冬を愛した人

 次の朝、千夏は自身のくしゃみで目を覚ました。窓の外は既に明るい。目に光が飛び込んできた瞬間に、頭全体が痛む。風邪をひいてしまったのだと、すぐに分かった。部屋の中は少し肌寒い。おそらくは、昨夜の名残であろう。

 窓を開けて外気を入れようと、体を起こす。そこでようやく、まだ自分の手の中に小瓶が収まっていることに気付いた。瓶底で犬のように丸くなって、冬は眠っている。

 起こさないように気を付けながら、そっと瓶を畳の上に置いて、重い体を何とか動かして窓を開けた。開放とともに爽やかな秋風が吹き込み、室内を浸食し始める。外気を吸い込みながら、うっとりと目を閉じる。急激な温度変化に頭痛は酷くなっていくが、それでも体温が上昇していく感覚が心地良かった。

「チナツさん」

 後ろから呼ばれ、振り返る。小さな瓶の中で、冬が立ち上がっているのが見えた。少し距離があるためその表情まで窺い知ることは出来なかった。

「おはよう、フユオ」

 覚束無い足取りで布団に戻り、千夏は体を横たえた。今日はもう、会社を休むつもりだった。風邪をひいたというのが一番の理由だったが、それ以上に、今日はずっと冬のそばにいたいと千夏は思っていた。酷い頭痛は、欠勤の絶好の口実となってくれそうだ。

「ごめんなさい、チナツさん」

 畳に置いた瓶の中で、冬はまた表情を曇らせていた。

「夜、寒かったでしょう。僕のせいで……」

 フユオは今にも泣きだしそうだった。

 幼子のように顔をくしゃくしゃと歪める彼が、今では少し可愛く思えた。

「こら、めそめそしないの」

 めっ、と幼児にするように、千夏は叱った。

 自身の発した声が響き、頭痛が助長される。思わず手で頭を押さえたが、ここで明らさまに痛がっては、また冬が心配して自虐に走るに決まっている。

「フユオは、いいの。そのままでいいのよ。泣く必要も、嘆く必要だってない。冷たい風ばっかり出していたって、『それが何だ。冬なんだから文句あるか』って踏ん反り返っていればいいじゃない。確かに、冬の寒さは厳しいわ。厚着しなくちゃ、今の私みたいにみんな風邪ひいちゃうもの」

 穏やかな口調で言い聞かせるように、千夏は続ける。

「冬は確かに寒いけど……だけどね、フユオ。私知ってるよ。冷たい風を吹かせなければいけない、あんた自身の辛さ。冬に誰よりも一番震えているのは、あんただってこと。あんたの……フユオの心は、春みたいに温かいって。私だけは、ちゃんと分かってるから」

 千夏の頬を温かいものが伝う。指先で拭ったそれは涙だ。

(私、泣いていたの……?)

 きっと発熱しているせいだと、千夏は思うことにした。熱が上がり始めたのか、頭の中心が蕩けたようにぼんやりとする。

「フユオ」

「……はい」

「私ずっと、冬が嫌いだった。寒さなんていらないって、思ってた。でもフユオと出会って、やっぱり冬は人に必要なんだって、そう思い直したの」

「冬が……必要?」

「そう。だって、冬の厳しい寒さを乗り越えたら、人はより強く成長出来るから。私が冬を嫌いだったのは、きっと、寒さを――試練を乗り越える勇気が私になかったからだわ。フユオが、それを気付かせてくれたのよ。……全部、あんたのおかげね」

 つらつらと口から零れ出したのは、棘のない、包み込むように柔らかな言葉だ。けれどその全てが、千夏の本心だった。

 フユオは口を引き結びつつも、少し照れ臭そうに頬を染めていた。白い肌にほのかに差す朱は、雪に埋もれた山茶花のようで綺麗だった。湖のように深みのある青い瞳は、潤んでいるようにも見える。

