物にされるか、怪しげな研究所で解剖されてしまう可能性だって否めない。
千夏はフユオを必死に諭したが、彼は首を縦に振らなかった。それどころか、千夏にそっと耳打ちをしたのだ。「僕を一緒に連れていけば、とても涼しいですよ」と。
それは千夏にとっては蜜よりも甘い誘惑だった。
結局次の休みには、千夏はフユオの入った瓶を携えて、街へと繰り出していた。
小瓶は口元のくびれに紐をきつく縛って、それをストラップのようにしてバッグに結んだ。紐が長すぎればどこかに引っかけてしまうかもしれないし、かといって短すぎてはバッグから物を取り出すときに邪魔になってしまうので、調整には随分と苦労した。
冬を携帯していると思うと不思議な気分になったが、瓶の中からきらきらとした笑顔で外を眺めるフユオの姿を見ていると、千夏の頬も思わず緩んでしまう。
バッグにつけた小瓶を揺らしながら、千夏は出来るだけゆっくりと歩いた。
自宅アパートから、普段よりも遅く三十分経ったところで駅に辿り着く。しかしロータリーをそのまま素通りし、先へと進む。駅を通り過ぎてから更に四十分ほど歩くと、車道を挟んで右手に、青々とした芝生が広がっていた。
それを目にしたフユオが、瓶の中ではしゃいでいる。
興奮した様子であれは何と尋ねるフユオをとりあえず無視して、道路を渡った。
広く芝生が植えられたその場所は、小高い丘のようになっていた。敷地のところどころにベンチが据えられており、気候の良い季節であれば親子連れやカップルが仲睦まじく弁当をつついていることもある。しかし真夏の今は、ほとんど人の姿はなかった。
「フユオ、ほら、あれ」
丘を登りきった辺りで、千夏はフユオにようやく声をかけた。千夏が指し示す先を見て、フユオが感嘆の溜息を漏らす。二人の視線の先には、大きな木がそびえていた。
丘を駆け下り、木の根元に立つ。駅前の街路樹より一回りも二回りも太い幹。千夏でも首が痛くなるほど見上げなくてはならない大木だ。フユオの目には世界を貫いているかの如く巨大に映ったことだろう。
「この木は?」
「桜の木よ。春にはピンク色の綺麗な花が咲くの」
大木の根元に、千夏は腰を下ろした。芝生の感触と同時に爽やかな緑の匂いが、体をたちまち包み込む。
「春に、ですか」
「そうよ」
「チナツさん……僕は」
「フユオ、ストップ」
口ごもりながらも言葉を紡ごうとするフユオを、千夏はぴしゃりと制止した。
千夏がフユオと過ごしたのは、まだたった二週間。恋人同士でさえ互いを理解し合えるはずもない短い期間だ。けれどその僅かな時間の中でも、千夏は気付いたことがあった。
フユオは好奇心旺盛だ。しかしそれは誰でも持ち合わせている単純な知的好奇心であり、彼の性格からもたらされているものではない。今千夏に見せているような不安げな表情こそが、彼の本質なのだ。本当の彼は酷く臆病で、卑屈だった。
それを知っていたからこそ、彼が言わんとすることは、千夏には手に取るように分かった。
「あんたは冬だから桜を見られないなんて、誰が決めたの? そもそもね、私たちの頭の上で揺れているのは何? 葉っぱでしょ、葉っぱ。夏に繁る葉を、冬とは正反対の季節を、今あんたは見てるのよ。私と一緒に」
(ああ、何でもっと優しく言えないのよ)
淡々と言葉を連ねながらも、内心では自身のつっけんどんな態度にほとほと呆れていた。
「……ごめん」
思わず千夏はそう口にしたが、フユオは黙ったままだった。千夏もそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
互いに言葉を交わさぬまま、大きな桜の木の下で丘を吹き抜ける風を感じながら、二人は静かな午後を過ごした。そして日が傾き始める前に、帰路についた。
この日以降何度休日がきても、千夏はフユオを外へ連れ出さずに自宅で過ごした。そのかわり、平日には千夏のバッグに紐で結ばれた小瓶が揺れていた。
フユオとの出会いからふた月が過ぎ、秋は音もなくおとずれた。自宅と勤め先を往復するだけの日々を続けていた千夏に、それを教えてくれたのは、赤く色を変えた街路樹の葉と、瓶の中の小さな冬だった。
日中の暑さも随分と和らぎ、フユオの作り出した風に頼る必要もなくなっていた。それでも千夏は、バッグに小瓶を結わえたまま毎日出勤している。
秋の夜は静かに更けていく。部屋の灯りを落とし、闇に包まれた室内で、テレビ画面だけが白々とした光を放っている。千夏は布団に横になって、それをぼんやりと眺めていた。テレビはオフタイマーがセットしてあり、千夏が寝入ってしまう頃には勝手に切れるようになっている。テレビの中から、男女が言い争う声が聞こえた。あまり流行っていない連続ドラマだ。千夏は流し見る程度だが、フユオは初めて観るドラマに興味津々なようで、正座をしながらも体を前のめりに傾けてしまうほどには熱心に視聴している。
