陽炎

カミさまのいうとおり!第四話(1/4)



 駆ける。
 靴底でしっとりとした土を捉える。
 髪が流れる。
 夏独特の爽やかな風を肌に感じながらの疾走。
 息があがる。
 首筋を汗が伝っていく。
 弾む心臓は、まるで自分の物ではないかのようだ。
 足が、腕が、体が重い。
 けれど足を止めるわけにはいかない。なぜなら――。
「琴子ー! 何故逃げるんだー! 琴子ー!」
 背後から必死に私を呼ぶ男の声がした。
「に、逃げない理由がありませーん!」
 私は振り返らずに、そして走りながら声を張った。聞こえているかは分からない。いや、聞こえていないというより、彼はきっと聞いていないに違いない。何せこのやりとりは、もうかれこれ二十分前から続いている。
 そう、二十分も私はこうして彼――寿老貴人から逃げ回っているのだ。
 事の発端は、私が寿老を訪ねて校庭のビニールハウスに赴いた三十分程前に遡る。
 
 窓から差し込む陽射しが眩しい午後の教室。
 期末テストも終わり、いよいよ来週からは夏休みだ。
 今週後半は、面談やら職員会議やらの諸々の行事が目白押しで、ほとんどの日が午前中の授業しかない。今日も既にほとんどの生徒が下校しており、教室には私だけが残るのみとなっている。
 私は二段重ねになった弁当箱を風呂敷で包み、手提げ袋の中にしまった。たった一人で食べる昼食はなんとも味気ないものだった。かや子は相変わらずアルバイトで忙しいようだし、福禄や布袋も何やら用事があると申し訳なさそうに言っていたのだから、仕方ない。少しだけ寂しくても、空腹を満たすことができるのは幸福の証拠だ。ありがたいと思わなければいけない。
「さてっと。じゃあ、行きますか」
 私は席を立ち、荷物はそのままに教室を出た。下駄箱で靴に履き替え、目的の場所へと向かう。
 校舎の裏手、農場の隣にそれはある。金属の骨組みの表面に、ピンと張られた分厚いビニール。正面からは見えないが、裏側には冬期に使うヒーターが備え付けられている。本格的で、そして大きなビニールハウスだ。
 一部の生徒は、畑ではなくこのビニールハウスの一角を借りてそれぞれ農作物を作っている。ここでは主に花卉栽培が行われているが、花卉栽培を望む生徒全てがこの場所を借りることが出来るわけではない。
 ビニールハウスはたった一棟しかない上、一人あたり全体面積の十分の一を貸し出すため、単純に考えてもここを使えるのは全校生徒のうちたったの十人ほど。毎年三月になると、卒業生が使っていたスペースを来年度誰が使うのかを巡り、熾烈な争いが起こるのだという。争いに敗れた生徒は、泣く泣く露地や鉢植に花を植えるのだが、中にはホームセンターで売られている家庭用のビニールハウスを購入し、それを畑に据え付けて花卉栽培を行なうという悪足掻きをする者も出てくるのだとか。しかし、壁もないような吹きさらしの畑の真ん中に背の高いビニールハウスなどを設置すれば、台風ですぐに倒れてしまうだろうことは、私でも容易に予想できた。
「おじゃましまーす」
 ビニールハウスの入口をくぐる。夏の暑さをぎゅっと凝縮したような空気が、私を包んだ。全身から一気に汗が吹き出す。ハウスのところどころは窓のようにビニールを剥いであるというのに、何という暑さだ。これは、アフリカ人もびっくりに違いない。それどころか、砂漠に潜むサソリだって、ひっくりかえって泡ぐらい噴くかもしれない。とにかく、とても耐えられたものではない。こんな環境で花を育てて、大丈夫なのだろうか。
「琴子! 来てくれたのかい!」
 入口とは反対の端で、目的の人物がこちらに向かって大きく手を振っている。そしてジュテーム、ジュテームと異国の言葉を繰り返し叫び、私に手招きをした。
 そういえば、初めて会ったときも彼は「ジュテーム」と言っていた。どこの国の言葉かもよく知らないが、きっと「こんにちは」とかそういう挨拶のようなものだろう。
 私は不規則に並べて植えられた花を避けながら、彼――寿老貴人の元へ向かった。
 今日彼を訪ねたのは、勿論、天高七福神計画への協力を仰ぐためだ。彼は初対面から私に好意的だったので、話をしやすいのではないかという福禄の判断だった。私としては、彼の好意はあまりに熱烈すぎて、出来れば敬遠したいところだったが、そうもいかない。これも、農業界の未来のためなのだ。
「へ、へろー、へろー」