「……フユオ、お願いがあるの」

 今なら、何だって言える。そんな気が、千夏はしていた。

 重い体で布団から乗り出し、小さな瓶に耳打ちするように手を当てる。

「――――――――」

 熱い吐息混じりに囁くと、フユオはさらに顔を赤くした。

「ええ、でも、そんな……」

「お願い」

 あたふたと狼狽えるフユオに、千夏が微笑みながら一押しする。フユオは誰もいるはずがないのに、左右をちらちらと確認してから、意を決したように大きく深呼吸した。

「ち……チナツ……」

 名を呼ばれ、千夏は自分の胸の中に宿ったぬくもりを感じた。それは泉のように次々と湧き出し、千夏の心を満たしていく。静かに、穏やかに、しかし確実に。人が訪れぬ森の奥で水を湛え続ける、冬の湖のように。

 千夏の熱はなかなか下がらず、結局出勤できたのは三日後のことだった。

 三日も寝込めば、そろそろ眠ることにも飽きがきそうなものだが、その朝千夏が目覚めた時間は、電車乗車時刻の四十分前だった。自宅から駅までは徒歩二十分、全力で走ったとしてもヒールを履いた足ではたかが知れている。身支度を整えるのにあまり時間はかけられない。

 千夏は急いで洗面と着替えを済ませ、手早く化粧をした後、小瓶を紐で手早くバッグに結び付けた。

「チナツ、あまり急ぎすぎると怪我をしますよ」

 フユオが忙しない様子の千夏に声をかけた。けれど、それに構っていられるほど千夏には余裕はなかった。何せ、会社を三日も休んでいるのだ。その上遅刻なんてしようものなら、それこそ職場で身の置き所がなくなってしまう。

 千夏はバッグを掴み、そのまま流れるような動作でヒールを履き、部屋から飛び出した。ドアに鍵をかけ、錆びた鉄製の階段を三階から一気に駆け下りる。

「危ない! 危ないですから!」

 フユオの必死の叫びが耳に届くが、千夏は足を止めない。地上へ着地すると同時に、勢いを殺さないまま走る。三日ぶりに体を動かすにしては、少々ハードなウォーミングアップだ。

 フユオは諦めたのか、彼の声はすっかり聞こえなくなっていた。後でちゃんと謝ろうと心に決め、千夏は大急ぎで駅へ向かった。

 身支度の時間を大幅に削っただけに、五分以上の余裕をもって千夏は駅に到着した。駅舎の壁にもたれかかり、呼吸を整えてから、改札をくぐる。その先にある階段を上がればホームだが、この駅にエスカレーターは設置されていない。動かない階段を忌々しげに一瞥し、仕方無しに階段に足をかける。その瞬間、ふらついた体が横を歩いていた背広姿のサラリーマンにぶつかる。

「あ、すいません」

 思わず謝罪したが、サラリーマンは気にした様子もなくそのまま階段を上がっていき、あっという間にホームに辿り着く。千夏も慌てて、それに続いた。

 千夏がホームに到着すると同時に、電車の接近を知らせる軽快なメロディが流れ始めた。聞き慣れたその音楽に千夏は安堵の息を吐く。

「フユオ、ごめんね。でも間に合ったから……」

 小声で言いながら、バッグに目をやる。けれどそこに、フユオの姿はなかった。結いつけていたはずの紐もなくなっている。

「う、うそ……」

 周辺に目を走らせるが、落ちているのは紙屑ぐらいだ。

 駅員が吹いた笛の音に合わせるように、ホームに電車が止まる。ぱらぱらと数えるほどの乗客が降り、代わりに倍以上の人数が車内に乗り込んだ。

 ――電車に乗らないと。でも……。

 呆然と立ち尽くす千夏の前で、息を吐くような音と共に扉が閉まり、電車は走り去った。タタン、タタンと枕木を叩く音はすぐに遠くなる。

 ぶるり、と体が震えた。背筋を凍らせるような冷たい風が、ホームに流れ出している。ちらと覗き見た階段の下からは、白いもやが漂っていた。フユオだ、と千夏は直観した。

 すぐに階段を下りる。改札の前に、割れたガラスが転がっていた。千夏が取り払ってしまいたいと思っていたあの小瓶は、いとも簡単に、しかし決して望まぬ形で、粉々に砕け散った。

 改札を出ると、駅舎の前の街路樹には真っ白に霜が付着していた。道ゆく人は首を傾げながらも腕をさすりながら足早に通り過ぎていく。ロータリーに止まった数台のタクシーのウィンドウは曇りきっていて中を窺うことは出来ない。

