陽炎

遠出



 ふと、どこかへ旅に出ようかという気になった。一週間ほど肌寒い日が続いたのが、今日になって突然暖かな陽気になったものだから、つい窓を開けて庭を覗いたのがいけなかった。
 冬独特の軽く乾いた鋭利な感触に比べ、ふわりとしながらもやや重みの増してきた外気。家のそばに佇む白木蓮は、萼の方を淡い黄緑に染めた白色の大きな花を幾つもつけている。秋以来手入れをされないままだった庭土には、様々な雑草の新芽がすっかり顔を出していた。萌葱色を基調としたペルシア絨毯でも敷き詰めたようなそれは、室内からやや遠巻きに見るからこそ、より鮮やかに目に映った。
 そういった、いかにも春の訪れを感じさせるものが多く庭にあって、挙げ句そよそよと暖かな南風が、妖婦の手つきで肌を擽るものだから、ひとりでは滅多に外に出ない私にさえそういった気が起こるのも無理なかった。
「どうも」
 そうしていると、背後から声がかかった。首だけを捻り、肩越しにその姿を確認する。
「何だ、また今年も来たのか」
 私は肩をすくめた。部屋の入口に男が立っている。ジーンズに白いシャツとベストを着込み、その上にはまだ厚いコートを羽織っていた。
「来ますよ」
「もういいと、去年も言っただろう」
「いいと言われても、僕は来ますよ」
 彼が微笑を浮かべた。それを見て、私は苦笑する。
 彼とはもう二十年以上の付き合いだ。最初の頃は顔を合わせるのも苦痛で仕方なく、訪ねてきた彼に門前払いを食らわしたことも何度かあった。しかし、それでも毎年この季節になると、彼は私の元を訪れた。
 彼は私の暮らす地方の小さな町からは、遠く離れた場所に住んでいる。少なくとも出会った当初は、首都圏に在住していた。そんな彼は私の元まで、鉄道を使って半日もかけてやってくる。その労苦を思うと、さすがの私も良心の呵責を覚えるようになり、出会ってから五年程経った頃からは、彼をすぐには追い返さず、家に上げてぽつぽつと話をしたり、時には泊めたりすることも増えていった。
 そういった折々に彼という人物に触れることで、私の心を蝕んでいた苦痛は徐々に和らいでいった。そして今では、私は彼のことを歳の離れた友人のように思っている。ただ、彼自身はそうは思っていないだろうが。
 彼はこちらへ歩んできて、私の隣に並んだ。一年前に会った時より、頬が随分痩せているようだった。皺も少し増えただろうか。髪にも白いものが混じっていた。
「こんな日には、旅に出たいと思いませんか」
 窓から庭を眺めながら、彼が言った。
「ああ。丁度そんなことを考えていたところだ」
 私は優しげな萌葱色を眺めながら答えた。
「それはいい。じゃあ、吉野にでも行きませんか」
「吉野? 奈良のか」
「そうです。吉野へ行かれたことは?」
 吉野と聞いて、私は少し陰鬱とした気分になった。首を横に振って、彼に答える。
「あそこの桜は良いらしいですよ。山の低い場所から順番に、桜が咲いていくそうです。広範囲に咲くものですから、そこらの桜並木とはわけが違います」
 そう言った彼はどこか得意げだった。おおかた、旅行会社のパンフレットか何かで予め情報を仕入れておいたのだろう。
「きみは、知らないかもしれないが」
 そう、ひとこと前置きをしてから、
「吉野の桜は、信徒の寄進によって植えられたものだ。吉野山は金峯山寺の信徒たちだ。信徒による寄進の意図は、ひとえに功徳を得ることにある。つまり死後の安楽を求めんがために、彼らは功徳を積むのだ。また、吉野は古くから熊野詣の入口であるとされてきた。……きみ、紀伊熊野へは?」
 今度は私から尋ねた。彼の顔からは、先ほどまでの得意げな様子は消え失せていた。代わりに酷くばつの悪そうな表情を浮かべている。そして黙って首を横に振った。
「熊野の地には、日本神話の神・イザナミが葬られたと伝わっている。イザナミは、イザナギとともに多くの神とこの国を産んだ、神産み・国産みの神だ。しかし火の神を産み落とす際に、イザナミはその炎に焼かれて命を落としてしまう。そして後に黄泉の国の主宰神となったのだ。イザナミは、生の象徴でありながら、死の象徴でもある。そんなイザナミが葬られている熊野は、現世でありながら現世にあらず。参詣者が熊野を訪れるのは、この地で、生きながらにして死ぬためだ。吉野は、死地へ向かう旅路の入口でもあるのだよ」
 彼は何も言わない。言えるはずもない。喋りすぎてしまったと私は思った。彼には悪いことをしたとも。
 気付けば、庭は一面灰色だった。すぐそこにあった春が、すっかり色褪せてしまっている。ゆるりと流入してくる空気は、暖かいというよりは生温く感じられ、またその温度が、心の内にまで侵入してくる気配がした。私はそれを、窓ガラスによって遮った。力の加減を誤って、思いの外大きな音がたつ。隣に立っていた彼の体が小さく跳ねた。
「吉野はよそう」
