陽炎

終わる夏と終わらないもの(1/4)



 降り注ぐ太陽の光は刺さるように鋭く眩しい。それによって熱された空気はなかなか冷めることがなく、指先を動かすことすら億劫な猛暑日が続いている。
 エアコンで冷やされた部屋の中で過ごせるのならば、暑さも幾分かましなのだろうが、悲しいかな、俺は酷い冷房病持ちだ。電気によって人工的に冷却された空気を僅かでも浴びると、たちまち激しい頭痛に襲われ、すぐに寝込むはめになる。
 だからそんな俺が、夏に体を冷やすためには、扇風機の風を独占するしかない。進んでそうしているわけではない。あくまで、仕方なくそうしているのだ。
 夏休みの間、特にすることはない。宿題は既に片付けてあるし、友人も、俺の暑がりな性質を理解してか、去年も一昨年も、そして今年も、夏休みの間は何の誘いも持ちかけてこなかった。
 することがない、というのは大変に困るものだ。何かすることでもあれば、それに集中できるから、暑さも多少は誤魔化せるだろう。けれど何もすることがないため、暑さばかりが気にかかる。とはいっても、何かしたいことがあるかといえばそうじゃない。どちらかといえば、何もしたくない。だらだらと、自堕落に日々を過ごしたいのが本音だ。だがそれ以上に暑いのは苦手だった。
 だから俺は、夏が嫌いだ。こんな季節は早く終わればいいと思っていた。

