陽炎

マッチョに言い寄られてました。(1/2)



 学校から自宅までの道中にある河川敷。その草っぱらに腰をおろして、ぼんやりと川の流れを眺めて時間を潰すのが、高校生になってからの僕の日課だった。
 そこで特別、何をするでもない。ただ、自宅で過ごす時間を極力減らしたかった。とにかく、毎日が苦痛で仕方がなかったのだ。
 志望していた公立高校に落ち、市外の私立に通う羽目になった為、親からの風当たりは冷たかった。望んで入学したわけではないから、クラスメイトとも素直に打ち解けられない。通学時間が一時間以上かかる点も、それに拍車をかけていただろう。自宅の遠さから、遊びの誘いも敬遠されているようだったし、興味のある部活動に勧誘されても、活動時間と電車の便の折り合いがつかず、受けることが出来ずにいた。元々、地元の公立に落ちるぐらいの学力だから、成績もさほど振るわない。それを親から幾度となく指摘され、自然気持ちも暗くなる。さらに、そういった様々な要因から芽生えた『落ちこぼれ』であるという自覚が、増々自分を苦しめていったのだった。
 しかし、川を眺めている間は、そういった鬱屈とした日常から解放されるような気分になれた。水が石を打つ音の不規則が、水面の不定形が、繁る不揃いの草花が、僕の心を僅かばかりに紛らわせてくれたのだ。
 高校最初の一年間に、灰色の絵の具を塗り込めたまま終えた僕は、川のように、極当然な流れに乗って進級した。変わったことといえば、一階だった教室が、二階になったことぐらいか。この流れに抗うことなく、二年後には広い海を無為に漂うのだろう。近い将来の自分の惨めな姿を、僕はありありと想像することができた。
 始業式から一週間ばかり経ったその日、河川敷で普段と変わらない時間を過ごしていた時だ。青い空の下、遠い山が、黄色っぽく霞んでいた。埃っぽい、喉に絡みつく空気は、その温度だけ切り離して精査してみれば、触れる肌にそっと優しい。
 萌える柔らかな新緑の香りが鼻をくすぐる。そこに混じる甘さが、一体何の花が放つ匂いなのか、僕は知らなかったし、知りたいという欲求も湧かなかった。河川敷で過ごす時間は、自分にとってこの上ない息抜きではあったが、だからといって、この場に在る世界に、深入りしようとは思わない。学校や家がそうであるように、それ以外の場所も、僕にとっては『その程度』のものだった。何かから距離を取ることは、慣れてしまえば意外に楽でもある。不関与。それは惰性に圧倒的な力を持たせていた。
 流水音が、耳を打つ。不規則なそれが続いていく。永続性というものを、川は僕に感じさせた。この音が消える時、きっと世界は終わるのだろうと思わされた。
 胸の内に、そんな暗いものが浮かんでは、流される。温かなそよ風がそれを助長し、空っぽになった心の中を、緑のさざめきが撫でて癒す。こうやって、また何事もなかったかのように、僕は日常へと戻っていくのだ。
 三十分くらいそうしていただろうか。そろそろ帰ろうかと腰を上げた僕は、ふと、波打って目の前を過ぎていく川の水面に、黄色い花がひとつ浮かんでいるのに気が付いた。上流で誰かが流したのだろうか。それは自分が立っている川岸からは随分遠くて、さらに小さい為、その種類までは判らない。間近で手に取って見たところで、僕が知っている花であるかも判らなかったが。
 僕は何となく、その黄色が見えなくなるまで見送った。このことに、本当に意味なんてなかった。ただ、流れに逆らわずも、自らをはっきりと主張するその黄色が、気になっただけだ。
 溜息が零れる。自然、肩が落ちた。少し苛立っていたのかもしれない。僕は、足元に転がっていた小石を軽く蹴った。こつん、と乾いた音がして、思いのほか遠くにそれは飛んだ。石の行方を視線が追う。転げて止まった石の傍に、人の気配があって、僕ははっと顔を上げた。同時に、驚きに後ずさる。思わずそうしてしまってから「失礼だったかな」と後悔する。