 季節は秋だというのに、駅前に広がっているのはまさに冬だ。

「これ……フユオのせい、なの?」

 目を疑うような光景だが、身を切るような寒さはこれが現実であることを否が応にも認識させる。

 フユオは、世界中に広がる冬の力を瓶の中に凝縮させてできた結晶なのだと、あの夏の日露天商は言った。そして瓶には季節の力を封じる力があるとも。

(じゃあ、瓶が壊れたら……その力は……)

 千夏は弾かれたように走り始めた。既に疲労の色濃い体に鞭打つように、必死に足を動かす。冷たい空気を、千夏は追った。街を凍えさせる寒さの先にフユオがいると、確信していた。

 吐く息が白い。喉が張りつくように痛む。冬の気配を辿って走る道に、千夏は覚えがあった。フユオと出会ってすぐ、二人で初めて外出した時に通った道だ。それに気付いた途端、千夏の目から涙が溢れた。零れる雫が、頬で凍り付く。進めば進むほど寒さはどんどん増しているようだった。

 道路を横切り、芝生が広がる丘へと千夏は向かった。青々としたそこに薄らと白が散りばめられている。それは雪だ。この丘の上にだけ、粉雪が舞っていた。

 足元の白を散らしながら斜面を駆け上がる。丘の頂に立ったときには、足はもう感覚を失くしていた。痺れにも似た寒さに唇を噛む。ぐるり周囲を見渡せばよく見知った後姿があった。大きさこそ違えど、それは間違いなく彼だった。

「フユオ!」

 千夏が付けた彼の名前を叫びながら、転がり落ちるように丘を下る。フユオはゆっくり振り返り、そして消え入りそうなほど小さな声で彼女の名を呼んだ。その表情には、不安も憂いも微塵も感じられない。ただひたすらに穏やかで、安らかな顔だ。口元には僅かな微笑みを湛えている。

「ごめん、ごめんフユオ、私のせいで……」

 手のひらに包むこともかなわなくなった青年を見上げながら、千夏はただ涙を流すことしか出来なかった。その頬を氷のように冷たいフユオの指が拭う。

「チナツのせいじゃありません。僕が冬じゃなくて春だったら、たとえ僕を囲う瓶が壊れたとしても、誰も苦しめなくて済んだのです。……全部、僕のせいです。だから」

 凛とした響きを持った彼の声が続く。落ち着き払ったフユオの紡ぐ全ての言葉が、千夏の心を締め付ける。

「お願いです、チナツ」

 ゆらり、深い青の瞳がほんの少しだけ揺れた気がした。

「僕を……消してください」

 彼の言葉と共に、一際強い北風が丘を吹き抜けた。その風は芝生を薄く覆っていた僅かな雪すら空中へ連れ去っていく。

「消すって……」

 震える喉から声を絞り出す。喉だけではない。足も、手も、全身が小刻みに震えている。寒さなんてとっくにマヒしているというのに。

「チナツの手で殺すのです、僕を。急がなければ、この場所だけでなく、街全体が冬に覆われてしまう。……結晶を崩せば、冬の力はまた世界中に分散します。そうすれば、周辺に起こっている異常な気候もすぐに――」

「だからって、何で私が……あんたを殺さなきゃいけないのよ!」

 掠れ声で千夏は吠える。

「馬鹿よ! あんたは馬鹿だわ! この街のために、あんたひとりが死ななきゃいけないなんて、おかしいじゃない! 何でよ、何でなのよおおおおおお!」

 天を仰ぎ、遥か頭上に停滞する鈍色の厚い雲に向かって、咆哮。

 無力な自分がただただ歯がゆかった。事態は千夏の手に負えるものではなく、彼の言う通りに行動するしか道は残されていないことも、はっきりと理解していた。けれど、冷えきった体の奥底で湧き続ける確かなぬくもりを、千夏は諦めることが出来なかった。

 ふわりと千夏の体を純白が包み込む。覆いかぶさるように、フユオは千夏を抱き締めた。長い腕で彼女の背中を寄せ、強く、強く。彼の体は氷のように冷たいというのに、けれどどこか優しく、千夏は温かさすら覚えた。

