陽炎

明く年



 しんと冷えた夜の空気が、開け放った窓から流れ込み、私の体を包んだ。肺の奥まで凍えるような外気は、ぬるま湯に浸かったようにぼんやりと浮かれ現実感を失っていた私の脳を、すぐに覚醒させてくれた。覚醒すればすぐにその寒さに体が震え始め、慌てて窓を閉める。はたから見れば滑稽であろうが、メディアから伝染する大晦日独特の高揚感を打ち消すには、この寒さがまるで身を清めているかのようで、丁度いい。
 闇に覆われた空からは、ちらちらと雪が落ち始めている。大晦日から明けて元日の未明頃までは全国的に大雪に見舞われるであろうと、テレビで気象予報士が話していたのを思い出す。まさにその通りになりそうだった。夕方にはまだ時雨のように細かった雪も、今では大きく成長してぼた雪になっている。地面にこそまだ積もってはいないが、庭の植木を見れば少し白い。まだ小さな梅の木は、さも重そうに枝先を下げていた。
 寒々とした景色に別れを告げるように、そっとカーテンをひく。振り返った先にあるダイニングテーブルの上には、こぼれ落ちそうなほど多くの料理が並んでいる。全て私が日中から腕によりをかけてつくったものだ。ガスコンロの上には、そばつゆが入った鍋もある。普段は夫と私、二人だけの食卓で、互いの誕生日くらいはささやかなお祝いとして──歳を重ねても嬉しくない年齢ではあるが──普段は手を出さないような高い肉などを焼いたりするけれど、それでもテーブルにのりきらないほどの料理を作ることはない。もちろんこれだけ料理があるということは、それなりに理由がある。年末ということで、娘が帰省してくることになっているのだ。いや、帰省してくることになっていた。
『今晩から大雪になるって話でしょ? だから、ちょっと今年は、帰れそうもないの』
 夕方になって、娘から突然電話があり、そう告げられた。ごめんなさいと娘が謝る。こぼれ落ちそうになる溜息を堪えるのに、私は必死だった。大晦日が雪になるということは、一週間も前から繰り返しいわれていたことだ。それを、当日になって「雪が降るから帰れない」とは。もしかすると、娘婿が帰省に反対したのだろうか。こうるさい姑の待つ嫁の実家で窮屈な正月を過ごしたくないと思っているのかもしれない。ああ私はいつから人に疎まれるような口うるさいオバさんに成り下がってしまったのか。電話の向こうで娘が謝罪と弁明を繰り返している間、もやもやとした胸中でただ反射的に相槌をうっていた。

 また、酷いことを考えてしまった。
 娘との電話を思い出しただけで、自らの醜い本性を再認識しうんざりとする。
 四十を超えたころから、ちょっとしたことで感情の起伏が激しくなることが多くなった。その後は必ず自己嫌悪で落ち込んでしまう。家族以外の他人と関わることが、恐ろしくてたまらない。そのことがきっかけで、四十五を過ぎてすぐに、長らく勤めていたレジ打ちのパートを辞めた。まだ気力に満ち溢れていた頃には週五日ほど勤めていたが、辞める数ヶ月前からは多くても週二日。一週間ずっと休んだこともある。周囲の目は厳しかった。パート仲間の視線は冷たく、私は落ち込むことがさらに多くなった。辞めたといえば聞こえはいいが、ようは逃げたのだ。仕事からも、周囲の目からも。
 夫はすぐに私の異変に気付いた。「医者に診てもらおう」と手をひかれ、病院の前まで行ったが、結局中には入れなかった。医者から「あなたは社会不適合者だ」と嘲られたらと思うと、急に酷い吐き気がし、夫に泣きついて家まで連れ帰ってもらった。
 ゆっくり休めばいいと、夫は言った。その言葉はありがたくもあり、申し訳なくもあった。パートを辞めてからの二年間、家事すら出来ずに私はほとんど寝たきりのような状態だったからだ。料理をはじめすべての家事は、仕事の合間をぬって夫がやった。
 まだ高校生だった娘は、働きもせず横になってばかりいる私を責めた。「母親失格だ」「だらしない」「ダメ人間」毎日のように罵声を浴びた。その度に私は泣いた。情けなかった。けれど、そんな娘が悪い道に手を染めてしまわなかったことが、唯一の救いだった。もし不良にでもなってしまっていたら、私は立ち直れずにいただろう。それこそ、自殺などという不穏な考えを思いついたかもしれない。今では娘も結婚し、一児の母だ。立派に育ってくれた。私はそれだけが、本当に嬉しい。
 家族がバラバラにならず、私の具合が改善に向かったのも、すべて夫のおかげだと思う。立ち上がることすら辛かった五年前に比べ──まだひとりで外に出ることこそ難しいが──今日の豪華な食事を作ることが出来るまでに回復した。感情の起伏の激しさはいまだ残るものの、抑えられないほどではなくなった。それでも、娘が帰ってこないことに、憤りは感じるが。