 石が転がった先には、ひとりの男性が立っていた。その出で立ちは、少々……いや、かなり変わっていた。
 両足――何故か裸足だ。
 両脚――身に着けたジャージの下から、異様に盛り上がった筋肉が、布地を押し上げている。
 腹――小麦色の鎧かと思ったがどうやら割れた腹筋のようだ。
 胸――厚く盛り上がっていた、胸筋。
 両腕――僕の脚と同じぐらいの太さだろうか。
 首――何だが、僕の知らない筋肉で、肩と繋がっているらしい。
 顔――板についたような笑顔で、口元から覗く白い歯と、濃茶色のくるくる巻いた短髪が印象的だった。
 ……一言でいうなれば、その男性は、典型的なマッチョだった。
 ずっと近くにいたのだろうか? いつの間に? そんな気配、しなかったと思ったけれど。
 そんな考えが頭を過ぎったが、それ以上に直感したのが「関わり合えば面倒そうだ」ということだった。何せ、四月というのに、裸足に半裸なのだ。格好は個人の自由だから、そこを他人の僕がとやかく言えるものではない。しかし、僕と彼が肌に感じている季節に、明らかなズレがあることだけは確かだろう。
 僕は彼に軽く会釈だけをしてから、立ち去るつもりで土手の斜面に足をかけた。
「待った!」
「ひえっ」
 空へと突き抜ける低音で呼び止められたかと思えば、突然腕を引かれ、上擦った素っ頓狂な声が口から漏れた。加え、その圧倒的な引力に逆らえず、為すすべもなく後ろ向きに倒れていく――が、背中は地面との衝突を免れた。代わりに、地面よりは弾力性のあるものが、僕の身体を受け止めたのだった。
「大丈夫か」
 頭のすぐ上から、声がした。首を捩ってそちらを見やる。先程のマッチョの顔が、そこにあった。僕は、不本意ながら、マッチョの重厚な胸板に身を預けてしまっていたのである。さらに、男の両手で、肩はがっちりと掴まれていた。小麦色の中に浮かぶ白い歯が眩しい。
「だっ、大丈夫かって、あなたが僕を引っ張ったからこうなったんでしょう!」
「それもそうか」
 不意の出来事に動揺しつつ、そう訴えると、男は豪快な笑い声を上げた。笑いに合わせて胸の筋肉がぴくぴくと動いているのが、背中越しに伝ってきた。
「もういいですから、放してください」
「放す? どうして?」
 身を捩る僕の顔を、きょとんとした彼が覗く。その表情には、まるで邪心を感じられない。幼児のようだと思う。そのせいか、拘束されているというのに、不思議と恐怖というものを感じられなかった。
「……家に帰るんですよ。さっきも、僕、帰るところだったんですから」
「ふむ、分かった」
 彼が頷いたのを確認して、
「じゃあ、これで――」
 彼から逃れようと一歩踏み出す。
「だが放さん!」
 しかし拘束する手に余計に力を込められ、抜け出せなかった。
「いやもう全く意味解んないですから!」
 人目も憚らず叫ぶ。
 まさか誘拐なのだろうか? と思いもしたが、しかしマッチョで半裸の誘拐犯なんて聞いたこともない。こんな誘拐犯がいたら、あまりに目立ちすぎてすぐ捕まってしまいそうな気もする。
「何なんです、僕に恨みでもあるんですかっ!」
 頭に血が上っていたせいもあるかもしれない。僕は、その男を睨みつけ、手足をめちゃくちゃに動かしながら声を張った。
「恨みなどない!」
 男は答えた。
「だったら」
「だが愛がある!」
「ふへっ!?」
 思わず変な声が出た。男は自信満々に胸を張った。両肩をがっちり押さえられて身動きできない僕の背に、彼の張りだした胸筋が余計にも押し当てられる。
「俺はお前に惚れたのだ! だから帰さんぞお!」
 男が吠えた。その声が、河川敷に轟く。