 片手を上げ、外人のようなフレンドリーさをかもしだしつつ、私は寿老に声をかけた。彼は鉄製のアーチ――遊具の太鼓梯子によく似ている――の下で、大手を広げて私を迎えている。
 そんな彼の姿を見て、私は愕然とした。七月だというのに、彼は長袖のカッターシャツを身に纏い、あろうことかきっちりとネクタイまで締め、さらにはベストまで着込んでいるではないか。それにもかかわらず、まったく汗を流しておらず、爽やかな笑顔まで浮かべている。
 私ときたら、半袖のブラウスに、学校規定のリボンはせず、さらには第一ボタンまで外しているというのに、入口からたった十数メートルほど歩いただけで既に汗だくだった。おかしい。この圧倒的なまでの差はなんなのだろうか。いや、私がおかしいわけではない。きっと彼の汗腺が異様に鈍いだけなのだ。そうだ、きっとそうに違いない。
 私はひとり頷き、自分を納得させた。
「琴子がここに来てくれるなんて嬉しいよ。ようやく僕の愛がキミに届いたんだね!」
 感極まった表情で私に抱きついてこようとする寿老の腕をするりとかわす。「つれないなあ」と言いながら、それでも彼は嬉しそうに笑っている。一体何がここまで彼を突き動かしているのだろうか。――ああ、私か。自分でいうのも何だか微妙な気分だが。
 しかし、ここまで手放しで喜ばれると、あまり拒否しすぎるのも悪い気がする。ここは、彼の好意を正面からではなく背中に背負ったカゴでキャッチするような感じで、ごく自然に受け流すのが吉かもしれない。
「寿老先輩」
 私は彼の目をじっと見た。近くに立つと、彼が意外と長身であることに気付く。少し長めの髪も、太陽の光を受けて明るい栗色に見えた。瞳の色も茶が強い。本当に外人なのかもしれない、と私は思った。
「ん? なんだい、琴子?」
 寿老は僅かに膝を折り、私に目線を合わせて言った。
 その時、私は大変なことに気付いてしまった。
 ――寿老貴人は、あまりに美しすぎる存在であるということに。
 しかも、女子と喋るのにわざわざ膝を折ってまで目線を合わせてくるなんて、あまりに紳士的じゃあないか。こんなこと、どんな男だってしやしない。いつだって尊大な態度で私を見下ろしながら頭をぺちぺちと叩いてくるあの男に見習わせたいぐらいだ。寿老貴人、まさに彼は英国紳士。荒んだこの日本という国に、新風を巻き起こしてくれる男に違いない――!
「じゅ」
「じゅ?」
「ジュッテーム……」
 私の口から漏れた感嘆のため息は、何故か「ジュテーム」という響きを纏っていた。彼のあまりの美しさにあてられてしまったのかもしれない。ともあれ「ジュテーム」とは軽い挨拶の言葉なのだから、問題ないだろう。
「こ、琴子……」
 しかし、私の考えをよそに、寿老は唇をわななかせていた。その表情に、笑みはない。恐ろしいほどに真顔だ。先ほどまでの紳士的な雰囲気はどこへやら、今の彼の目は、私を見ているようで、私を見ていない。けれどその瞳に映っているのは間違いなく私だけだった。
 しまった。もしかすると、「ジュテーム」は挨拶などではなく、もっと重要な何かだったのかもしれない。例えば呪文だとか、そういう類のものだ。中世ヨーロッパじゃあるまいし、この現代日本でまじないなんてとてもとても流行らないが、彼が異国の士だとしたら話は別だ。寿老貴人とは仮の姿。本当の名は『ジューロゥ・ターカー・ヒィト』――何ということだ、彼は異国から来たまじない師一族の末裔だったのだ! 日常生活において挨拶のように、呪文の言葉「ジュテーム」を繰り返し使い、私や他の生徒にまじないをかけていたのだ! そしてこのビニールハウスの隅で秘密の儀式を執り行っていたに違いない! 危険だ、彼は、ジューロゥ・ターカー・ヒィトは危険だ!
「そ、そのぉ……」
 早くここから逃げなければ!
 その一心で、じり、と一歩後ずさる。しかし私の動きに合わせて、彼も私との距離を詰めてくる。だめだ、完全に私は狙われている!
「あっ」
 不意に腕を掴まれ、引き寄せられる。バランスを崩した私はジューロゥに抱きとめられた。
 目が、合った。
 真剣な眼差し。
 吸い込まれてしまいそうなほど、澄んだ瞳。
 逃げなくては。そう思うのに、声が出ない。体が動かない。ああ、これも彼のまじないなのだろうか。
「嬉しいよ、琴子。僕もキミのことが、好きだよ」
 僕も? 好き? 
