陽炎

ハキリ(2/2)



──コハナが酔いつぶれていたのだから、俺が時間を気にしておくべきだったな。
 思案に暮れ、その程度の配慮も出来なかった自分を今更ながらに恥じる。
 コハナには本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。
「間に合わない……だろうな。終電」
 俺の家はコハナの自宅とはこの公園からだと正反対の場所にある。終電もまだあるし、何より徒歩でも三、四十分そこらで辿り着ける距離だ。家に泊めてやれればいいのだが、あいにく布団は一組しか置いていないし、何よりも狭い。
 男二人で身を縮めて寝苦しい夜を過ごすより、多少金がかかっても自宅に帰ったほうが彼の為だ。
「タクシー、捕まえよう」
 そう提案すると、コハナは頷いた。 
 この時間帯であれば、終電を逃した連中を狙って空車タクシーが巡回しているはずだ。腰をおろしていたベンチから離れ、公園の入口で立っていれば、案の定五分もせずに俺たちの前にタクシーが停車した。
「ミツ、お前は?」
 タクシーの後部座席に乗り込みながら、コハナが尋ねてくる。
 自ら「大丈夫」というだけあって、なるほど顔色は随分良くなっている。口振りもしっかりとしているし、これならば一人でタクシーに乗せても問題なさそうだ。
「俺はいい。涼みながら歩いて帰る」
 言いながら俺は財布から紙幣を何枚か抜き取る。そしてそれを折り畳み、コハナのスーツの胸ポケットに適当に突っ込んだ。
「おい、ミツ」
「終電逃したの、俺のせいだし」
「お前のせいだなんて思ってない」
 コハナは押し込まれた紙幣を取り出そうと必死になるが、俺が腕を押さえつけているせいでそれは叶わない。
 しばらくそれに抵抗しながら唸ってはいたが、タクシーの運転手が咳払いをひとつすると、観念したように腕を落とした。
「こういうのが嫌ならさ、今度飯でも奢ってよ。それでいいだろ?」
 渋々といった様子で頷き、コハナは「分かった」と小さく呟いた。
「じゃあ、明日。ミツ、気を付けて帰れよ」
「分かってるって。じゃあな」
 俺たちが別れの挨拶を告げると、待ちわびたかのようにタクシーのドアが閉まる。
 呼び止めておきながら長話をするなんて、運転手にまで悪いことをしてしまった。去っていくタクシーの後ろ姿を見送りながら、俺は心の中で謝罪した。
 気付けば風が止み、湿りを帯びた空気が身体を包み込んでいる。暑さを意識すれば途端に全身から汗が吹き出した。何か冷たいものでも飲んでから、帰路についたほうがいいだろう。
 くるりと踵を返すと、俺は公園へと戻った。確か先程腰かけていたベンチの先に、自動販売機があったはずだ。
 そのまま足早に、自動販売機の方向へ向かう。
 公園の木々に隠れるようにして、淡い光を放つ何かが見える。あれが自動販売機だろう。その手前にはベンチがある。ベンチだけがある……はずだった。
 ──おかしい、だろう。何であいつが、ここにいるんだ。
 そこには男が一人、座っていた。俺たちが十数分前まで座っていたベンチだ。公園にはよくある木製のもので、男が背もたれにもたれかかると、ベンチは耳につく嫌な音をたててきしんだ。
 よく見知った、そして俺が忌み嫌う男。
「こんばんは。奇遇ですね、ミツさん」
「ハキリ……」
 男は──ハキリは、笑っていた。
 普段コハナの前で見せている笑顔とは違う。舐めるような視線、いやらしく吊り上げられた口角。口調だけが変わらないのがかえって不気味だった。
 一瞬の戦慄。
 震え出しそうな身体を、拳を握り掌に爪をたてる痛みで誤魔化す。
 やはり、こいつは得体が知れない。
 全身で警戒しつつも、チャンスだとも思う。
 ここで全てを明らかにするのだ。
 友人のこと、ハキリの目的、コハナに執拗に媚びる理由。
 ハキリは変わらぬ笑みでこちらから視線を外さない。射すくめられているようだ。
 水分を得られなかった咽喉は痛い程に乾いている。それでも絞り出すような声で、俺はハキリに言い放った。
「お前は、誰だ」
「誰? 誰って? どういう意味でしょう?」
 はは、とハキリは笑った。
 声だけ聞けば、ただ人を馬鹿にしたような、そんな笑い。ただその表情はベトベトと纏わりつくような、ねっとりとした糸を吐く蜘蛛に似ている。
 背中がぶるりと震えた。気味が悪い。
 細めた視線に射すくめられたように、一歩、後ずさる。
 動揺してはいけない。この不気味な何かに、隙を見せてはいけない。
「僕が何者かって、そう言いたいんですか? 僕はハキリですよ。あなたとコハナさんの、かわいい後輩」
「違う、お前は違う、ハキリじゃあない」
 強い口調で、俺は否定した。目の前のものが何かは分からない。だが友人の名を騙る別の何かであることは違いないのだ。
「何が違うというんです? 僕の名前が? 存在が?」
 一歩。また一歩。
 嫌な微笑を浮かべたまま、ハキリがこちらへと歩み寄ってくる。
 身体が動かない。蜘蛛の糸に絡めとられた気分だった。
「ミツさん。あなたは、一体、どうしたいんです?」
「どうって」
「ハキリを探って、どうしたいんです?」
 ハキリの背後で、自動販売機のぼやけた明かりがちらつく。逆光で暗く縁取られたハキリの輪郭が、陽炎のように揺れた気がした。
「俺は」
 ──ただ、真実が欲しい。
 そう紡ごうとした口を、開くことは出来なかった。

