陽炎

白を征服するために



 それは、決して不快とは言い難い苛立ち。開かない窓越しに、積りゆく新雪を眺めるしかない幼児の心境に似ていたかもしれない。
「何で速水先生は描かねえの」
 机上に広げられたスケッチブックは、隅だけが適当に黒く塗りつぶされている。そこに鉛筆を転がして、津田森は問う。
 美術室内二十数人分の生徒の溜め息のかわりに、鉛筆の走る音が強く重なった。
「……何度も言いますけどね、津田森くん」
 教壇のそばに置かれた椅子にかけて、生徒の作業状況を伺っていた速水は、少々困惑ぎみに頭を掻いた。腕をあげた拍子に、彼が身につけた白衣の袖口が露 になる。洗い立ての様相すらある、突き抜けるようなその白に、津田森は自然、小さく舌打ちを漏らしていた。
「先生のことはいいですから。せめて今学期中に一枚くらいは仕上げてみませんか?」
「むしろ俺のことの方がどうでもいいし」
 元より、選択授業で得られる評価など必要ないと思っていた。数ある教科の中で、五段階評価で『1』がひとつあったところで、大した就職先を望んでいるわけでもなし、何か問題が起こるとも思えなかったからだ。
 それでも学校のシステム上、興味のない複数の科目からひとつを選ばなくてはならなかったため、出来るだけサボりやすいと思われる美術を選択した。体育は着替えが面倒でやめた。
 経緯はともあれ、つまり津田森にはまともに授業を受ける気などさらさらないのだ。
 そんな不真面目な態度をとりつつも、彼が毎週美術室にまで必ず足を運んでくるのは、美術教師である速水が『この部屋の中でだけ白衣を着ているから』だ。
 津田森は、初めて速水の白衣姿を目にしてからというもの、不思議と苛立ちを覚えるようになっていた。だからといって、身に付けていないと、それもまた気になるのだ。
 津田森自身、何故他人の衣服などに執着を持ってしまったのか分かりかねていた。それが彼を余計にも苛つかせた。しかし、こうして美術室に通い続けるのは、彼がこの苛立ちを望んで受け入れているからにほかならない。
「ね、T美大卒ってマジなの?」
「本当ですよ。でももう昔の話です。何の箔にもなりはしませんよ」
 速水が徐に腰をあげた。拍子に白衣の裾が揺れる。窓から差し込む午後の日差しが、それをさらに白く見せた。
「箔とかそういうんじゃなくてさ。せっかく美大に行ってたんだから、もっと描けばいいと思うんだけど。勿体なくない? 俺らが描いてるの見てるだけって、退屈でしょ」
 苛立ちは津田森を饒舌にさせた。重ねに重ねた言葉は、本音の上に厚く積もっていく。
 速水が津田森のそばまで歩み寄ってきた。最前列、教壇に面した席。やる気のない生徒が選んだにしては、異様な席取りだ。
「『俺ら』、ね」
 速水がちらと他の生徒の様子を伺く。津田森に関わりたくないのだろう。各々スケッチブックに目を落としているか、そうでない数人の生徒は友人同士で私語をしていた。
「……そうですね」
 再び頭を掻きながら、速水はしばし思案する様子をみせた。
 細められた目尻には皺。額には、ゆるゆると癖のある頭髪がかかる。その延長上にある、無精髭の影すら許さない顎。痩せた首元を飾る武骨な突起部。第一ボタンまできっちりと留められたワイシャツ。ワイン色を数本の白いラインで彩ったネクタイはきつく結ばれている。そういった、彼を熟練の教師足らしめている要素すべてを包み込んでいるのが、汚れひとつない白衣だ。
 津田森は、速水が思案に耽るその僅かな間に、間近に立つ中年美術教師の半身像を極めて表層的に捉えていた。
「では、こうしませんか」
 下ろされた手が、そのまま速水のスケッチブックへと落とされる。骨ばった指先が、退屈と苛立ちの名残に触れた。黒く塗りされた鬱屈が擦られ、空白との境界がうっすらとぼやける。
「津田森くんがひとつでも作品を仕上げてくれたら、私も何かひとつ絵を描く。これでどうですか?」
 嫌みのない微笑。交わされた視線を合図に、スケッチブックから遠ざかっていく指。
 津田森は、自身の心臓が、ど、と鼓動を速める音を聞いた。腹の奥で、ぞわりと熱が蠢く気配に、思わず目をそらす。
 気付いてしまったのだ。津田森は。紙面をなぞった指の腹。そこが黒く汚されているのを。
「……はい、決まり。じゃあ約束ですよ」
 返事も聞かぬまま、速水は他の生徒の席へと移動していく。その背に、津田森がかける言葉も、送る視線も、今はない。
 ただ『あの指を汚したのは自分なのだ』という充溢感だけが彼を支配していて、勝手に交わされた約束に異を唱えるどころか、ひとかけらの疑問すら抱いていなかった。