 彼は一体何を言っているのだろう。私がいつ彼のことを好きと言ったのだ。私はただ「ジュテーム」と一言――。
 私はハッとした。そして恐る恐る口にする。
「じゅ、ジュテーム?」
 するとジューロウ、いや寿老は、うんうんと頷いた。
「ジュテーム、琴子……うわっ」
 その言葉を聞くなり、私は彼の胸を押し、腕の中から脱出した。寿老はよろめき、二、三歩後退する。
「ごめんなさい! 違うんです! 勘違いなんです! 本当はノー・ジュテームなんですっ!」
 私の渾身の叫びがビニールハウスの内部に響き渡る。
 まさか「ジュテーム」が「好き」って意味だったなんて。ああ、顔から火が出るほど恥ずかしい!
 そして私は、逃げ出した。
 目的を果たすことなく、このビニールハウスと、寿老の元から。

「ようやく捕まえた」
 そして今、こうして彼に捕まるに至るのである。
 結局私の足では逃げきることは出来なかった。校舎の周りや農場を逃げ回った私は、ついにグラウンドで力尽き、崩れ落ちたところを寿老に捕獲されたのだ。そもそも二十分も走っていれば、バテるに決まっている。それなのに寿老は、涼しい顔で私に追いついてきた。
 ええい、天高の生徒は化け物かっ!
 思わずそう叫びたくなるが、走り疲れて息も絶え絶えの今、私の口からは衣擦れのような微かな声しか出てこなかった。
「ひぇー……ご、ごかい……なんです……」
 グラウンドに膝をつき、肩で息をしながら必死に弁解する。
「大丈夫、嫌がるキミに無理強いしたりはしないさ。それより、ほら」
 散々追いかけてきたというのに、意外なほどあっさりと引き下がった寿老が、私にタオルで包まれた何かを差し出してきた。
「これで汗を拭くといい。そのままにしておくと、いくら夏でも風邪をひくからね」
「は、はあ……どうも……」
 呆気にとられている私は、促されるままにタオルを受け取った。手にしたそれはほんのり冷たい。見れば、ペットボトル飲料水がタオルですまきにされていた。一体いつの間にこれを用意したのだろうか。疑問は残るが、とりあえず今は彼の言葉に甘えることにした。
 肌に浮かんだ汗を拭き、水を一気に喉に流し込む。ひやりと心地よい温度で、体内が冷やされていく。ああ、極楽だ。夏の太陽の下で飲む冷水ほどありがたく、そして美味しいものはない。ペットボトルの中身は、あっという間に空になってしまった。さらに噴き出してきた汗を、私は再びタオルで拭う。タオルからは甘ったるい柔軟剤の香りがした。きっと『フローラルの香り』とかいう抽象的な名前のものだろう。このタオルは洗濯をして、彼に返すことにしよう。
「おーい、そこで座ってる人ー」
 地面の上に座り込み、そう考えていた私に、見知らぬ誰ぞから声がかかる。ハッと顔を上げ、声の方に視線を移す。野球のユニフォームを纏い、よく日に焼けた男子生徒が、こちらに手を振っていた。
「お取り込み中のところ悪いけど、ボール、取ってくれー!」
 ボール?
 私は自分の周りをぐるりと見渡すと、私の後ろにぽつんと野球ボールが落ちていた。全く気付かなかったが、どうやらこのボールのことのようだ。一体いつの間に転がってきたのだろうか。しかしそれより、つまりはこれまでの一連の流れを野球部の面々に見られていたということだ。ああ、もう、今日は恥ずかしいことづくめだ。
 私は立ち上がり、足元のボールを掴んだ。硬式の野球ボールというのは、思いのほか硬いものだった。こんなものが頭にあたったら、ひとたまりもない気がする。転がってきただけで良かった。
「琴子、僕が投げようか」
 寿老が言って、手を差し出した。ボールを寄越せというのだろう。彼なら平気で口にするに違いない。「スカート姿の女子にボールなんて投げさせられないだろう」と。ニクい男だ。やはり、基本は紳士なのだろう。だがしかし、私は箸より重たいものを持てないか弱い女子のように、男子に守られたいわけではない。スコップでも鍬でも平気で振り回し、体が土にまみれることも厭わない、そんな女子、いや農業人に、私はなる!
「いえ、結構!」
 寿老の申し出をぴしゃりと断ると、私はボールを掴む手に力を込めた。
 ぐるぐると肩を回す。
 飛べ! ボールよ! 天高く舞え! そして届け! 野球部員の元へ!
「おりゃーーーーー!」
 私の手を離れたボールは、大きく弧を描いた。寿老の口から「おお」と声が漏れる。
 どうだ、私の実力を見たか!
