陽炎

霧雨の夜(2/2)



「……あなたがまだ、この先が欲しいと思うなら、それはやっぱり私と同類ということだよ。私たちは、征服欲を抑えきれない、哀れで汚れた、だけど最も幸福な人間なんだ」
 先程唇を重ねたばかりの相手を突き放すように言う。そんな私の手の甲の上、こびりついた彼の純情が、薄らとした罪悪へと変わっていった。
 暗い窓の外。雨の音は聞こえない。昨晩から変わらず水の増えなかったであろう沢には、その内側の桜色を露にした、若い女の死体が曝されている。いや、もはやそこにそれが存在しているかどうか。沢の水が少ないが故、動物を引き寄せ、それらにすっかり食い荒らされてしまったか、或いはこの生温かな空気によって、既に腐敗が始まってしまっているかもしれない。そう考えると、雨は降っていなかったのだろうかとも思えた。
「……じゃあ、お前はいつになったら満たされるってんだ。女をたぶらかしては殺して、食って。お前が欲しいものが本当にそれだってんなら、お前はとっくに満足してるはずなんじゃねえのか」
 彼は身を屈め、しかし視線は私に向けたまま、床に放っていたブルゾンを拾い上げた。
「支配欲は新たな支配欲を生むんだよ。だから私は、女の子を綺麗にするだけじゃなくて、食べた。この欲求は、死ぬまで永遠に繰り返すんだ。それはあなたにもいえる。
 私を手に入れたい。だけど私は手に入らない。私が見ているのはあなたじゃないから。だけどあなたは求め続ける。もしかすると私が振り向くかもしれないと考えるから、見たくないものは見ないふりをする。そしてそれだけじゃあ飽き足らず、あなたにとっては本来憎むべき犯罪の片棒を担いでる。そうすれば少しだけ、私があなたの内にあると思えるからだ」
 私はソファからゆっくりと体を起こし、床に足をつけ、彼と向き合った。室内に充満する、息が詰まりそうな湿度が全身にまとわりつく。シャツが胸に張りついている。今すぐ着ているものを脱ぎ去ってしまいたいほどだった。
 言葉での反論はない。だが、彼の目は正直だ。
「あくまでもそうでないと言うなら、今晩も、また、いつものように見ないふりをすればいいんだ。私が捨てておいてと頼んで渡す、丁寧に畳まれた女物の服やら鞄やらを、そしらぬ顔で受け取ってみたらどう? ありがとうと言って私が笑ってみせれば、それだけで満たされた気分になるんじゃないの。あなたは」
 一歩、彼に寄る。
 一歩、彼が後退る。
 あの日と同じ光景だった。

 ――あの夜は、酷い雨が降っていた。
 大きな雨粒が、生い茂る木々の葉に打ち付け、するりとまた別の葉の上にこぼれ、それを何度か繰り返し、やがて枯葉をくすぐるように地に落ちる。その落水の音が数珠のように連なり、さらには無限に重なり合って、他のものから悉く音を奪っていた。
 車のヘッドライトの光は、木々に衝突し、歪んだ明かりを私の元に届ける。
 沢の水は静かに流れていた。僅かに土色をしたその中に、血の赤が混じる。
 水面から突き出された白い鼻先。紅い唇はぽっかりと闇を湛える。その闇を蹂躙する、沢のものとも雨ともつかない水は、切り開かれた腹から汚れを纏って排出されていく。どろりと濁った瞳が、水の下から宙を見ている。長い黒髪は、周辺の闇に融けていく。顔、手、足、それらが描く輪郭は明確でない。雨で速まった水の流れがそうしている。
 むせかえるほどに辺りに満ちた雨のにおいが、死の香りを打ち消していた。
 背後から沢を照らす光が、不意に二重になった気がした。私はそれを、土砂降りの雨が見せた錯覚であろうと思った。
 だから、気付いた時には既に彼が私の後ろに立っていた。音も無く。私は彼に向けて、ああ、と嘆息とも呼びかけともつかない声を漏らした。しかしその声は、すぐに雨に呑まれた。
 彼は苦しげな表情を浮かべていた。それは痛みを堪えているようにも見えた。
 私は彼に、一歩、歩み寄った。彼は焦ったように、後ろに下がった。
 雨が葉を打つ。その連鎖。彼が、朽ちた葉で覆われた地面を、靴底で踏みしめる音もしない。
 逃げないでよ、私の声は私自身にも届かない。
 彼が口を開く。ゆっくりと、言葉を放つ。しかしその音もまた、雨によって奪われていった――
 