「それでも、僕はチナツと過ごしたこの街を、苦しめたくないから。……大丈夫。姿がなくなっても、僕が冬であることは変わりません。四つの季節が巡り巡って、必ずまたチナツのところに戻って来ますから」

 宥めるように、フユオは言った。けれど千夏は大きく左右にかぶりを振る。

「嫌、私、殺したくない。あんたを殺したくない! でも……でも……」

 寒さで乾いた唇が切れ、口中に血の味が広がる。鉄錆臭い唾液を、千夏は飲み込んだ。

 フユオの手のひらが、千夏の背をさする。大きな手だ、と千夏は思った。

 ――この手に、体に、触れたいと思い始めたのは、一体いつ頃だっただろう。

「殺さなきゃ、いけないの……。私、あんたを殺さなきゃいけないのよ……。好き、なのに……。こんなにあんたを、好きなのに……!」

(ああ、私、フユオのこと……好きになってたんだ)

 初めて口に出したその言葉は、驚くほど温かく、じわりと胸に染み込んでいく。

 フユオから体を離し、千夏は彼の顔を見た。

 優しげに細められた目は、全てを受け入れる深い慈愛に満ちた青。

 出会った時から何ら変わらぬその瞳に、千夏はいつの間にか恋をしていた。

「僕は、チナツになら……いいえ、……チナツに、殺されたいです」

 フユオはそう言って、笑った。花の蕾が綻ぶような微笑。あの日、路地裏から抜け出たあの時、千夏の手のひらの中で見せた表情と同じだった。

 フユオの冷たい両手が、千夏の両手首を掴んだ。彼はその手を、自らの喉へと導いていく。千夏の手のひらが、フユオの首に触れた。手と同じく冷えたそこに、徐々に、力を加える。

「ごめん……ごめんね……」

 呪文を唱えるように、そう何度も繰り返しながら、千夏は愛しい者の喉を絞め上げていく。彼の最期を見届けるため、逸さぬようにと見開いた目は乾ききっている。

 フユオは目を閉じ、口元には微笑みをたたえたまま、されるがままだ。自身の手のひらから伝わる千夏の温度を、じっと感じているのかもしれない。

 ぴき、とガラスに亀裂が入るような音が聞こえ、彼の喉元がじわりと熱を帯びた。

 それに反して二人の周囲に冬の嵐が吹き荒れる。背後にそびえ立つ巨木が大きくその枝を揺らす。

 最期だ、と千夏は思う。

 愛しい者を死に至らしめている両手に更に力を込めながら、千夏はフユオの唇に、思わず自身の唇を寄せた。――その瞬間。

 目の前のフユオの体が、弾けた。体の内側から一瞬にして光が炸裂し、ガラス瓶が割れるように砕けたのだ。千夏は思わず目を閉じた。彼の首を絞めていた手が重力に従って落ちる。彼女が目を開けた時、フユオの姿は既になかった。

「フユオ……」

 脱力し、その場にへたり込む。周辺の地面には枝から落ちた葉が散乱していた。澄んだ青空からは静かに陽光が降り注ぎ、青々とした芝生を爽やかな秋の風が揺らしている。

 千夏の眼前には秋が広がっていた。先程までの寒さがまるで幻想であったかのように、街は平穏を取り戻している。

 ぬくもりの残る指先で、千夏は自身の唇にそっと触れた。乾ききり薄皮が剥け、血が滲んだ唇を撫ぜる。冬の冷たさを感じることのなかったその場所に、彼の最期の温度を分け与えるように。

 

 涼風穏やかな秋の日、彼女の愛した冬は死んだ。

 * * *

 別れには慣れたつもりでいた。けれど、これまでに経験した別れは大概、恋人の痕跡を携帯電話から消去するだけの簡単なものだったからだ。

 フユオの痕跡は、千夏の暮らすこの部屋のどこにも残っていない。割れた小瓶すら、千夏が駅に戻った時には跡形もなく消えていた。けれど彼の痕跡が残っていたとしても、きっと千夏は、それを消そうとは考えなかったであろう。