+++

 約束が反故にされることはなかった。
 だがそれは、津田森の約束に対する義務感や、教師としての速水の立場を慮っての結果ではない。単に彼が、黒く汚れた速水の指先を忘れることが出来なかっただけだ。
 津田森は、選択授業が始まってから初めて、まともに美術という教科に取り組んだ。授業は丁度、室内での静物デッサンから屋外での風景描画へと移行するところだったので、彼にとっても比較的楽だった。
 絵を描くという行為自体は、気乗りがするものではなかった。彼は美術が特別好きというわけでもないし、さして巧くもない。だが、適当に題材を見つけて素描きしたあと、色を塗る段階になってからは、絵を描くのも悪くはないと思えるようになっていた。
 心境の変化をもたらした最もたるは、使用した画材にある。描画には小中学校で使用していた水彩絵の具ではなく、アクリル絵の具を用いることになっていた。塗り直しがきかないうえ、滲んで扱いにくい水彩と違い、アクリル絵の具は乾けば上塗りで修正がきく。その点において、津田森にとって易しい画材だった。
 画材の優秀さが、津田森の意欲を底上げしたのは間違いない。しかしそれ以上に、彼はキャンバスを埋めるという行為自体に、えもいわれぬ魅力を感じ取っていた。自分の望んだ色で、自分の思うように白いキャンバスを少しずつ塗りつぶしていく、そんな行為に。
 とにかく、そういった諸々のことが功を奏し、学期末である七月には、風景画を一枚作品として提出することが出来たのだった。
 他の授業に先駆けて、選択授業はテスト後の一回をもって、学期内最終日を迎えた。
 その中で作品を受け取った速水が、約束に関してを口にすることはなかった。津田森にしても、言及しようとは思えなかった。これまでの頑ななまでに不真面目な態度とは正反対な行動に、さすがに気恥ずかしさを感じたからだ。
 津田森は、それまで速水に対して覚えていた奇妙な執着も含め、年齢特有の一種の特殊性願望であったのだろうと、自身に言い聞かせた。
 周囲も、大人しくなった彼の姿に、同様のことを感じ取ったのであろう。しかしそれを揶揄し責めたてる者がいなかったのは、他の生徒たちにも大なり小なり似たような経験があったからだ。

