陽炎

有意義な逡巡



 自身の唇に指で触れる癖がついた。真木がそのことに気が付いたのは最近になってからだが、恐らく二か月ほど前から始まったことだろうとは、当人もすぐに予想がついた。丁度、タバコを吸わなくなった頃だ。
 大学に入ってすぐ、タバコを覚えた。それから三年間、タバコを喫まなかった日はほぼない。嗜好品としてのタバコを好んだというわけではなかった。ただ、紫煙が肺を支配し、体中の酸素が奪われ、思考力を失っていく、そのどろりとした感覚が、彼の性に合っただけのことだ。
 真木は酷く怠惰な性質だった。幼少時から、努力はみな虚しいものだと既に決めつけている。最低限の行動で、大きな流れに身を委ねることでこれまで生きてきた。大学への入学も、極めて打算的ともいえる態度が生んだ結果だった。

 アルバイト先のコンビニからの帰り道だった。この日初めて、彼が自身の唇に触れたのは。
 午後五時を予定していた退勤時刻が大幅に遅れた。次のシフトに入っている学生が、出勤時間になっても現れなかったのだ。店長が連絡を取れば、時間を勘違いしていたのだという。仕方なく、真木は予定外の品出し作業をさせられる羽目になった。解放されたのは本来の退勤時刻から二時間以上経ってからだ。
 触れた唇が、酷く乾いている。アルバイト中、ろくに水分補給もしていなかったことに気付く。
 のったりとした歩調で、背を丸め気味に歩きながら、真木は視線を街並みへと向けた。
 週末ということもあり、立ち並ぶ飲食店はどこもそこそこの盛況ぶりだ。賑やかな声が、時折外まで漏れ聞こえてくる。行き交う人々も、その多くが酔いのためにか陽気な様子だ。真木の眉間に皺が寄る。
 夜の繁華街は太陽よりも眩い。真木は明るい場所が苦手だ。自分は日陰の住人なのだと、痛いほどに理解しているためだ。こういった場所も、本来はあまり好まない。サークルの付き合いで訪れることもあったが、それは受ける不快感以上に益が大きかったからに過ぎなかった。
 指の腹が、強く唇を擦る。無意識だった。爪がひっかかって、乾いた薄皮が捲れる。舌に血の味が広がって、湧き上がる苛立ちに思わず爪を噛んだ。
 視線を落として歩みを早める。自身の暮らすアパートに戻るためには、繁華街を超えた先にある駅から電車に乗らなくてはいけない。真木は一刻も早く帰宅したくて仕方がなかった。

 ふ、と知った香りが鼻をかすめた。もうすぐで繁華街を抜けようかという時だ。真木の足は自然と止まる。傷ついた唇をひたすらに慰めていた指先は、ようやく休息を与えられた。
 焙煎物特有の、豊かで広がりのある、濃密な香り。出所はすぐに知れた。ガラス張りの店構えから、内部を柔らかく照らす明かりが漏れているカフェだ。テラス席があり、そこで数人の男女が各々別の席についている。テーブル上には、店のロゴマークが入ったカップ。褐色の液体が覗いている。食事時であるせいか、店内に客はまばらだ。
 アパートに帰りつくまで、早くてもあと四十分はかかる。ならば、と真木は思う。苛立ちを引きずって帰路を急ぐより、ここでコーヒーを飲んで、気をまぎらわせてから帰った方がいいのではないか。帰宅したところでそこには彼を待つ者はないのだし、不愉快な気分のままひとり眠りにつくのも癪だった。
『カフェに立ち寄ることは今の精神衛生上適切な流れであって、決してこの香りに惹かれたわけではない』
 カフェの前を何度も往復して、自分にそう言い聞かせてからようやく、真木は店の入り口へと足を向けたのだった。