「どうしたんだ」
 声をかけられる。ダイニングの入口に、夫が立っていた。白髪の混じる濡れた髪をタオルで拭きながら。寝巻に半天を羽織っている。私がぼんやりとしている間に、風呂から上がったのだ。
「いえ、何でもないわ」
 ごまかすように、さあ食べましょうと言って、夫を食卓に促した。納得がいかないように首をひねりながらも、夫はダイニングチェアに腰をおろした。私もそれに続く。
 静かな食事だった。庭木の枝から時折落ちる雪の音が、やけに大きく聞こえた。食事の間、あえて娘の話題には触れなかった。ご馳走が半分となくならないうちに、夫は静かに手を合わせて食卓をたった。私もすでに満腹だった。四人分と見積もって作っていたのだから、無理もない。娘も今頃家族揃って食卓を囲んでいる頃だろうか。壁に掛かった時計に目をやる。七時を少し過ぎたところだった。
 私は残った料理をタッパーに移し、冷蔵庫に次々と収めた。大晦日で食材を買い込んでいたこともあり、あっという間に庫内はいっぱいになった。汚れた皿を冷たい水で洗い、ダイニングテーブルの上をきれいに片付け終わり、もう一度時計を見る。七時半。私は慌てて居間に向かった。
 居間は電気こそ点いていたが、冷えきっていて、夫の姿はない。もう自室に入ってしまったのだろうか。私はテレビの電源を入れた。目的の局にチャンネルを合わせると、すぐに楽しげなメロディが聞こえてきた。帰省した娘と一緒になってこの歌番組を観るのが、毎年の楽しみだった。けれど今年は、ひとりきりで観ることになりそうだ。私は、今日幾度目かの深い溜息を吐いた。
 ソファに腰をおろす。肩からどっと力が抜けた。午前中に大掃除をし、午後はずっと台所に張りついていた。こうやってのんびりと座ったのは、昼食の時だけかもしれない。流行の歌手なのであろう、女性の歌声をのせたポップソングが、ゆったりと目を閉じた私の耳に届いた。穏やかな気持ちだった。
 音楽はいい。両耳から入ってくる色とりどりの音楽が私の鬱屈とした心を拭い去ってくれるような気が、私はしていた。だから落ち込み、床に伏すことがほとんどだったあの頃にも、音楽を聴いた。年代物のほこりをかぶったラジカセを枕元に置いて、ひたすらラジオの音楽番組を流したものだ。そのことがかえって娘の反感を買うこともあり「うるさい」と怒鳴り込まれたこともあったが、それでも私はラジカセの電源を切ることはしなかった。あの時も娘は私のことを、だらしない母親だと思ったことだろう。
 過ぎたことを考えてはいけない。そう思うのに、ことあるごとに心が闇に覆われる。以前よりは回復したと思っていたが、もしかすると、ただ慣れてしまっただけなのかもしれない。ぎゅっと目をつむり唇を噛みしめる。頬を涙が伝った。頭の中をぐるぐると黒い雲が渦巻いている。私の耳にはもう、どんなメロディも届いていなかった。

