陽炎

僕が囁くのは絶望



「きみが壊したんだ」
 かつて自分自身が立っていた場所を、その男は焦点の合わぬ目でぼうっと眺めていた。
 僕はそんな彼の背後に静かに立ち、その耳元でそっと囁いた。
 彼は振り向かなかった。ただ、背筋をふるりと小さく震わせたのがこちらにまで伝わる。今し方の僕の囁きが、吐息と共に彼の耳をくすぐったのであろう。
「きみが壊した」
 もう一度、今度は彼の耳の奥へと注ぎこむように。
 彼にとって、僕の声は汚泥だ。その感触は酷くどろどろとしていて、べたりと頭の中に絡みつく。ぞぞ、ぞぞ、芋虫が這うような忌まわしい音を立てながら、汚泥は彼の感情の奥底を目指し、ひたすらに侵略を続けるのである。
「俺が壊したんじゃない、俺は……違う、俺じゃない」
 侵略者を振り払うかの如く、彼は激しく頭を左右に振る。艶のない乾いた黒髪が、ぱさりぱさり、その土気色の頬を打った。
 僕はそんな彼の頭を、手で両側から挟み込むように押さえつけた。
「君があの場所から目をそらすことは、決して許されないのだよ」
 ひ、と引きつった声が彼の喉から漏れる。僕の指先を、生温かい雫が濡らした。
 彼の目線の先には、真っ白な空間が広がっていて、その中心に、壮年の女と少女が向き合って立っている。ふたりとも黒いワンピースを纏い、血の気のないその頬を、涙が伝い落ちていた。表情はなく、そこに宿るのはただ〈無〉のみだ。
 ふたりの間の、何もない白い地面に、ただ影だけが長く伸びていた。頭から首、肩、胸……辿っていけば、それは僕の前に立つこの男の足元に繋がっている。
「しかたが……なかったんだ。どのみち、生きていけるほどの金は……悪いのは、俺じゃない……会社が……いや政治が」
 掠れたうわごとが、男の口からこぼれる。
「理由はいらない。僕の前で重要なのは、ただ、事実のみだ。きみは、きみの居場所を壊した。自らの手で。それが全てなのだよ」
 僕の言葉で、表情のない女と少女の首が、ぐり、と回り、男の方を向いた。光を感じることのないその虚ろな四つの目から浴びせられる視線もまた〈無〉である。怨み言はおろか、彼女らがかつて持っていたものは、そこから何ひとつとして語られることはない。
 しかし男にとってそれらの視線は、自らの過ちを認めざるを得ない、的確な罪状宣告であった。
「きみは彼女たちから目をそらすことはできない。近付くことも。触れることも。そして、罪を償うことも叶わない。……永遠に」
 僕の言葉が、彼を包む。ようやく観念したのか、彼の全身から力が抜けた。そしてその場に膝を折り、へたりこむ。
 どろり、僕の放った汚泥が、彼の内側を淫猥な動きでもって侵していく。
 真っ白な地面に、彼の流した涙がいくつもの染みを作る。
 だらりと垂れたその両手の平は、赤黒く汚れていた。
 僕は体を屈め、彼に対する最後の言葉を、そっと耳打ちする。
「死後の世界に、安楽はないのだよ」

(了)