 木製のカウンター上に、ラミネート加工されたメニュー表。そこに踊る長ったらしい横文字の羅列を、真木は焦るでもなくぼうっと眺めていた。対応する店員が困惑気味の表情を浮かべていることにも気付かない。意を決して入店したものの、難解なメニューから目当てのものをすぐに探し出せず、注文するのが億劫になってしまっているのだ。
 店内は、コーヒーの香りで満たされている。普段であれば、彼が指一本動かさず、またたったの一語も口にせずとも、それは供される。ある人物によって。
 その人をふと思い浮かべた瞬間、酷く気怠くなった。目眩がする。指先が唇に吸い寄せられていく。薄皮が剥け、所々赤みが差している。
「お客様……?」
 急に顔色が悪くなった真木を、店員が怪訝な顔つきで覗き込んできた。それを避けるように、目線を下げる。唇がひりと痛んだ。
「アメリカンのSをふたつ」
 背後から店員に向けて声が飛んだ。店員はそれを受けてようやく営業用の表情を作り直し、注文を復唱する。後ろから伸びた手が、代金の受け皿に小銭を落とした。
 真木は徐に振り返る。
「……海田」
 そこにいたのは、以前所属していたサークルの後輩で、海田という男だ。もっとも、先輩後輩という関係以上に、ふたりの間には肉体的な深い親密さがある。ただし、この関係性には、スプーン一杯分の砂糖ほどの甘さすら含まれていないのだが。
「真木先輩は好きな席に座って待っていてください」
 笑顔で「いいですね」と念を押され、真木はふらふらとした足取りでカウンターを離れ、手近な席に腰を下ろした。さほど時間を置かずに、海田が飲み物をトレイに載せて運んでくる。磁器のカップに、見慣れた褐色の液体。鼻をくすぐる香ばしさが、頭の芯を痺れさせた。
 カップに手を伸ばしかけて、真木は海田の表情を伺う。それは彼の習慣だった。海田の前では、真木は『海田の指示なしに行動を起こすことができない』のだ。他人の指示で動くことほど楽なものはない。全ての責任を指示者に押し付けてしまうことができるし、何より行動に伴って思考する必要がない。元より受動的であった真木を、より怠惰な性質へと変えたのは、他でもない海田だった。
「飲みたかったんでしょう? どうぞ」
 真木に許しを与えて、先にカップに口をつける。真木はそれを見届けてから、改めてカップを手に取った。白い縁に唇をつける。薄皮の捲れた部分がわずかに染みる。口腔に流れ込んでくる熱い液体。ほろほろと崩れていく苦味を追って、酸味の大波が押し寄せてきた。期待していたものとは違う味だ。欲しかったのは、タバコの代わりに思考を停止させてくれるような苦さだというのに。ひとくち飲み下し、カップの中で揺れる残りを見つめる。真木の心中を察したように、海田は真木のカップを奪うと、中身を飲み干した。
「熱くねえの」
「ええ」
「……ふうん」
「どうして僕がここにいるか、訊かないんですね」
「別に……」
 真木にコーヒーの味を教えたのは海田だった。乱れたベッドの上で身動きひとつせずに視線を漂わせる真木の前に、繰り返しコーヒーを出したのも、勿論彼だ。この二ヶ月、それを黙って受け続けることで、真木は海田にすっかり飼い慣らされた。
 今日だって、はじめから海田の元を訪ねていれば、きっといつものように真木の前にはコーヒーが差し出されていただろう。そうしなかったのは、単に海田が「来い」と言わなかったからなのだが、それでもこうやってひとりでカフェに立ち寄っていたところを見つかってしまうと、少なからずの気まずさを感じざるをえなかった。
 いっそ責め立ててくれれば楽だと真木は思う。これまでも、何度かそう感じた。だが、海田が真木を責めたことは一度もなかった。
「……カップ」
 海田が呟く。
「お揃いですね」
 その声は、どことなく弾んでいた。
 ふたりの間に置かれた磁器製のそれ。真木の唇が当たった箇所に、わずかだが血が付着している。海田の唇も、そこに触れただろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎる。だが、深く考えることはしない。
「全部同じ柄だろ」
「そうですね。そうなんですけど、ね」
 真木の素っ気ない返答に、海田は苦笑した。

「真木先輩、食事はまだでしょう?」
 店を出るなり、海田が真木の手を掴んで尋ねてくる。アルバイトが長引いたため、夕食のことはすっかり忘れていた。きっとアパートに戻っても、何も口にせずにそのまま寝てしまったことだろう。正直にひとつ頷く。
「それなら良かった。うちで食事にしましょう。先輩の分も用意してありますから」
 嬉しそうに言ってから、海田は真木の手を引いた。真木も黙ってそれに従う。しばらく歩みを進めていくが、しかし急に足を止める。
 そして後ろを振り返り、一転不安げな表情で真木の目を見た。
「来て、くれますよね」
 真木は思わず目をそらした。だがそれだけだ。手を振り払うことはしない。できない。真木には拒否という選択肢は用意されていなかった。それは、海田だって承知のことであろうに。
 真木の沈黙を肯定と受け取り、海田はまた「良かった」とこぼした。
「食後にコーヒー、淹れますからね」
 ああ、と短く返す。足が重い。少し疲れが出たのかもしれない。
 ここから海田のアパートまでは、真木の居住地よりも近い。駅からは少し離れているが、電車を使わないで済む分早く着く。アパートに着けば、あとは海田が全てをやってくれるはずだ。
 すっかり覚え込んだ苦味を、舌が勝手に反芻している。記憶の中の味が、真木から徐々に思考力を奪っていく。
 夜の街を、真木は背をわずかに丸めて足早に歩いた。ただ、その手を引かれるままに。
(了)