「おい」
 不意に呼ばれ、ハッとする。眠っていたのだ。まぶたを開けると、私の前に夫が立っていた。寝巻姿に半天ではなく、なぜか首にマフラーを巻いてぶ厚いコートを着込んでいる。夢でも見ているのか。何度かまばたきをしてみるが、夫の姿は変わらなかった。
「出かける準備をしなさい」
 夫が言った。
「ええ? 一体どこに行くというの?」
 私が疑問を投げかけても夫はただ「早く支度をして」と促すだけだった。私はしぶしぶ自室に戻り、茶色い起毛のコートを服の上に着て、赤いマフラーを巻いた。ドレッサーの鏡を覗き込むと、目を赤く腫らし頬のこけた青白い顔の女が映る。酷い顔だ。私は顔を隠すために、衝動買いしたきり使っていなかったつば付きの帽子を深くかぶった。もう一度、鏡を見なおす。顔こそ見えないが、外観はまるで老女のようだ。心が醜くなると、外見までそれに追従してしまうものなのか。自らのひいき目で見ても、とても五十歳には見えなかった。この痩せて肉の削げた老人のようないでたちで外出するのかと思うと、背筋が震えた。家の外に出るのが恐いのではない。この姿を他人の目に晒すことが恐ろしいのだ。
 鏡の前で呆然と立ち尽くす私の耳に、ドアをノックする音が聞こえた。しかたなしに、私は急いで部屋を出た。待ち構えていた夫がじっと、私を見る。見ないで欲しいと内心思うが、口には出せなかった。
「そんなに深く帽子をかぶったら、前が見えないだろう。寒いのなら、マスクをしなさい。温かくなる」
 私の目の前に白いマスクが差し出された。私がそれを受け取ると、夫自身が先にマスクをつけた。大きなそれは、夫の顔を半分ほど覆った。目がかろうじてマスクから出ているといった感じだ。私も夫に習い、マスクをつけた。私の顔も夫と同じようにすっかり隠れてしまった。夫の言う通り、帽子は少し視界を遮っている。それをずらし、浅くかぶりなおす。家の中でコートを着込み、マスクまでして向き合っているふたりの姿は、どこか奇妙に思えて、可笑しくなる。
 くすくすと笑う私に、夫は言った。
「さあ、行こう」
 マスクの下で、夫も微笑を浮かべているのがわかった。

 外に出ると、雪はもう止んでいた。自宅近辺は、夜になるとほとんど車の往来のないような田舎で、道路はうっすらと白くなっていた。それを踏みしめるたびに、ぎゅっ、ぎゅっという音が靴底から伝わってくる。斜め一歩前方を行く夫に遅れをとらないように、私はその感覚を楽しみながら歩いた。
 そういえば、こうやって夫と外を歩くのは何年ぶりだろう。家にこもるようになってからは、外出もほとんどしていない──申し訳ないことに買い物すら夫頼みだった。頭の中で記憶を辿る。そして思い出す。ふたりでの外出は、きっと、病院に連れて行かれた時以来だ。あの時のことは、何年も経過した今でも鮮明に覚えている。重りでも括りつけているかのような足取りだった。誰とも視線が合わないように地面ばかり見て、震えていた。後に何度もそのことを思い出すだけで、同じように辛い思いをした。けれど不思議なもので、今もこうして回想しているというのに、恐れという感情は一切湧いてこなかった。
 ちらと、夫の横顔に目をやる。夫はすぐに視線に気付き「寒いのか」と私に尋ねた。いいえ、と小さく首を横に振って私は答えた。むしろ、温かいくらいだった。
 自宅を出て、数十分はたったであろうか。不意に遠くで太鼓の音が聞こえた。足を進めるほどに、それは大きくなっていくようだ。
「どこまで、行くの」
 夫に問う。
「なに、すぐにわかるさ」
 道を行き交う人の姿が増えていた。太鼓の生み出す振動が、身に響くほどに感じた。私たちの歩く先に、オレンジ色の灯りがぽつぽつと見える。目をこらせば、それが屋台に吊るされた電球の光であることが分かった。夫の言う通り、向かう先はすぐに判明した。屋台が十数軒ほど立ち並ぶそこは、小さな神社の参道であったからだ。屋台に囲まれたような石畳の道は、多くの参拝客で活気づいていた。
 その光景に、思わず足が止まる。ぐっと息が詰まった。寒さを感じているわけではないのに、体は勝手に震えていた。すがるような思いで、夫を見る。けれど夫は黙ったまま。
 沈黙。
 屋台の店主の威勢のいい客寄せ口上と商品を求める参拝客の声、そして激しい太鼓の音。
 それらすべてに押し出されるように、私の口からかすれた声で「恐い」と一言漏れた。
 そのつぶやきが、夫に聞こえていたかどうかは分からない。けれど私が何を言ったか、理解はしたのであろう。私の左手を、夫は自身の右手でぎゅっと包み込んだ。ガサガサに荒れ、硬く、けれど温かい手のひらだった。
「こうして歩けば、大丈夫」
 夫はそのまま私の手をひいて、ゆっくりとまた歩み始めた。わたしはぎゅっとかたくまぶたを閉じ、空いた手で旦那の腕にしがみついた。
 一歩、また一歩と、祭のような活気に近づいていくのが分かった。
 ぎゅ。わずかに残っていた道端の雪を踏む感触。
 まるで体の中で演奏しているのではと錯覚する太鼓の振動。
 体の左半分に感じる、夫のぬくもり。
「いらっしゃい、いらっしゃい。おねえさん、これおいしいよ、買っていってよ」
 屋台店主の売り口上。
 じゅう、と肉の焼ける音。
 鼻の奥をくすぐる、ソースの香り。
 ゆっくりと、目を開ける。
 私は、華やかな祭のごときにぎわいの中心に立っていた。
 私はすれ違う人々とぶつからないように、注意しつつ歩いた。
 モノクロの夜の景色が、私の周りだけ鮮やかに彩られているかのような幻想にとらわれる。夏祭りで似たような光景を何度も見ているが、このように感じることはなかった。今日は視界に入るものすべてが新鮮で、目移りがした。別の世界に迷いこんでしまった童話の主人公も、こんな気分だっただろうか。
 ちらと夫の表情を伺う。目が合って、どきりとする。慌てて前方に視線を戻した。