 彼は、何も残さなかった。冬に積もった雪が、やがては消えてなくなるように。そして春のような温かなぬくもりだけが、千夏の胸の中でただ、消えていった冬を恋う。

 この年の秋は短かった。例年より半月以上も早く木枯らしが吹き、テレビの中の気象予報士たちは驚きながらも冬の到来を告げた。

 冬の始まりは、更に千夏を苦しめた。厳しい冬の寒さは、いなくなってしまったフユオの温度を嫌でも彼女に思い起こさせた。

 彼のいなくなった部屋で彼の温度と同じ寒さを感じながら暮らすことは、千夏を精神的に疲弊させていった。

 すぐに体調を崩し、千夏は家に籠りがちになった。彼女を心配した両親の勧めで、千夏はしばらく実家に戻ることにした。職場には休職届けを出し、逃げるように彼と過ごしたアパートを、そして彼と歩いた街を後にした。

 短い秋に反して、冬は長く続いた。

 けれど、終わらない冬はない。三月になると寒さもようやく緩み、草木が芽吹き始めた。春のおとずれは千夏を安堵させたが、それでも今度は、過ぎ去ってしまった冬を少し恋しくも思った。

 四月になって、千夏はアパートへ戻ることにした。体調も幾分か良くなり、これ以上仕事を休み続けるのも申し訳なくなっていたからだ。

 そして今日、数ヶ月ぶりにアパートの最寄り駅に立つ。懐かしささえ覚える街路樹は春風に枝を揺らし、まるで千夏の帰還を歓迎してくれているようだった。

 千夏はふと思い出し、あの路地を覗いた。暗く細長く続くその奥には、別の通りへの出口から光が漏れている。木のテーブルも、白鬚の露天商もいない。そこはひんやりと冷えてはいるが、あの日のような冬の冷気は流れてこなかった。

(もう、忘れなきゃ……フユオは、いないんだもの)

 僅かな期待を打ち消すように、千夏は首を左右に振った。

 そしてアパートへと一歩、足を踏み出した。

 そんな彼女の唇に何かが触れる。唇に付着したそれを指先で摘んだ。薄いピンク色の花びらだった。

「桜かあ……」

 駅のロータリーに桜の木は植えられていない。風でどこかから飛ばされてきたのだろう。ぼんやりとそう考えていた千夏の元に、一枚、また一枚、桜の花弁が舞い込んできた。一枚目は、千夏の足元の五十センチ先へ。そして二枚目は、数メートル先へそれぞれ落ちた。不思議に思いそれを追うと、また新たな花びらが、少し離れた場所に落ちる。

 桜の花びらに誘われるように、千夏は歩いた。花の標が途切れ、顔を上げたそこには青々とした芝生に覆われた丘が広がっていた。丘の向こうから、花弁が舞い上がっているのが見える。

 どきりと千夏の胸が強く脈打つ。それは予感だった。

 気付けば千夏は駆け出していた。瑞々しい芝は時折彼女の足を取るが、それでもただ、丘の向こうを目指す。小高く隆起したそこを、一気に登る。

 丘の頂上に立った千夏を薄紅色の嵐が襲う。思わず両腕で顔を覆った。桜の花弁を突風が攫ったのだ。千夏の全身を包み込んだそれは暖かく、どこか懐かしい優しさを孕んでいた。

 桜の嵐はそのまま天高く上昇していった。そして巻き上げられた桜の花びらが、雪のようにゆっくりと千夏の頭上から降る。

「チナツ」

 低く、しかし凛とした響き。冬の青空のように、透明感のある声だ。千夏の口から、ああ、と言葉にならぬ声が漏れた。目頭に熱いものが込み上げる。零れそうになるそれをぐっと堪えながら、千夏は顔を覆った腕を下ろした。そして同時に、地面を蹴る。千夏は走った。桜の木の下で待つ、彼の元に。

