陽炎

織女星の涙



 七月七日、七夕の夜。
 空に眩く輝く天の川に祈れば、願いが叶うという。

***

 幾多の星が帯状に並び、そうして成された大河を眼前に望みながら、織姫は大きく溜息を吐いた。
 織機の椅子に腰掛け、細く白い足をぶらぶらと遊ばせる。
 踏み板を踏む気はとうに失せているが、織機の前に座ることは身体に染み付いていて、なかなかやめることが出来ないでいた。
 誰に命じられ、誰の為に機を織っていたのか、今ではそれすら思い出せないでいる。
 一人でひたすらに布を織り続けていた時間は、長かったようにも、短かったようにも感じられた。
 一反ずつ巻かれた色鮮やかな織布は、織機の傍に無造作に積み上げられ、今にも崩れ落ちそうだ。
 自身の傍らで山を成す織布と星の大河、それらに交互に視線を移す。
「ああ、憂鬱だわ」
 そう小さく呟くと、織姫は遊ばせていた足を地に着け立ち上がった。
 地、というと語弊があるかもしれない。彼女がいるのは地上から遠く離れた天空であり、地面は存在しないからだ。
 彼女が足を着けたそこには無数の小さな屑星が淡く輝き、しかしそれはまさしく彼女の為だけ存在する星の大地だ。
 光る地面を踏みしめ、織姫は大河へと歩み寄った。大河の星々が囁き合い、きらきらと音を奏でる。
 眩さには既に慣れた。無造作に、流れのない河へと足を踏み入れる。冷たくはない。だが至極当然のこと。地上にあるそれとは違い、水を湛えてはいないのだから。ただ、星に足が触れれば多少の痛みを伴う。
 しかしその痛みは、織姫にとって厭うべきものではなかった。
 それだけが、ただ一人機を織り続けていた彼女にとっての、唯一の刺激であったからだ。

 河の中ほどまで来たところで、織姫は立ち止まる。
 星の中にゆっくりとしゃがみこみ、そして腰を下ろした。瞬く光は胸元にまで達している。
 輝きの中に、おもむろに手を伸ばす。指先にかさりと乾いた感触がある。その乾いたものを摘み引き寄せれば、それが色のついた長方形の紙片であることが分かった。黄色い紙片だ。表面には文章が書かれている。
「受験がうまくいきますように」
 鈴の音のように高く澄んだ声で、織姫はそれを読み上げた。
 そうして手の中でそのまま力を込めて握りあげた。ぐしゃりと音をたてて潰れた紙片は、正座する織姫の膝に落とされる。
 河の中から、もう一枚紙片を拾い上げる。次は青色の紙片だった。そこにも文字が書かれており、織姫はまた大きな声で読み上げる。
「就職が決まりますように」
 青色の紙片は、黄色い紙片の傍に転がった。
「また、ゴミが増えたわ」
 河を形作る星の光に目を凝らせば、同様の紙片が数え切れないほど存在している。
 地上ではこれを短冊というのだと、河向こうに住む彦星が言っていた。七夕の夜に紙片に願いを書き、川に流し、天の川に祈ればそれが叶うという言い伝えなのだとも。
 それを知る以前は河にゴミが落ちているのだと勘違いし、懸命に拾い集めていた。ゴミという認識は、彼女にとってはあながち間違いでもなかったわけだが。
「まったく、迷惑な話なんだから」
 地上の川で流された短冊が、なぜ星の大河に行き着くのか、理由は定かではない。
 どうあれ、事実ここに流れ着いているのだから、織姫にとっては不愉快極まりないことである。長年流され続けた短冊で、河底はすでにゴミだらけなのだ。
 ただの紙切れならば、まだいい。
 織姫が良しとしないのは、そこに書かれた地上に住まう人々の愚かしい願望である。
「受験? 就職? そんなの、自分で努力してなんとかなさい」
 鼻で笑い、丸められた二つの紙屑を膝上から払いのける。
 受験や就職が一体どういうものなのか、勿論彼女には知る由もない。
 しかし文脈から、これらの人物が圧倒的な力を持つ他者の──地上でいうなれば天、或いは神の助けに縋ろうとしているのだと確信した。
 仮にもし神がいたとしても、その願いに手を差し伸べるかといえば、甚だ疑問だ。
 それに、願いは神の元ではなく、織姫へと届いている。
 では織姫がそれを叶える力を持っているかと問われれば、否だ。
 織姫に出来ることといえば、せいぜい機織か、こうして河に沈む短冊を屑のように丸めるだけ。
 自らの書いた願いが、知らぬところで虚仮にされているとは誰も思うまい。
「願い事を誰かに叶えてもらおうなんて、馬鹿な話」
 織姫の呟きが星の囁きにかき消された。
 河の中で仰向けに身体を倒し、光の中で溺れる。
 視線を少し上に向ければ、河岸に置かれた織機と織布が視界に映る。
(ずっと、機を織ることしか知らなかった)
 彦星と逢うこともあったが、それも年に一度。しかし織姫が自ら逢いたいと願ったわけではなく、強要されていると表現したほうが正しい。
 それは機を織ることと同じで、不可視で絶対的な力による支配だった。
(でも、本当に馬鹿なのは私だわ)
 長きに亘る支配に、違和感を覚えるようになったのはいつのことだったか。その頃から、少しずつ機を織る手を休めるようになり、今ではその気力すら失せてしまった。
 織姫は機織を止めることで、些細なことでも、何かが変化することを願ったのだ。
 結果、変化などありはしなかった。
 機織をやめた彼女に残ったのは、増えることのなくなった織布の山と、河に流れ着く短冊だけ。
 皮肉な話だ。他者の願いを「努力不足」と一蹴しておきながら、自らの願いは努力しても決して叶いはしないのだから。
(一体何を期待していたのかしら)
 起こるはずもない変化を望み、そして絶望することは、心のどこかで理解していたはずだった。
 遠く彼方で輝く星に、この手が届かないことを知っているように。
 織姫の視界の端で、薄桃色の紙片が揺れた。手に取ることをせず、目線だけでそれを追う。そこにはたどたどしい文字で一言だけ書かれていた。
 ──幸せになれますように。
「……ふん。せいぜい努力することだわ」
 吐き捨てるように言って、織姫は両手で自らの視界を覆った。
(そうよ、努力で何とかなるのだから、努力すべきなのよ)
 地上では、叶わない願いなどないのだろう。
 叶わないと知っていて、果たして誰が願うというのか。
 叶う願いだからこそ、希望を持って祈るのだ。
「最初から何も願わなければよかったのに」
 遠くで、山積みにした織布が崩れ落ちる音がした。織姫の頬を温かな雫が伝う。
 流した涙は地上に落ちて雨となり、彼女の知らぬところで人々の願いを叶えている。

 七月七日、七夕の夜。
 大地は、悲しみの雨に濡れた。

(了)