 参道は五十メートルほど続いていた。そのあちこちに屋台があり、客が群がっている。私と夫は人の波間をぬうように、その場を脱した。はあ、と一息つく。そのままゆっくりと、境内への石段を昇った。何とか境内にたどり着いた時には、私の体は随分汗ばんでいた。私たちは、社務所の横に設置されていたベンチで、少し休むことにした。
「なんだか、疲れたわ」
 腰を下ろしたとたんに、どっと脱力する。私の様子を見て、夫は笑った。マスクがずれて、大きな口が覗いた。それを見て、私も思わず声を出して笑った。勿論私のマスクも同じようにずれてしまう。既に煩わしさを与えるだけになっていたマスクを、くるくると丸めて、近くにあったゴミ箱に捨てた。
「捨てるのかい?」
 夫が私に尋ねた。
「ええ、もういいの」
 答えながら、かぶっていた帽子を脱いだ。布製のそれを畳んで、コートのポケットにねじこむ。こんな隔たりは、私には必要なくなってしまったのだ。何にも遮られない口で、深く呼吸をする。冷たい夜の空気が肺を満たしていった。生まれ変わったような気分だ。人の波から伝播した高揚感が、今は心地よく感じられる。
「マスクよりも帽子よりも、ずっと大事なものを、思いだしたわ」
 包み込まれていた手を少し動かし、今度は大きな手をこちらからぎゅっと握った。夫は「そうか」と一言漏らした。「そうよ」と言って、私は空を見上げた。雲のすき間で星々が金色に輝いている。
 不意に地を揺らすほどの音がした。いつの間にか止んでいた太鼓だった。社殿の中で、奉納演奏が行われ始めたようだ。
「さあ、お参りして帰ろう」
 夫が立ち上がり、私も続く。二人の手は、結ばれたまま。
「ねえ」
 私はふと気づいた。
 そういえば、とても大事なことを、まだ言っていなかった。
「あけましておめでとう。これからもよろしくお願いしますね」
 私にとって十年ぶりになる、本当に新しい年の幕開けだ。
 向かい合ったまま夫は
「あけましておめでとう」
 それだけ口にする。そして目を細め、口元を綻ばせた。
 僅かに星が見える暗い夜空。雲間からはようやく月が覗き、やわらかな光で私たちを照らしていた。

(了)