 終業式の日は、酷く暑かった。前日から既に真夏を先どった熱帯夜で、誰しもが寝苦しい夜を過ごさざるをえなかった。津田森も例に漏れず、寝不足と、それに伴う気だるさを抱えながら登校した。
 速水に対してのことを、思春期の気の迷いだと決定付けてからも、津田森のサボり癖はなりを潜めたままだ。牙を抜かれたようだと評してもいい。以前とは違う、どこか府抜けたような彼の変化に、数人の教師は学校の教育の賜物だと宣ったりもした。ともかく、今の彼に、理由なく学校を休むという選択肢が浮かぶことはなかったのだ。
 終業式に引き続き大掃除、そしてホームルームまで終わったところで、津田森の眠気は頂点に達した。どのみち、自宅に帰ってもすることなんてありはしない。それならばと、教室で少し仮眠をとることにした。夕方になれば、暑さも多少はましになるだろうとの期待もしながら。
 睡眠不足が予想以上に堪えていたらしい。目を覚ましたとき、教室内は既に夕日の色に包まれ始めていた。
 暑さによる気だるさこそ残るものの、睡眠は足りたようで、頭はすっきりとしている。殆ど空の鞄を片手に、津田森はのそのそと教室をあとにした。
 昇降口を出たところで、彼の足は唐突に歩みをやめた。脊柱を鷲掴みされたような衝撃。一瞬、呼吸が止まる。
 彼の視線の先、校舎の端から、白いものが半分覗いていた。裏庭に向いたそれは、確かに白衣を身につけた誰かの肩だ。その位置の低さから、恐らく椅子か何かに座っているものだと思われた。
 この学校において、白衣を身につける教師は複数いる。化学教師、家庭科教師、そして美術教師。しかし津田森は、あの肩は間違いなく速水であろうと踏んだ。理屈ではなく、直感で、だ。
 喉が勝手に、生唾を飲み下していた。
 脳が急に蝉の鳴き声を認識し始める。
 握った手が酷く汗ばみ出す。
 津田森の意識とは別の機構によって、足は動かされた。白い肩に向かって。
 美術教師は非常勤なため、授業以外で見かけることは殆どない。そのため、津田森が速水に会うのは、作品を提出したとき以来だ。
 気まずさが先立ち、かけるべき言葉が見つからないまま、実距離だけが縮まっていく。
「せんせ、――っ」
 津田森は、思わず声を飲み込んだ。
 そこにいたのは、予想に反せず速水だった。
 簡易な折り畳み椅子に掛けた彼の前には、立てられたイーゼルと、載せられたキャンバス。その上を、幾重の黒い線が走る。
 それを追っているであろう視線を手繰っていくと、見慣れぬ歪みに阻まれる。レトロな色調をした円形の金属に縁取られたものは、眼鏡だ。
 津田森の立つ位置からは、レンズ越しに肥大化した世界が見てとれた。
「ああ、津田森くん」
 ようやく背後の気配に気がついた速水が振り返る。鉛筆を握ったままの手が、眼鏡を少し下げた。見上げられるのは初めてだった。
「絵、描いてんだ。先生」
 視線を合わせないよう僅かにずらす。
「約束したからね」
 津田森は確証が欲しかった。そして今、他でもない速水の口から、それを得たのだ。
 次の瞬間、津田森の目は速水の白衣へと向けられていた。袖口が黒く汚れている。
 速水に絵を描かせる要因となったのは津田森だ。つまり、間接的にとはいえ、白衣の袖口は汚したのは津田森だといえた。
 このことは津田森を酷く興奮させた。だが、ふつふつと沸く衝動のやり場を彼はいまだ知らないままだった。
「本当は、完成してから見せたかったんですが……ほら、この通り、老眼鏡をかけないと手元がよく見えないんですよ。いかにもおじさんみたいで、格好悪いでしょう」
「そんな、ことは」
 普段通りに接せられ、虚勢を張ることもままならない。
「その、先生が描いているところが見たかったので」
「そう」
 下げた眼鏡レンズの向こうから上目に見つめられ、津田森は居たたまれなくなる。嘘をついたところで、すべて見透かされているような気さえした。
 夕日が色を濃くしていく。速水の白衣が、うっすらと同じ色に染まる。
 白衣を意識すれば、どうしても袖口に目がいってしまう。もはやこの場に留まり続けることは、困難に思われた。
「俺、帰りま――」
 引こうとした体を、腕を掴まれ制される。鉛筆を握っている手だ。汚れた袖口が、津田森の腕に触れていた。思わず鞄を取り落としていた。
 布地の僅かな硬さが、津田森を誘った。
 体の内側から、一挙に熱が押し寄せる。
 熱の波が、津田森の意識を浚った。
 津田森は吠えた。獣のように。

 我に返った津田森は、すぐには自身の置かれた状況が飲み込めなかった。あまりにも衝撃が大きすぎたためだ。
 津田森は、地面に膝をついて速水の腕にすがっていた。白衣の袖はどこか草臥れた感じで、また、汚れた袖口をはじめ、あちこちがべっとりと湿っている。
 呆けた様子の津田森を、今度は速水が見下ろしていた。老眼鏡の向こうから、僅かに肥大化しているであろう青年の姿を、いつものように細めた目で見つめている。ただ口許だけは、厭らしい企みの滲む笑いを湛えて。
「これは、違……、何かの間違いで……」
 袖に付着した染みの原因に思い当たり、狼狽える。白衣から手を離し、逃げ出そうとはしてみたものの、すぐに速水の腕に腰を捉えられ、阻止された。
「勝手に間違いとされては困りますね」
 くつくつと喉が鳴る。速水は空いた手でワイシャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた。それらを為す骨ばった指はこれ見よがしに鉛筆で汚れていて、津田森の未分化な劣情を余計にも煽る。
「津田森くん、絵を描くのは愉しかったでしょう?」
 速水は津田森の耳に唇を寄せた。日中の日差しよりも熱い息が、頭の芯を溶かしていく。
「自分の思う色を塗りたくる。そうやって、白を征服するのは……さぞ、気持ち良かったのではないですか」
 速水の声が津田森の耳を犯し、言葉は意味を失っていく。単なる音と化したそれらは、神経に作用し、全身を甘く痺れさせた。
「私もね、今、すごく愉しいんです」
 津田森はぼんやりとした頭で思う。最初からすべて、この教師によって計算されていたことだったのだろうか。自分の中にあるあられもない欲望を察知して、それを表出させるために彼が張り巡らせた罠だったのかもしれない――と。だが、それが互いにとって、最もたる幸いであるようにも感じられた。
「せんせ、約束……を、」
 掠れた声で乞う。
 速水に絵を描かせたのは津田森だ。そうやって、速水の白衣を、津田森は汚した。そして、津田森に絵を描かせたのは、速水だった。
「素直な子は好きですよ。とても、ね」
 速水は、津田森のワイシャツ越しに、その肩に歯をたてた。
 津田森は、そうなってようやく、新雪を踏みしめる恍惚を味わうことができたのだった。

(了)