「ほ、惚れ……」
『惚れた』――その言葉の意味を理解した途端、顔が熱くなる。嬉しさとか、ときめきとか、そういったもののせいではなく、純粋な羞恥心からだ。何せ、愛の告白など、僕はそれまで一度として受けたことがなかったのだ。
「その、ちょっと待ってくださいよ。僕ら、初対面ですよね」
 男は何事かあれこれと早口でまくしたてていたがそれを遮って尋ねる。
 僕自身、彼に見覚えはなかった。そもそも、一度でも見かけたことがあったら、とても忘れられるとは思えない。だから、僕も彼に同様の答えを求めていたのだと思う。期待した答えが返ってくれば「お互いのことをよく知りませんし」などと、やんわりと断る手段を得られることになる。しかし、彼から返ってきたのは、
「いや、俺はここで、お前をずっと見ていたぞ」
 予想外の言葉だった。
 斜面になった土手をわざわざ下ってまで、河川敷を訪れるひとは正直少ない。――それが、僕がここを気に入っている理由のひとつでもあるのだが――だから、頻繁に見かける人物であれば、毎日のようにここを訪れる僕が、それを覚えていなければおかしい。
 そのことを不審に思いながらも、僕は彼から逃げ出すために、別の策を考えなくてはいけなくなった。
「こういうことを言うのはいけないかもしれないけど、あの、僕、男の方は、ちょっと……」
 これは半分、嘘だった。異性しか好きにならないかどうかなんて、その機会が訪れない限り、判りはしない。
 この状況から逃げ出す為とはいえ、悪意のなさそうな彼に対して失礼ではなかろうかと、その表情を窺うが、そこには変わらぬ笑みが湛えられていた。それを確認して、少しほっとする。
「安心しろ。俺には人間のように性別なんて概念などない!」
「え、そう言われましても……えと、男性、です……よね?」
 ……工事済みだったのだろうか。そうであるならば、余計に酷いことを言ってしまったことになる。言い訳など並べ立てずに、黙っておけばよかったと、悔いても、既に遅い。
「なんだ、そんなにこの姿が気になるのか? それなら――」
 肩から手が離された。不意のことで、二三歩前によろめく。
 背後から、眩い光が幾筋も走った。思わず振り返る。
「えっ」
 彼の身体と思われるものが、白い光に包まれていた。眩しさに目を細める。次第に光は収まっていき、そこには先程の男性が変わらず立っている……はず、だった。
「どうだ」
「えっ……え?」
 閃光で目がおかしくなってしまったのだと思った。手の甲で目を擦るが、しかし目の前のそれは、元のよう姿には戻らなかった。どうやら見間違いではないらしい。
「これならいいんだろう?」
 これ。そう言った口元からは、やはり白い歯が覗く。肌は小麦色。そして、やはり豊かな筋肉も持っている。しかし、筋肉の付き方が、先程の男性とは明らかに違う。腰が僅かに細い気がしたし、ぶ厚い胸筋の上には、ふたつ、とってつけたようなまるっこい山がある。そうしてその頂上に、何故か星型のシールが張られていた。髪も長い。くるくると波打ってはいるが、腰のやや下あたりまで伸びていた。
「いやいやいや、そういう問題じゃなくてですね? え、何なんですか、この胸は。特殊メイクか何か?」
 戸惑いつつ、明らかに変化したその部分を指して、彼(彼女?)に尋ねた。
 彼(彼女……?)は、両手を腰に当て、大げさに仰け反るように胸を張り、がっはっは、と笑った。
「見かけなんぞ、幾らでも変えられるぞ。何せ、俺は妖精だからな!」
「は……妖、精?」
「そうだ妖精だ!」
 きっとこれは、悪い夢なのだろう。そう思いたかった。
「…………帰ります」
 ふらりと踵を返そうとした瞬間、また腕を掴まれた。無言でそれが浮かべた笑みに、僕は酷い眩暈を覚えたのだった。

*  *  *