『どうせあの女のほうが、好きなんでしょう!』
『バカ言うな、俺はお前だけを愛しているんだ』
(これは、流行らないわけだわ)
俳優たちが吐くのは、どれも散々使い古されたであろうベタなセリフだ。こんなドラマを喜んで観る者は、よっぽどの懐古主義者とフユオぐらいのものだろう。
そのうちにテレビ画面の端に『つづく』と小さな文字が現れる。その頃になると、千夏の眠気も増していた。
「フユオ」
瓶の中に向かって、千夏は小さく声をかけた。けれど彼からの返事はない。フユオはテレビ画面をじっと見つめたまま動かなかった。
「ちょっと、フユオ?」
指先で瓶を揺する。はっとしたように、フユオが振り返った。
「あ、ああ……はい、何でしょうか」
ようやく答えたものの、彼の言葉はどことなくうわの空といった様子だ。
「私、もう寝るわ」
不審に思いつつも、襲いくる眠気には勝てない。それだけ言って、千夏は自身の体にタオルケットをかけた。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
テレビからは、賑やかな声が聞こえ始めた。芸人が多く出演するバラエティ番組が始まったのだ。
それを頭の片隅で聞きながら、とろとろと船を漕ぐ。少しずつ眠りの世界へ足を踏み入れていく。
「チナツさん」
その声は間違いなくフユオの声だったが、夢とも現実ともつかない不明瞭な響きだ。千夏が寝ぼけているだけで現実なのかもしれないし、夢の中で彼が発したものかもしれない。
「教えてください、チナツさん」
彼はゆっくりと続けた。千夏はただ、それを訊いていた。
「……愛って、何ですか?」
――ああ、心臓を刺されるとは、こんな感じだろうか。
千夏は目を閉じたまま、寝間着の上から痛む胸に強く手を押し当てた。
「……好きになるって、どういうことですか?」
(もう何も、言わないで)
これまでフユオには、多くのことを教えてきた。家具の名前一つ一つから、それこそ社会の仕組みまで。勿論千夏にとってそれらが既知のものだったからこそ、教えることができたのだ。
けれどこのフユオからの問いに対する答えを、千夏は持ち合わせていなかった。
「そんなの……私が知りたいわよ……」
答えられぬ自分が惨めに感じられ、苛立ちを隠しきれない声で、小さく呟く。
「そう、ですか」
千夏の声はフユオの耳に届いたようで、彼は一言そう漏らした。
結局それが、夢だったのか、現実だったのかは千夏には分からなかった。
いつの間にかテレビは消えていた。窓の外は明るくなり、青空が広がっているのが寝床の中からでも窺える。電線にとまった雀の鳴き声が、部屋の中まで聞こえていた。
当然のようにおとずれた普段と何も変わらない朝の光景に、千夏は起きるのが億劫になり、朝の眩しさを遮断するようにタオルケットを頭からかぶった。薄い布地の裏からは光が僅かに透けてしまうが、それが目には入らないように再び目を閉じた。
ふと、仕事のことが頭を過る。そして今日が休日であることを思い出した頃には、千夏はまた寝入ってしまっていた。
昼過ぎになって千夏はようやくのろのろと起き出し、洗濯をし、冷蔵庫に入れていたコンビニ弁当をレンジで温めて食べた。その後アイロンがけをして、テレビを見ながらコーヒーを煎れた。
――部屋の中は、いつもこんなに静かだっただろうか。
焙煎された豆の苦みが味蕾を刺激すると同時に、千夏は思った。
敷きっぱなしの布団のかたわらに、小瓶が置かれたままになっていた。それを見て、今日はフユオと一言も言葉を交わしていなかったことに気付く。フユオは眠っているようだった。瓶の底に横になったフユオの白い肌は、より一層透明感があり、小さなその体はセルロイドで出来ているようにも思える。けれど感触を確かめる術は、千夏にはなかった。瓶に入った彼に、千夏が触れることは、決してないのだ。
千夏は指先を瓶に当て、そっと滑らせた。初めて瓶を手にした時と変わらない冷たさが伝わる。フユオと指先の間は、たった数センチしかない。けれど、その僅かな距離を阻むガラス壁は、見た目以上に厚いものだった。
フユオが目を覚ましたのは、夜になって千夏が寝支度を整え、丁度電灯を消した後だった。千夏は寝床に体を横たえたまま、タイマーをセットしていたテレビの電源をリモコンを使って落とす。
虫の鳴く声もしない、市街地の秋の夜。部屋を包む静寂がしんと響き、耳が痛くなる。
「フユオ」
沈黙を破り、千夏は青年の名を呼んだ。はい、と瓶の中から短い返答があった。
「いつからフユオは……瓶の中にいるの?」
フユオの体が強ばったのを、急激に張りつめた空気で身を持って感じる。
これまで千夏は、フユオに質問をぶつけることはほとんどなかった。初めて出会った時に彼が見せていた不安げな表情を思い出すと、気遅れがして訊くことができなかったのだ。それでも、彼が千夏の目の前にいるのは揺るぎない事実で、その存在が確かであるならそれだけで十分だった。けれど今は違う。千夏は彼を覆う薄くて厚い透明な壁を、壊したくて堪らなかった。