 たった一瞬だった。
 顔があった。互いの鼻頭が触れ合うかというほど近くに。
 もはやその表情は、後輩の面影を残していなかった。にたりと笑みを浮かべた口元は鋭い牙を剥き、先ほどまで糸のように細められていた目は血走るほどに見開かれていた。瞬きすらしない。ただ荒く粘りつくような生温い息が、俺の 首に纏わりつく。触れられずとも、首を締め上げられているようだった。
 息が出来ない。
 息苦しさに堪らず、犬のように、は、は、と喘ぐ。
 全身を支配しているのは、恐怖だ。
 恐れ慄く身体からは、汗の一滴も流れなかった。
 やはり、ハキリではなかった。
 この化け物は、ハキリもきっと、こうして──。
 ジリジリと、皮膚が視線に焼かれるようだ。
 目を逸らしたくとも、身体はいうことをきかない。
「残念だなあ」
『それ』が、一言そう言った。
 地に落ちる音がした。
 眼前にあった『それ』の顔が、急に遠くなった。
 全身の力が一気に抜け落ちる。
 手のひらに土の感触。
 気付けば俺は、地面にへたり込んでいた。
 ただ呆然と、見上げるしか出来なかった。
『それ』の口内から赤い舌が覗く。生肉でも喰らった後のような、血の色をしていた。
 恐らくもう、逃げることなど不可能なのだ。
 俺は、そう直感した。
「もう少し、楽しめると思ったんだけどなあ」

 ジジジジジ。
 自動販売機の明かりを目指して、群がる虫たちがぶつかり合う音。
 朝になるにつれ、そこに集まる虫の多くが死んでいくだろう。
 虫は死に対しても無心だ。
 自分自身もそうなれれば、どんなに楽だったか。

「でも、僕はあなたを殺さない」
 だから安心して、とそれは言った。
 目の前のそれは、よく知った後輩の顔をしていた。
 ニコニコと人当たりの良さそうな笑顔に、どっと全身の力が抜けていくのが分かる。
「殺さないって?」
 そんな馬鹿なことがあるのか。
 ついさっきまでの、喰らい尽くさんばかりの殺気は一体なんだったというのか。
「そう、もう一度言います。僕はあなたを殺しません」
 そいつはゆっくりと俺から距離をとり、虫にまみれた自動販売機で飲み物を買った。
 はい、とこちらに投げてよこす。地面についた手を拭う間もなく受け止める。炭酸飲料だった。
 汗をかいた缶の表面に、手のひらの土が付着している。とても封を切る気分にはなれなかった。
「同じ座るなら、こちらへどうぞ」
 そいつがベンチを指差して言った。
 俺はふらふらと、促されるままベンチに腰を下ろした。
 殺されないと言われたからといって、信じたわけではない。近づいては駄目だと、気を抜いては駄目だと分かってる。けれど身体は、見えない糸に操られたように動いていた。
 手の中にあった、飲む気も失せたはずの炭酸飲料の封を、気付けば開けていた。