 話によれば、彼は元々この河川敷に咲いていた花の妖精らしい。頻繁にここを訪れる僕を気に入って、こうやって現れたということだった。
「――とまあ、そんなわけなのだ」
 結局帰ることなんて出来るわけもなく、河川敷に隣り合って腰を下ろして、これまでの簡単な経緯彼の口からを聞いた。
「うーん、話だけじゃあにわかに信じがたいですが……」
 僕が首を捻りながら言うと、すかさず隣から眩い発光。それが収まると、僕の隣には大きな犬がいた。
 耳は垂れ、顔は皺だらけで愛嬌もあるが、しかし首から後ろは、その逞しい筋肉が、短く茶色い毛並みに奇妙な陰影を作り出している。ペットとしてのそれというより、闘犬として飼育されているそれに近いだろう。その犬が、黒々とした目で僕を見つめて、言ったのだ。「どうだ」と。
「……人間でないことは解りました」
 どうして犬になってまでマッチョなんだろう、などとは、訊くことのできないほどの脱力感があった。ぐずぐずと続いていく日常を嫌悪していたとはいえ、まさかこんな突拍子もない非日常に落とし込まれるなんて、一体誰が想像するだろう。
「それで、仮にあなたが妖精だとして、僕を引き留めてどうするんですか?」
「さっきも言っただろう。俺はお前に惚れた! だから引き留めたのだ」
 それは言って、外見相応に、ひとつ「わん」と鳴きマネをしてみせた。鳴き声ではなくて、明らかに口で「わん」と発声しただけだ。
「いやいや、そうでなくって」
 僕が溜息をつくと、それは僕の正面まで、四本の脚でとことこと歩いてきて、犬らしく座った。そうして、首を傾げて、
「おかしいか?」
 じっと僕を見る。悪意など感じさせない、純粋さにきらきらと輝く、黒々とした犬の目で。
 可愛い。その屈強な体躯に似合わない、しかし犬らしい無垢な表情は、僕の心に少なからずそんな想いを抱かせた。
「おかしいというか……具体性がないですよね。引き留めてから何をするっていう」
「具体性」
「たとえば一般的には、好きな相手と手を繋ぎたいとか、デートをしたいとか、あとは……き、き、き」
 説明しながら、ふと、自分は何故よく知りもしない恋愛について語っているのだろうと思う。しかも、初対面の、自称妖精という怪しげな相手に。
 途端に気恥ずかしくなった僕は、何も言えなくなってしまった。顔を見られるのも恥ずかしく、俯いてしまう。
「き? き?」
 だが中途半端に言いかけてしまったため、彼は僕の言葉の先行きに興味を示してくる。それがまた、僕の羞恥を煽ったのだった。
「ああもうこれ以上は恥ずかしくって無理ですやっぱり忘れてください!」
 勢いよく顔を上げる。すると、頭頂部に、コン、と乾いた感触。
「はうっ」
「はう? ……あれ」
 お座り体勢のまま、屈強な肉体の犬が、まるでぬいぐるみのように地面に倒れている。どうやら、僕の頭が彼に当ったらしかった。
「わ、すいません」
 慌ててその身体を起こそうとした。が、僕の手は、犬の身体をするりと通り抜けてしまった。何度やっても触れられない。しかも、その背中辺りが透けている。更に透明な個所は、ゆっくりと全身に広がっていくようだった。
「えっ、何これ、ちょっと、ねえ、しっかりしてください!」
 触れることがかなわない為、身体を起こすことも揺することも出来ない。僕は犬の垂れた耳に口を寄せて、とにかく必死に叫んだ。
 身体が半分ぐらい消えかけた頃になって、
「はっ」
 と、犬は首をもたげた。その大きな呼吸音と同時に、透明になっていた部分もたちまち元の色を取り戻した。犬の頭にそっと触れ、感触があることを確認して、僕はようやく胸を撫で下ろした。
「はっ、じゃないですよもう! 驚かさないでください」
「あ、もしかして、俺ちょっと消えてた?」
「ちょっとどころかだいぶ消えてましたよ……。今のも変身の一種ですか?」