「……ズレちまってんだよ、お前は。言ってることも、やってることも、考えてることも」
「ズレてるって? おかしなことを言うね」
 彼は、手にしたブルゾンの内側をもう一方の手で探る。
「あなたこそ、私とは感じている季節が少しズレているみたいだ」
 私はブルゾンを指差した。体格のいい彼が身に着けていたものだけに、サイズも大きい。体のラインを隠すように、幅に余裕がある。
「そうだ、俺だってズレてる。とっくに狂ってんだ、俺も、……お前も」
 ブルゾンが、再び床に落ちた。同時に彼の腕が真っ直ぐ伸ばされる。手に握られていたのは、鉄色をした正義の執行者。そのマズルが、私を狙っている。トリガーにかかるごつごつと太いひとさし指は、いかにも窮屈そうでいて、しかしその様子は私を大いに満足させた。
「ああ、そんなことをして。きっと減俸だよ。それとも懲戒免職かな? どっちにしろ、上からこっぴどく叱られるね。バレたら大事だよ、それは、あなた、本当に大変なことだよ、解っているの」
 熱に浮かされたように早口でまくしたてる。私の胸は、純白の死体を眺めている時や、女たちの肉をこの舌にのせる瞬間以上に踊っていた。
 私にとって価値のある、そして私が利用してきたその純情が、私から離れていく。正義のもとへと還っていく。悪を悪とも思わぬ私が唯一拭いきれなかった罪悪は、ついに今宵、霧雨に呑まれて消え失せることだろう。
 親指が、徐々に撃鉄を起こしていく。その顔は険しい。
「なあ、お前は本当は、早く俺に捕まえて欲しかったんじゃないのか。だから昨日、俺の前に現れてみせた。証拠が多く残るように、雨の降らない夜に、女を殺した。……もしそうなら、俺は――」
「くどいよ」
 こちらに向けられた銃口が、微かにぶれる。私は、自身の興奮が高まるのを感じた。鼓動が速い。これはきっと、初めて川の中で揺れる白い女の裸身を目にした時と同じ速さだ。
「あなたがここへ来たら、雨なんだから」
 彼は、雨が降れば私のところへ来る。私が女を殺していたとしても、雨が全てを洗い流しているから。つまり女を殺す時は、雨が降る時で、そして彼がここへ来る時で、私が女を殺せば、彼が私の元に来て、だから私は、雨が降ると彼がここへ来るから、女を殺していたのだけれど、雨が降らなければ彼はここには来なくって、でも彼がここにいるからやはり雨は降っていて、だからやはり私は女を殺したのだろう。
「そう言うだろうと思ったよ。お前なら」
 彼は憎々しげに言い放つ。私は微笑する。
「……ずっとこうして雨が降るなら、あなたとまたここで、キスをしてもいいかもしれないね」
 私は数歩足を進め、向けられた銃口に自ら胸を押し当てた。シャツ越しに、冷徹な硬さが伝わる。銃身を通じて、私の鼓動が彼に伝わっているかもしれないと思うと、余計に興奮が増した。
「雨が止めばな」
「そうすればあなたは来ない」
「俺はこうしてここにいる」
「それは雨が降っているから」
 互いが放った短い言葉が繋がる。それは雨音の連なりにも似ていた。
 ふと彼が表情を崩した。口元が柔らかく緩む。あ、と私は思わず声を漏らした。それを最後に、心臓が、動きを止めた。呼吸が詰まる。思考が停止する。そういう錯覚を、私は受けた。それはまさしく、死だ。私が見知らぬ幾人もの女に与え続けた死そのものだった。
「話にならん」
 彼が不貞腐れたように零して、ふん、とひとつ鼻で笑った――気がした。
 刹那、急激な空気の膨張。次いで破裂。耳から耳へ、鋭い音が脳を貫く。そして私を闇が包んだ。