「フユオ……!」

 名を呼び、その胸元に飛び込む。一番に感じたのは、冷たさではなく、目を閉じて浸りたくなるぬくもりだ。そして千夏の鼻腔を柔らかく甘い花の香りがくすぐる。

「どうして……? あんた、消えちゃったのに……!」

 フユオの胸に顔を寄せながら、千夏は言った。

 あの日、千夏の目の前でフユオは消えた。それなのに彼は今間違いなく目の前に存在している。

「チナツ、僕は一度死にました。冬だった僕は、死んだのです」

 仕方なしとはいえ、フユオを殺したのは他でもない千夏自身だ。手のひらに、指先に、未だ残る彼の喉元の感触に、千夏は体をぶるりと震わせた。

 千夏の体を強く抱き締めながら、フユオは続ける。

「僕はもう冬ではありません。チナツ……僕は、春になりました」

「春に……?」

 千夏は思わず、顔を上げた。見上げたフユオの顔は、彼が消えたあの日と何ら変わっていない。けれど、よく目を凝らせば、真っ白だった髪は、桜よりも更に薄い紅色に染まっていた。深い青だった瞳も、薄らと赤を混ぜたように紫色に変わっている。それらは真夏の路地裏で見た、春の結晶の少女を彷彿とさせる様相だ。

「千夏が、僕を春に変えたのです。冬である僕がずっと焦がれていた、暖かい春の陽射しによく似たものを、千夏が僕に教えてくれたから。……僕は、春になったのです」

 細めた紫の両瞳で千夏を見据えながら、フユオは彼女の頭を優しく撫でた。全てを柔らかく包み込む春風のような感触に、堪えていた涙がついに溢れる。

「あなたのことが……好き、です」

 フユオの囁きが千夏の耳朶に響き、甘い蜜のようにとろりと脳を侵す。沸き上がる熱、そして歓喜とも興奮ともつかぬ高揚感が、千夏を支配した。

「私も好き。フユオのことが好きよ」

 うわ言のように、千夏は言葉を紡いだ。それから指先で彼の唇をなぞる。

(どうか、まだ、消えないで)

 柔らかく温かいその場所へ、自身の唇を押し当てた。

 風が強く吹き、薄紅色の花弁が二人の周囲で乱舞する。それは祝福であり、そして恐らくは餞だ。

 千夏は内心で気付いていた。永遠に続く奇跡なんてない、と。

 それは、フユオ自身も理解していることだろう。

 二人の唇が名残惜しげにゆっくりと離れていく。互いに目が合い、慣れないくすぐったさを誤魔化すように二人は笑った。

「フユオ、私……幸せだったよ」

 フユオの腕の中からするりと抜け出しながら、千夏が言った。

「はい、僕も」

 それにフユオが答える。足元の芝生をさらさらと風が揺らした。これ以上の言葉は、もう二人の間には必要なかった。この胸に宿る確かな温かさがあれば、それで充分だった。

 フユオの足元が陽炎のように歪む。彼の膝が、腰が、次第に形を失っていく。

 千夏はその光景を、ただ見つめた。微笑みながら。頬を伝うものはもうない。

 フユオも笑っていた。愛する者に手を伸ばすこともせずに。

 彼の胸が、首が、口が、目が、全てがその形を崩す。音もなく、静かに。そしてそのまま、空間に染み込むように、彼は再び消えた。

 桜の木の下には、千夏だけがまたひとり残された。けれど一度目の別れとは違い、彼女の心を支配しているのは悲嘆ではない。

 千夏はゆっくりと、空を仰いだ。澄んだ青空に、咲き乱れた薄紅色の花弁がよく映えている。

「一緒に桜、見られたじゃない」

 ぽつりと彼女が漏らした呟きは、春の風に乗って、空へ。

 初夏を迎えた頃、千夏はこれまで住んでいたアパートを出て、駅から近い場所に以前より広くて綺麗な部屋を借りた。金銭的には多少無理があったが、それでも人を招くのに不自由しない部屋を選んだ。人を招待する予定はまだない。それでも部屋が古くて狭いことを、体のいい断り文句にしたくなかったのだ。

 その後幾度か桜の季節が巡ってきたが、千夏の前に彼が姿を現すことはなかった。そして恐らく、これからも。

 けれど千夏は感じていた。姿は見えなくとも、この優しい春の風が、柔らかな太陽の陽射しが、くすぐったい緑の香りが、全てが彼――フユオなのだと。春が来る度に、自分のそばに寄り添ってくれるのだと。

 千夏は、臆病で優しい冬との恋を、誰にも話す気はなかった。そしてきっと死ぬまで、この秘密を大切に守り続けるだろう。愛する春と共に。

(了)

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