「……ずっと、です。僕はずっとここにいます」
ひやり。周囲の空気が僅かに温度を下げたのが分かる。その変化は微々たるものであったが、千夏には確かに伝わった。
「それって、生まれた時からってこと? 出てこられないの?」
「よくわかりません。僕は冬で、ここから出たことはありません。『そういうものだから』としか……本当にそれだけしか、言えません」
体に巻いたタオルケットの中で、千夏は自身の体をきつく抱いた。先程よりも更に室温が下がっている。まぶたを固く瞑る。
「でも……仕方ないんです。僕は、冬だから。人に寒さという試練を与える厳しく冷たい冬だから。春のように優しく包み込むような暖かさも、ありません。世界を害することしか出来ない僕は、瓶の中にいようがいまいが、結局……ひとりなんです」
みし、と窓ガラスがきしむ音がした。外気との温度差が大きい故か。
――これは、彼の悲しみだ。
千夏はふと、そう思った。
悲しい、切ない、寂しい――そんな自分の心を誰かに分かって欲しくて、不器用な冷気で彼は伝えようとしているのだと。
そしてあの夏の日、そんな拙い彼の行動を千夏が察知し、目の前に現れた。路地から出た時に見せた微笑みは、今に思えばそんな彼の心中を色濃く映し出しているようだ。
(ずっと瓶の中で……ひとり、か)
千夏はゆっくり、目を開けた。そして灯りひとつない室内にぐるりと視線を向ける。狭い部屋だ、と改めて感じた。ここに住み始めて三年が経つが、友人や恋人を招いたことは一度もない。
友人はいる。けれど彼女らと頻繁に連絡を取り合うことはない。だからといって、特定の人物から嫌われていると感じたこともない。誰に対しても当たり障りなく接していたためであろう。なるべく敵を作らないように過ごしてきた結果、自宅に招くに至るほど親しくなったものは一人もいなかった。果たしてこの関係を友人と呼べるのか、今となってみれば疑問が湧く。
恋人に対してもそうだ。「付き合ってくれ」と言われても、千夏は一度も断らなかった。彼らに対して愛情があったわけではない。それでも、恋人という関係になってしまえば好きという感情が湧くかもしれない――そう思ったのだ。しかし結果として、千夏が彼らに特別な気持ちを抱くことはなく、名ばかりの恋人たちは一様に逃げるようにして千夏の元を去っていった。
指の隙間から水が零れ落ちる様にも似た空虚な気持ちのまま、千夏は日々を生きてきた。いつかはこの状態が自然に好転するだろうと、簡単に考えていた。そのはずだった。思い込みたかっただけかもしれない。
――何故、私は誰かを好きになれないの? 愛せないの? このまま、ずっとひとりなの?
千夏が胸の奥に眠らせていたそんな想いを呼び起こしたのは、昨晩のフユオからの問いだ。
けれど自身の鬱屈とした感情以上の、抜け出すことの出来ない苦悩と痛烈な悲しみをフユオが背負っていることを、千夏は知った。全身に感じる確かな冷たさが、その証拠だ。
フユオが気弱な性格であり、劣等意識が高いのも、彼が冬であるが故のさだめなのだ。それはもはや、運命といってもいい。人が死から逃れられないように、冬である彼は自分の意志とは関係なく、圧倒的な寒気を世界に巻き起こす。そしてその中心で、ひとり孤独に咽び泣くのだろう。
体勢を俯せに変えて、視線を移した瓶の中で、フユオは項垂れていた。ガラス壁に背をぴたりとつけ、ひざを抱える姿は、まるで夜に怯える子供のようだ。
千夏は両手で小さな瓶を包み込んだ。氷のようなそれに触れ、皮膚が痛む。鋭く刺すようなその冷たさは、自分以外の全てを拒絶しているかのようにも思えた。
「大丈夫、大丈夫よ」
あやすように言って、手のひらの中の冬を引き寄せた。瓶が割れてしまわないように注意しながら、けれどぎゅっと強く、千夏は彼を胸に抱いた。全身がぞわりと総毛立つのを感じたが、まぶたをきつく瞑って耐える。そうしてまで、今はフユオを離したくなかった。
寒さに震える体とは裏腹に、千夏の心は凪いだ海のように穏やかだった。どくん、どくんと落ち着いたテンポでリズムを刻む心臓の音が心地良く耳に響いている。
――この鼓動が、フユオにも伝わっていればいいのに。
つるりとした瓶を、指先で撫でる。未だ冷気を放つそれを、千夏は指の腹でそっと叩いた。とん、とん、と自身の鼓動と合わせて。
「今は私が、そばにいるから」
呟きながら、千夏はふと思う。
(そういえば、私、冬が嫌いだったんだっけ)
世界を白く塗りつぶす雪が、凍てつくような風が、嫌いだった。夏と同じくらい、冬は必要のないものだと、ずっと思っていた。
(案外、悪くないのかも)
震えるフユオを指先で宥めながら、千夏は小さく笑った。
そして冬のように冷えた空気に包まれて、徐々に意識を手放していく。