 八月二十七日。夏休みも終わりに近付いた今日も、相変わらずやることはない。俺は昼頃のっそりと寝床から出て、それからリビングに置かれた扇風機の前で、横になってテレビを眺めていた。特に観たい番組があるわけでは、もちろんない。適当に回しておいたチャンネルでは、人間関係がやたら複雑なドラマが、何本か立て続けに放送されていた。
「もー、おにいちゃん、じゃまー」
 妹に背中を叩かれて、はっとした。どうやら眠っていたようだ。
 時刻は午後三時。寝ぼけ眼のぼやけた視界で捉えたテレビでは、いつの間にかワイドショーが始まっており、画面の中に映し出された派手な色のパネルには、大きく『××××と○○○、電撃婚!』と書かれている。どうやら人気芸能人同士が結婚したらしい。俺は、そのどちらの名前も知らなかった。
「おにいちゃんてば、どいてよー。わたし、ミッキーみたいんだから」
「あー……分かった、分かったから揺するな……花菜、頼むから」
 扇風機の前に横になった俺をどかそうと、妹の花菜が、小さな手で、背中を必死に押してくる。寝転んだまま体を前後に揺すられ、血圧が低い上寝起きの悪い俺は、軽い目眩と吐き気を感じた。
「はやくーはやくーミッキー!」
「ま、待て、どくから押すなって……」
 妹はまだ幼い。俺とは歳が一回り離れていて、先月六歳になったばかりだった。そんな妹に、俺の言い訳など通じない。それに自分の意思が通らないと察すると、花菜はすぐに泣き出してしまう。全て自分の思い通りになるなどと思わせては、教育上よくないのだろうが、やはり俺にとっても妹は可愛い存在なので、出来れば泣かせたくはない。
 俺はふらつく頭を抑えながら、何とかゆっくりと、体を起こした。
「ほら、どいたぞ。ミッキー観な」
 妹に扇風機の前を譲り渡すと、リビングと床続きになっている食卓に、ふらふらと移動する。ダイニングテーブルの前に置かれた椅子に、俺は重い体を預けた。
 花菜は俺のことなどもう眼中にないようで、リモコンでDVDデッキを操作し、お気に入りのアニメを再生している。ミッキーに負けたのだと思うと、兄として少し悲しくなった。
「あ、おにいちゃん」
 そんな俺の想いが通じたのかは知らないが、花菜がこちらを振り返った。DVDの再生は、ちゃんと一時停止ボタンで停めていた。
「さっき、でんわなってたよ」
「電話? ……多分メールだろ」
 花菜の言葉に、俺は首を傾げた。傾げた瞬間に、また少し目眩がした。
 最後に着信があったのがいつだったかすら分からないぐらい、俺の携帯電話には誰からも連絡がない。友人から時々メールが来るが、送ってくる相手は大概ひとりだし、そいつから送られたメールには、返信の必要もないほど他愛もない話題しか記されていなかった。
「でも、いっぱいなってたよ。でんわだよ」
 そんなメールが一気に何通もくるはずもない。妹がそう言うのならば、やはり着信なのだろう。せっかく椅子に座ったばかりなのに、何て面倒なことが起きてしまったのだ。携帯電話は、今さっきまでいたリビングのテレビのそばで、充電コードに繋いだまま、床に放っている。
「……そうか。分かった。いいぞ、俺のことは気にせず、花菜はミッキーを楽しんでくれ」
 そう促すと、妹は軽く返事をして、テレビに向き直ると、またDVDを再生し始めた。
 仕方なく再び立ち上がり、テレビ画面に視線を注いでいる花菜の邪魔にならないように、壁に沿ってそろそろと移動する。テレビのそばで体を低くし、手を伸ばして携帯電話から充電コードを外した。折り畳み式のそれは、着信を報せるランプを点滅させている。
 開けば液晶画面に『不在着信』の文字。妹の言った通り、電話がかかっていたようだ。
 食卓に戻りながら、キーを操作する。着信時刻は、俺がリビングで寝入っていた間だ。発信元電話番号に加え、そこには意外な名前が表示されていた。
「……あさひ?」
 思わず呟く。
 発信元は、日野崎あさひ。一応、親しくしている友人ではある。しかし、これまであさひから俺に電話がきたことなど一度もない。あいつからくるのは「今日食べた購買のパン美味しかったよね」だとか「明日は体育のテストだけど跳び箱七段は絶対無理」など、どれも女子が送ってくるような、返信に困る内容のメールばかりだった。
 ともあれ、そんなあさひがわざわざ電話をかけてくるのだから、何か話があるのだろう。
 俺はまたダイニングテーブルの前に陣取ると、不在着信表示の画面からリダイヤルボタンを押した。すぐに呼び出し音が鳴り始める。受話部を耳にあて、相手が出るのを待つ。
 三回のコールの後、
『もっしもーし』
 呼び出し音が途切れると同時に、聞き慣れた声が、電話特有の膜を通したような響きをまとって、耳に届いた。俺のように低くなく、かといって女子のように高いわけではないあさひの声は、跳ねるように軽い。
「おー。あさひ、さっき電話したろ」
 俺が声を発すると、電話の向こうから、僅かにずれて俺の声が聞こえてくる。その声がまた、膜を何重にも通したふうに聞え、また、自分の声を客観的に聞くという気恥ずかしさから、用件を聞き終える前に電話を切りたい気分になる。
『なにそれ、耕ちゃん、いきなり本題いっちゃう? 久しぶりなんだから、もっとこう、色々積もる話がさー……』
 それなのに、電話口からは不満げな声。
「……切るぞ」
 呟くように一言返す。
 あさひの軽い調子には、既に慣れているつもりだったが、寝起きの俺には受け流す気力もない。それに、暑いせいか体がだるい。
 横目で花菜を見る。扇風機の風を、その小さな体一身に浴びていた。テレビを食い入るように見る妹の目は、大好きなミッキーの活躍により、きらきらと輝いている。
 この電話を切ったらシャワーでも浴びよう。それも、ぬるま湯じゃなく、うんと冷たいやつだ。
『わわ、待ってよ耕ちゃん!』