               * * *

 鼻腔を満たす血の臭いで、私は目を覚ました。床に倒れ伏していたようだ。ぼやけた視界は、一面赤黒い。床に手をつく。そこはぬるりとして、加えた力が逃げていく。それでも何とか体を起こした。
「ああ」
 私はそれを目にして、落胆に肩を落とした。
「また間違えてしまったんだね」
 端が黒く固まりかけた血液の海の真ん中で、彼は死んでいた。仰向けに倒れ、喉元から打ち抜かれた頭の周囲には、骨片とも肉片ともつかない何か、或いは彼の純情を生みだしていた大本のそれが、血と髄液にまみれて散らばっていた。
 彼が、彼の正義をもって打ち抜くのは、私の胸であるべきだった。彼の純情を弄び、天秤を狂わせた、その元凶であるべきだったのに。
 私は、拳銃を握ったままの、彼の手にそっと触れた。そこに生きていた頃の温度はなく、そしてすでに死の硬さを帯びていた。私にとって、彼の少女めいた純情は、水で清められた女と、同一であったのかもしれない。ならば、彼を水で清めれば、再び彼の純情は私の元へ還るのではないか。確かな死を指先に感じながら、私はふとそんなふうに考えた。
 そして、可笑しくなる。私は、彼の純情が、私から離れていくことを喜んでいたというのに、失った今、こうしてその純情を再び取り戻したいと思っているのだから。

 彼の両脚を掴み、私は彼を血の海から引きずり出した。彼の身体は、思った以上に重かった。鍛え上げられた筋肉によるものかもしれない。私が手にかけた女性らもみな重かったが、彼はその比にもならない。
 部屋の中をそうして運んでいる間、彼の腕が、頭が、壁の角や家具に時折ぶつかった。その度に、私は彼に向って、ごめん、と声をかけた。玄関に降りる際は、二十センチほどの段差があったものだから、彼の傷ついた後頭部から、さらに色んなものが零れ落ちるのではないかと心配になり、大丈夫、と尋ねてみたが、当然のように彼からの答えはなかった。ただ見開いた目が、虚ろに宙を見ているばかりだった。彼の身体のそばには、彼のスニーカーが、左右バラバラに転がっている。
 玄関戸を開ける。彼と共にロッジの外へ。湿り気を孕んだ清浄な空気が、土・朽木・枯葉、膨張したそれらの匂いと絡み合い、肺を満たしていく。そこに、僅かに彼が放つ死の香りが一筋、混入する。見上げた木々の隙間からは、白の混じり始めた夜の名残が目に映った。一歩踏み出す。硬い地面が、靴底を押し戻そうとしている。
 鼻頭に、頬に、水滴が落ちた。ぱらぱらと、頭上の高いところで、滴が葉を打つ音が聞こえる。遠くで郭公が鳴いていた。
「ああ、雨かな」
 振り返る。彼の身体は相変わらず血に塗れていた。彼は、雨が降っているとも、降っていないとも言わない。しかし、彼が選んだその沈黙を、私は酷く愛しく思った。
 彼の両脚から手を離すと、重力に従ってそれは落ちた。地の上に仰向けになった彼の傍らに、私は跪く。天から落ちる滴が、彼の眼球の上に落ち、涙となって目尻から零れた。私がそれを血塗れの指先で拭うと、途端彼の頬に、恥じらう処女のように朱が差した。
「今、もう一度キスをしたら……きっとあなたは怒るだろうね」
 彼の耳元に口を寄せ、私は囁いた。自分の身勝手さに、思わず苦笑が漏れる。
 木々がざわめいた。夜明けの風が、柔らかく肌を撫でていく。
 私は、彼の唇に、再び自身の唇を重ねた。今度は、瞼を閉じて。幾度も出会ってきた終の温度。その僅かな隙間から、さらに奥へと舌先を捻じ込めば、そこには濃厚で硬質な死の味が満ちていた。唾液と共に、それを飲み下す。喉が鳴る。胃へと落ちていく彼の死の証は、やがて私の一部となるだろう。
 舌を抜き去り、その際に、彼の唇にそっと歯を立ててみる。そこは、彼の身体の一部でありながら、決して硬くなく、しかし死んだ女たちの肉の柔らかさとも少し違う。この無慈悲な感触をもって、私の胸は、音もなく、しかし確実に打ち抜かれたのだった。
 木立の合間を縫うように、朝はやって来る。霧雨が止んだのは、一体いつのことだったか。
 私の手指には、雨によって流されなかった僅かな罪悪が、いまだ絡みついたままだった。
(了)