 私は、できるかぎり無為を装ってそう口にした。
「あそこは山で、上り坂ばかりだ。それに、桜の季節は酷く混雑するからね。きみはともかく、私には無理だろう」
「……吉野のこと、よくご存知だったんですね」
 彼の言葉には苦笑が混じっていた。
「私だって無駄に歳を重ねてきたわけじゃないさ。行ったことはないがね」
 言って、私は彼の左肘の辺りを、冗談めかして軽く叩いた。そしてゆっくりと向きを変え、窓から離れる。
「あ、じゃあ、大阪はどうです? 造幣局の桜も綺麗ですよ。あそこは平坦ですし、僕も行ったことがありますから、案内できます」
 私の背に、慌てた調子で彼が提案してくる。その声はどこか必死さを含んでいた。
「大阪もひとが多いからね」
 私はまた、無作為を演じた。
 旅に出たいと彼に告げたのは、間違いだった。それがたとえ、一年ぶりに再会した友人に近況報告をするように、何気なく口にした言葉であったとしてもだ。何しろ彼は、私の望みを叶えること自体が自身に課せられた責務であり、そしてそれこそが、彼にとって唯一の贖罪の道であり、存在理由であると考えているのだ。そんな彼が私のことを、どうして友人と思えるだろうか。
「大阪も、よそう」
「……そう、ですか」
 その声色に落胆の色が濃く滲んでいた。
「代わりに、今から少し遠出をしないか」
「今から、ですか。この時間だと、上りでも下りでも、四時半頃の新幹線には間に合うと思いますけど……観光するには少し時間が遅いですね。行った先でホテルでもとりますか?」
 唐突な申し出にも関わらず、何の疑いもなくそれを受け入れた彼が、酷く哀れに思われてならなかった。そうやって彼が、私の上辺の願いばかり叶えたがることが悲しく、そして少しばかり悔しかった。
「……そんなに遠くに行くつもりはないよ。そうだな、川向こうのタバコ屋まで行こうか」
 私は彼にそう提案した。そして続けて、
「きみが車椅子を押してくれると助かるが」
 首を捻って彼を見る。すると、彼の表情が見る間に明るくなった。
 我ながら、残酷なことをしているとは思う。もっと早くに彼を突き放していれば、彼が贖罪という行為自体に自己の存在意義を見出してしまうことはなかっただろう。それができなかったのは、私が彼との関係に、心のどこかで未練を感じていたからだ。妻を喪い、ひとりきりになった私は、年に一度、彼との友人ごっこに耽ることでしか、自分の心を慰めることができなかったのだ。
 彼に対する相反するふたつの想いに板挟みになった私もまた、誰にも指摘されないだけで、彼と同じく、哀れな人間の成れの果てなのであろう。
「菜の花が咲いていますね」
 長閑な田舎の、交通量の少ない道路の端を、私は車椅子に乗って、彼に押されるままに進んだ。路肩には菜の花が列をなして生え、眩しいほどの黄色い花を揺らしている。
「すっかり春だ」
「ええ、本当に」
 そう言ったきり、私たちは沈黙した。ごとごとと、車椅子の車輪が回る音だけが聞こえる。
 私たちにとって、春は一生忘れることのできない喪失の季節だ。二十余年前、私は妻を、彼は恋人を亡くした。私の運転する車の前に、彼らの車がセンターラインを越えて衝突した。互いに、旅行先での出来事だった。私は一命を取り留めたはしたが、両足を失った。唯一彼だけが軽傷で済んだ。
 運転していたのは彼の恋人だった。免許を取ったばかりの彼女に、運転を勧めたのは彼だ。彼はそれを酷く悔やんでいた。だが、嘆いたところで死者は帰ってこないことを、彼は私以上に理解していた。だからこそ余計にも、生者である私に尽くそうとするのであろう。
「なあ、次の春は」
「来ますよ、僕は。……来年の春も、再来年の春も」
「きみは頑固だ」
「何と言われようが、また来ます」
 私はそれ以上強くは言えなかった。私たちの関係は、結局今年も変わらないままだった。恐らく、死ぬまでこうなのだろう。そう考えると、もはや諦めや呆れを通り越して、可笑しくなってきた。私は思わず声を出して笑った。彼もつられるように笑った。
「どれ、じゃあ来年こそは、本当に遠出をしてみようじゃないか」
「いいですね。どこへ行きます」
「そうだな、熊野にでも行こうか」
「さっき、嫌だって言っていたでしょう」
「吉野と大阪はよそうと言ったんだ。熊野は嫌だなんて、ひとことも言ってないよ」
「……春の熊野で、生きながら、死にますか」
 彼が静かに尋ねてくる。
「私たちには――それも、いいだろう」
 暫し間をおいて、私は答えた。
 風がそよいだ。車椅子の肘掛にのせた手の甲を、暖かい空気が撫でる。柔らかく、あまりにも優しいその感触が、どこか懐かしいもののように感じられた。気付けば頬に涙が伝っていた。彼は黙ったまま、ただ車椅子を押し続けている。ひたすらに前へと進む車輪の音が、どこまでも果てなく広がっていく気がした。私たちが目指す場所までは、まだ少し、遠い。

(了)