 電源ボタンに指が伸びかけたところに、制止の声がかかる。
『その感じはもしかしなくても寝起き、だよね……。ごめん、起こしちゃって』
 俺の声はそんなに不機嫌そうに聞こえたのだろうか。まあ、本気で電話を切ろうと思ったのは確かだが。
 しかし、珍しくしゅんとしおらしくなったあさひの声色に、さすがに申し訳なくなり、
「いや、先に妹に揺すり起こされた。……別に、お前の電話のせいで起こされたわけじゃねえよ」
 咄嗟に言い繕う。電話越しというのは、どうにもやりにくいものだと思う。
 顔を見て話せば、俺が本当に嫌がっているかどうかくらい、あいつにも分かるだろう。相手が本気で拒否していないと見えれば、軽口も口にするが、本気で嫌がっているのを察すれば、巫山戯たことは絶対にしない。あさひは、小学生みたいに騒がしいし、我儘なところもあるが、不思議と他人の気持ちを察することだけには長けているようだった。
 俺にとって、元々あさひはあまり得意なタイプではない。しかしそれでも無碍にできないのは、あさひ自身が、その場その場で俺との適切な距離をとってくれるからだ。
 だから、電話はだめだ。こんなまどろっこしいやりとりは、さっさと終わりにしたかった。
『…………そうなの?』
 俺の言葉に、あさひは多少安堵したようだ。声の調子がやや明るくなる。
「そうだよ。で、用件は?」
 首筋に汗が垂れる。
 リビングの窓際、引かれたレースのカーテン越しに、夏の日差しが差し込んでいる。ああ、外は暑いのだろう。家の中も十分に暑いが。
 妹が独占している扇風機のぬるい風は、俺のいるダイニングまでは届かない。
 目を閉じる。電話口の声に集中する。そうすれば、少しは暑さが紛れるのではないかと思ったのだ。
『あ、うん。あのさ――急なんだけど、今晩、〈オマツリ〉に行かない?』
〈オマツリ〉という音が、意味をなさずにぐるぐると回る。鈍った頭で考え、
「〈オマツリ〉」
 口に出す。
『そう、お祭り』
 もう一度繰り返しされて、そこでようやく、あさひが何を言いたいのか理解した。
 夏祭りなんて、もう十年近くも行っていないから、そんな催しのことすら忘れかけていた。何しろ、俺の家から歩いて行ける範囲で夏祭りは開催されないのだから、それも仕方ないだろう。
「どこの? ……ていうか、何で急に。去年も一昨年も誘ってこなかったろ」
『耕ちゃん家からは、ちょっとあるんだけど……七尾台の神社』
 七尾台は、通っている高校がある地域だ。俺は校区外から受験したので、その地域までは電車を使わないと行くことができない。あさひは神社がある七尾台に住んでいると聞いたことがあるから、きっと幼い頃から慣れ親しんだ祭りなのだろう。
『去年までは……耕ちゃん、ほら、暑いの嫌いだから』
「今年も十分暑いぞ」
『今年は……うん、暑いけど……行こうよ、お祭り』
「あー……」
 目を閉じたまま思考をめぐらせる。レースカーテンの向こう側を想像した。灼けたアスファルト。そこから立ち昇る陽炎。肌に刺さる鋭い日差し。
 七尾台までは電車で三十分。自宅から駅までは徒歩で十五分だ。現在時刻が恐らく三時半過ぎ。祭りの開始時間にもよるが、遅くとも五時ぐらいには家を出なければいけないだろう。午後五時。きっとまだ暑さは厳しいはずだ。
「……遠慮しとくわ」
『えっ』
「暑いし」
『……どうしても?』
 また、あさひの声がひそめられる。
「どうしても」
 罪悪感にかられながらも、結局俺は暑さと面倒臭さに負けて、そう答えた。
『分かった……ごめん』
「おー」
『じゃあ、〈三人〉で行くね』
 案外あっさりと諦めたな、と思ったのも束の間、
「……は? おい、あさ――」
 消沈した声で、あさひはそう言い残して電話を切った。
 ぱっと目を開ける。電灯が切られた室内すら、差し込んだ日差しで眩しい。思わず目を細める。その細めた目で、手にした携帯電話を見た。液晶画面には、既に待受画面が表示されていた。
 ――三人。
 その言葉に、苛立ちが募る。やり場を失った感情に任せて、ダイニングテーブルの足を、軽く蹴った。がた、と激しい音がする。
「もー、おにいちゃんうるさーい」
 すると、テレビ画面を注視したままの妹に叱られた。
「悪い……」
 妹に向かって謝り、そして再び携帯電話に目をやる。キーを押し、着信履歴を呼び出す。
『日野崎あさひ』
 表示された電話番号に、二度目のリダイヤルをする気にはなれなかった。
 俺は、携帯電話を折り畳んでテーブルの上に投げた。大きな音がして、妹がこちらに向かって何か言ったが、頭の中には入ってこない。頭が、体が、とにかく無性に熱かった。

 冷たい水が、壁にかけたシャワーヘッドから雨のように降り注ぐ。酷く熱を持っていた体は、嘘のようにあっさりと冷めた。
 目を閉じ、顔面で水の流れを受ける。頬や額の表面を滝のように水が落ちていき、肩を、胸を、腹を、足をなぞっていく。
 熱を冷ます水のシャワー。夏休み中は、日に何度も浴びた。それこそ、数え切れないほど。しかしそれも、もうすぐ必要なくなるだろう。八月が終われば、また学校生活が始まる。残暑こそ厳しいかもしれないが、鋭い日差しは幾分か和らぐはずだ。さらに彼岸を越えれば、肌に秋の風を感じられるようになる。
 暑さも、あと少しの辛抱だ。
『〈三人〉で行くね』
 あさひの言葉が、頭の中に蘇る。
 ――あてつけかっての。
 再び沸き上がる苛立ちのまま、タイル貼りの壁を拳にぶつける。そして、ごつ、と額を壁に当て、目を開いた。タイルのパステルピンクが目に入る。背中を滑るように、水が勢い良く流れていく。
 そして、溜息。
 こうしてゆっくりと、去年までと同様に、何の波風もたたぬまま、終わるのだ。今年の――高校生活最後の、夏は。

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