「いや、消滅しかけた」
 僕の問いにそう呑気に言ってのけて、後ろ足で耳の辺りを掻いた。
「消滅って! そんなおおごとだったんですか!? 何でまたいきなり……」
「妖精ってやつは、本来、本体である物質から分離されればその時点で人間には見えなくなるし、触れることもできないものなのだ」
「えっ? でも」
 現に、彼は今目に見えている。触れることも出来る。では、僕が見ている彼は何だ? ――そんな至極当然の疑問を視線で訴えると、彼はそれをすぐに感じ取ったようで、大きくひとつ頷いた。
「これは本来の姿ではないのだ。人間の目でも捉えることが出来、更には触れられるように実体を持たせている。その為には妖精パゥワーの多くを費やさなくてはいけない」
「パゥワー……」
「そう、パゥワーだ。外見を実在の生物に模すだけで相当なパゥワーを消費する。だから中身は空っぽなのだ。いわば、はりぼてだな。そのせいで、実体を伴っている時は、外部からの衝撃には極端に弱くなっているのだよ」
「ということは、さっき消えかけたのは、僕の頭が当たったから?」
 彼の説明から導き出された結論を口にして、ぞっとする。自分の些細な動作ひとつで、相手が消滅してしまうところだったなんて。そういった事情を知らなかったとはいえ、しかし「知らなかった」の一言で済まされる問題でもない。
 僕が彼という存在を消してしまうところだった! これは人殺しと同じことではないのか?
 顔面から、すう、と血の気が引いていく音が聞こえた気がした。 
「ん、そうなるか……」
 そんな僕の顔を、潤んだ黒い目が覗きこむ。
「まあ、気にするな! 大したことじゃない、なあに、ちょっと消滅するだけだからな!」
 わっふっふ、と犬の口が笑う。
「じゃあ、さっきみたいに消えていっても、またすぐに元に戻れるってことですね」
「いや、消滅すれば、パーだ」
 パー、と犬が繰り返す。尖った歯が並ぶ口から、長い舌が、ぺろんと前に垂れた。
「やっぱりおおごとじゃないですか! 何で『ちょっと消滅』とか軽く言っちゃうんですか!?」
 思わず彼の身体を両手で掴んで揺さぶる。
 彼は平然として、
「惚れた人間の手にかかって消滅するなら、それもよし!」
 言ってのけた。太い尻尾が揺れている。
「ほ、ほ、惚れ……」
 開いた口が塞がらなかった。
 僕は日常をつまらないものだと思っている。だが、死にたいなんて思ったことも、死んでもいいと思ったこともない。だから、自らの消滅すら「よし」とする、彼の気持ちはかけらほども理解できなかった。
 彼のように誰かを好きになれば、その自己犠牲の精神すら自分のことのように解るのだろうか。そうなれば、もしかすると、この日常にだって、多少の楽しさや嬉しさが芽生えてくるのかもしれない。
 だが、それらは全て仮定だ。
「かかか、帰ります」
 ふらりとその場に立ち上がる。
「そうか」
「……はい」
 踵を返して、土手を駆け上る。あれほど強引に僕を引き留めた声は、今度はもう飛んで来ない。
 その心境の変化も、やはり僕には解らない。だが、それでも、また彼と話をしたいような気分だった。こんなに長い時間、誰かと喋るのは本当に久しぶりのことだったから。
 土手の上の歩道で、河川敷を振り返る。そこにはまだ、大きな逞しい身体の犬が座っていて、じっとこちらを見つめている。
「あ、明日! また、来ます……から……その」
 僕は土手の下に向かって、そう声を張った。
「ああ! 待ってるからな!」
 犬の尻尾が、千切れそうなほどに揺らされている。その場から走り去った僕の背に、わん、と大きな鳴き声が届いた。

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