陽炎

アイスな恋の始め方



 閉店間際のスーパーの店内は、人も疎らだ。
 蛍の光がゆったりと流れる中で、私は買い物カゴを手に足早に必要なものをそこへ入れていく。
 いつも仕事帰りに、このスーパーに寄るのが私の日課だった。一人暮らしを始めて一年と少し。出来るだけ自炊をしたくて、いつもここで食材を買っている。閉店間際は肉や魚が随分と値引きされていて、独り身の私にとってはありがたいことだった。
 今日は豚肉とキャベツ、そして胡瓜が既にカゴに入っている。その他には、洗剤などの日用品が少し。今日は特別暑いので、夕飯は冷しゃぶサラダにしようと仕事中から決めていた。
 ドレッシングは自宅の冷蔵庫にあるし、スパゲティか素麺を茹でて、その上に冷しゃぶサラダをのせて食べてもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、私はレジへと向かった。
 レジは担当している店員が既に少なく、やや混んでいた。人数の少ない方の列を選び、その後ろに私も並ぶ。今会計をしている女性のカゴには、商品が山積みだった。レジを打っている店員も新人なのか、商品の確認にやたらと手間取っている。この様子では、しばらく時間がかかりそうだ。
 私の前に立っていたのは、長身の男性だった。外は暑いのに、背広をきっちり着込んでいる。私と同じように、仕事帰りなのかもしれない。
(暑くないのかな……あ、でも)
 私は男性の手の中にあるものに気付いた。
 小さな箱入りのアイスが二つと、豆大福。
「あの」
 突然、頭上から声が降り注いできた。
 どきりとして、慌てて顔を上げる。
 私の前に立っていた男性が、私の方を見下ろしていた。乱れもなく整えられた髪。少し下がった目尻が、いかにも優しそうに見える。
「あ、はい」
「お先にどうぞ」
 彼は一歩レジから離れ、場所を譲るような仕草をした。
「いえ、そんな。悪いです」
 彼の買い物はたった三点。私は買い物カゴ半分ほど。どうやっても、会計は私の方が時間がかかってしまう。それなのに、順番を譲ってもらうなんてとても申し訳なく、出来るはずもない。
「まあまあ、遠慮なさらず」
 しかし男性は、そう言って商品を持って私の後ろに並びなおしてしまった。
「すみません……」
 男性に会釈をし、私は列を詰めた。すると同時に前の女性の会計が終わり、私の番になった。
 不慣れな手つきで、店員が商品をカゴから取り上げていく。

 会計が済み、レジ横の台で手持ちの袋に買った商品を詰める。
 それが終わる前に、先程の男性は会計を終わらせ、私の横をすり抜けていった。
「あ、ま、待って!」
 去りゆくその背中に向かって、私は思わず声をかけていた。
 男性はそれに気付いて振り返り、私のそばまで戻ってきた。その手には、持ち手のない薄いビニール袋に入ったアイスと大福。
「はい?」
「え、っと……」
 思わず呼び止めてしまったが、言葉に窮してしまう。
 何か、言わなければ。
「あ、甘いもの、好きなんですか?」
(何を言っているんだ、私は)
「ああ、これ?」
 男性は私の突然の質問に不快感を表すこともなく、手に持ったビニール袋を軽く掲げてみせた。
「そうなんですよ。甘いものばかりはよくないって分かってるんですけど、つい」
 言って男性ははにかむように笑った。
「美味しいですもんね」
 私が返すと、
「そう! 美味しいんだよね! 特にこの大福なんて……」
 彼は無邪気に大福について語り始めた。その様子は、大好きなヒーローについて熱弁する子供みたいだ。話を聞いているうちに、あまりの一生懸命さが微笑ましく感じられ、私は思わず小さく笑いをこぼしてしまった。
「あ、ごめんなさい。大福の話なんてしてしまって……」
 ひとしきり話終えたところで、今度は彼はしゅんと縮こまって、申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げた。
「いいんです。呼び止めてしまったのはこっちですから」
「いえいえ、僕、夢中になるとどうもダメなんです。あ、そうだ」
 男性は何事を思いついたのか、袋の中からアイスを一箱取り出し、
「お詫びといってはなんだけど、これ、良かったら」
 それを私に差し出して言った。
「そんな、レジの順番も譲ってもらったのに、アイスまで貰えません」
 私は胸の前で必死に両手を振って、全身で遠慮を表現した。けれど彼は私の手を取り「いいからいいから」と言って無理矢理アイスを手渡してきた。
 なんという強引さなのだろう。私は肩をすくめ、渋々アイスを受け取った。
「このアイス、少し時間を置いた方が美味しいんです。だから、家に帰るまでの時間稼ぎがしたくて。さっきあなたに順番を譲ったのは、そういうことです。だから、気にしなくていいですよ」
 彼は空いた右手をひらひらと振った。
「それじゃあ、僕はこれで。アイス、本当に美味しいですから。食べてみてくださいね」
 そう言って、彼はスーパーを出て行った。
 私の手の中には、手渡されたアイスが残った。包装のビニールには水滴が付き始めている。手に感じる冷たさに、私はハッとした。
(あ、袋詰めしなきゃ)
 客もほとんどいなくなったスーパーの中で、私は慌てて購入した商品の袋詰めを済ませた。

 アパートに帰るなり、私は先程男性に貰ったアイスをレジ袋の中から取り出して、テーブルに置いた。
 ビニールを取り、箱の開け口を切る。チョコレートでコーティングされた粒のようなアイスが八個入っていた。付属のピックを手に取り、茶色いそれに突き刺した。僅かな手応えを感じる。ピックに刺さったアイスを、私は一口で頬張った。甘いチョコレートの味が舌に広がる。表面に歯を立てる。ぱき、という音と共に、中に包まれているひんやりとしたバニラアイスが溢れ出す。やや溶け気味のそれが口の中でチョコレートと混ざり合い、絶妙に絡み合う。美味しい、と素直に思った。
 私は夢中で残りのアイスを口に入れ、八個もあったそれはあっという間になくなってしまった。空になった箱を見て、はあ、と溜息をつく。
 また、あのスーパーで彼に会えるだろうか。
 アイスの空き箱を前にして、私は自然とそう考えていた。
 次、彼に会ったときは、今度は私からこう声をかけよう。
 ――他に美味しいアイスの食べ方、ありますか?

(了)