 何かが、おかしかった。
 そいつが俺の前に立った。
 見下ろされていた。
 その顔は後輩のようであり、先ほどまで見せていた殺気立ったものでもあり、それらとはまったく別の生物のようでもあった。
 ぐにゃぐにゃと目まぐるしく、表情は変わっていく。
「きっとあなたは、不思議に思っているのでしょう。殺さないのはなぜかって。あなたは僕の獲物ではないから、勝手に仕留めたりは出来ないんです。僕らは狙った獲物を、追い詰めて、追い詰めて、食べ頃になってから仕留めるんです。単独で動きはするものの、僕らは大きな組織のようなものですから、自分の獲物以外は手を出さないのです。そして自分の獲物に手出しされないように、ツバをつけておくのも忘れない。ツバっていっても舐めたりはしないですよ。僕らにだけ見える『印』のようなものをつけておくのです。獲物に気付かれないように、僕らはそっと近づきます。仮の名前や経歴を使って──ああ、これを僕たちは『ギタイ』って呼んでるんですが、あなたにはどうてもいいことですよね──それから獲物に気に入られ、親しくなる。これが第二段階。そして最終段階。ね、ミツさん。信頼していた相手に食べられちゃうって、どんな気分でしょう? 絶望に叩き落されて、さぞや素敵な表情をしてくれることでしょうね。さあ、これでおしまい。僕らは極上の恐怖と絶望に彩られたごちそうにありつくのです。だから僕はあなたを殺さない。そして僕はハキリではありません。『ギタイ』していたに他ならないのです。偶然ハキリが『空いていた』ので、借りていただけなのです。だから残念ながら、あなたのいうハキリはいないのです。『空いていた』ということは、それは僕らの被る仮面でしかないのです。元々、そんなものいなかった。いえ、あなたの知るハキリもまた、『ギタイ』をしていただけにすぎなかったのです。獲物を狙う『アシナガ』だったのです」
 ぼんやりと、もやがかかったようだった。
 語りかけられた言葉が、形を成さずに頭の中でぐるぐると回っていた。
 麻酔でも打たれたように、身体が痺れていた。
 手にしていた缶が、地面に落ちる。しゅわしゅわと、足元に出来た水溜りで気泡が立つ。
「さようなら、きっと、二度と会うこともないでしょう」
 ジジジ、ジジ。
 そこには幾多の虫がうごめく音と、俺だけが残った。
 頭の芯が蕩けていく。
 正体不明の熱がどろどろと流れ、脳内を支配する。
 内側から身体が溶かされていくような心地だ。
 全てが、崩れていった。

 ジ、ジジジ。
 虫が、死ぬ音。

***

 つつ、と冷たい何かが頬を伝う感触で覚醒する。
 汗だ。
 頬だけではない。冷えきった汗が、全身をぐっしょりと濡らしていた。
 疲弊している。
 額から頬へと滑り落ちる不快な感触を拭う気力はない。
 目蓋を開くことすら億劫だった。
 湿り気を孕んだねっとりと肌に絡みつくような外気は、まるであれの視線のようだ。

 ジジ、ジジジ。
 光に誘われた虫が死ぬ。
 ザ、ザ、ザ。
 土を踏む音。

 目を開けずとも、それが一体何なのか、俺は理解していた。
 けれど、這いずってでも逃げようという考えは一切浮かばない。
 この疲弊感は、諦めにも似た絶望なのだ。

 ただ探していただけだった。友人──ハキリを。
 死んだと思っていた。殺されたのだと。けれど生きていた。彼は生きていた。ただ『俺を食うため』に生きていた。
『俺を食うため』に姿を消し、混乱させ、そして今、姿を現そうとしている。
 絶望で旨そうに味付けされた、俺を食いに。

 ザ、ザ、ザ。
 近づいてくる。
 ザ、ザ。

 ハキリが消えたあの日、俺はあいつを探した。不思議なことに俺の友人たちは、誰もあいつを見たことがなかった。
 警察に届け出たのも俺だった。しかしそれも「事件性がない」「いい大人が」と一蹴された。
 今思えば、俺以外の全てがアシナガだったような気さえする。
 ──どうでもいい。
 俺は笑った。笑ったつもりだったが、声は出なかった。口元が僅かに歪んだ程度だったかもしれない。

 ザ、ザ。

 足音が止んだ。
 ハキリは今、俺の後ろに張り付くように立っている。
 俺を見下ろすその顔は、どんな表情をしているだろうか。
 俺たちが友人同士だった、あの頃と同じ顔で笑っているだろうか。
 それとも、あれと同じ、獲物を狙う獰猛な獣のような?
 だがそれももう、関係ないことだ。
 俺の探していた友人なんて、最初からいなかったのだから。
 いたのは、獲物を狙うアシナガ。
「じゃあな」
 別れを告げた。ただの幻想と化した、かつての友人に。
 また、声は出なかった。
 それでもきっと、ハキリ──アシナガには聞こえただろう。
 俺はそう確信していた。
 ──ああ、そういえば、コハナはどうしただろう。
 意識を手放す瞬間、ふと思った。
 けれど、今の俺には、どうでもいいこと。

 さようなら、俺の信じた全て。

(了)

【アシナガ】→