 私はふふんとふんぞり返った。
 そしてボールはぽとんと落ちた。
 私と寿老の、たった数メートル先に。
 結局先ほどの野球部員が走ってやって来て、ボールを拾っていったのだった。

 グラウンドの端のベンチは、丁度日陰になっていた。
 野球部の邪魔にならないように、私たちはこの場所へ移動して腰を下ろしている。
 ジュテームの誤解は解けていたようで、私は安心して、彼を訪ねた理由を話した。『天高七福神計画』について。そして、福禄と布袋と語り合った、私の農業に対する想いを。
「ふうん、農業改革ねえ」
 寿老はぽつりと言った。
 彼は、私を見ていなかった。退屈そうに空を仰いでいる。抑揚の少ないその声の調子からも、特段興味を示してないことがすぐに分かった。先ほどビニールハウスで見せたものとはまるで違う冷たい態度に、
「興味、ないみたいですね……」
 自然と肩が落ちる。ため息すらこぼれそうだ。
 そもそも、話せば分かってもらえると思っていたことが、私の思いあがりだったのかもしれない。
 今の農業に対して、誰しもが私たちと同じような考えを持っているわけではないし、それを強要なんて出来るはずもない。『天高七福神計画』は、同じ志を持つ若者が、自身の意思によって参加実行することで初めて意味をなす計画だ。彼が「嫌だ」と一言言えば、私にはどうすることもできない。
「興味があるといえば、嘘になるね。そもそもね、僕がやっているのは花卉栽培。野菜や家畜のように、口にするものを育てているわけじゃあない。花を見たって満腹にはならないだろう? ならなぜ花を育てるのか。それは人間の美的欲求を満たすためだ。だから、花卉栽培は農業とは違う。美しさと香りで、人々の心を魅了する……もはや芸術なんだよ、琴子」
「芸術……」
 確かに、花は愛でるものだ。食用の花もあるにはあるが、やはり観賞用として生産されているものが多いだろう。
 花卉栽培は、非常に手間がかかるものだ。例えば、野菜などは多少葉を虫にかじられたところで、出荷できなくなるわけではない。実を収穫するものならそれこそ影響などないし、葉物野菜であっても、虫食い部分がかえって『減農薬』や『無農薬』をアピールする材料となり得る。また、加工品などとして売るという手段をとることもできるのだ。
 しかし花は違う。趣味の園芸レベルなら別だが、市場に出回るとなると、当然その美しさを完璧に保持していなければならない。葉や花びらが虫に食われ穴があいているような花を、わざわざ金を払って買う消費者はいない。だから栽培者は農薬で殺虫除菌し、生産する。それが現状だ。
「品質保持のためならキミの嫌がる農薬をふんだんに使うし、さらに美しい花を生み出せるのだったらいくらでも品種改良をするんだ。それこそ、花の遺伝子を弄ってまで、ね。キミも青いバラの話を知っているだろう?」
 次々に彼の口から紡ぎ出されるトゲを纏った言葉が、胸に刺さる。私は何も言えず、ただ頷いた。
 青いバラは、もともと青色色素を持たないバラに、青色色素を作ることが出来る遺伝子を別の植物から導入し、生み出された。花言葉は『不可能・有り得ない』『奇跡』そして『神の祝福』。開発が成功したことは、テレビでも大きく報じられた。ほんの数年前の話だ。
 生命の本来あるべき姿を思いのままに操っておきながら、これを奇跡と呼び、神からもたらされた祝福だと歓喜する。私から言わせると、まったく、思いあがりも甚だしい。
 しかし、これだけではない。花卉だけではなく、野菜などの農作物でもこのような遺伝子組み換えによって誕生した品種も多くある。花とは違い、野菜は直接体内に取り込むものだ。当然、危険性を指摘する声もあがっている。
 これらが人体に害をなすのか否か。それはまだわからない。これから後に影響が出てくることも十分に有り得る。当然、無害である可能性もあるのだ。けれどそれでも、倫理的問題は拭い去ることは出来ない。
 しかし人が手を加えて開発されたものだけが、人に害を与えうるというわけでもない。
 安全といわれ長年使用してきた後に、健康に害を与えることが分かり、使用が出来なくなった天然色素の例もある。読んで字の如く、人が一切手を加えていない自然のままの色素だというのに、有害なのだ。
 私は思う。本当に危険なのは『自然のものだから安全』『人間が安全性に気を配って作ったから無害』という思い込みだと。既存の天然素材ですら今さらになって有害性が認められたりするのだから、人間の技術なんてしょせんはその程度のものなのだ。だから、技術力を過信しすぎた行いである遺伝子組み換えなど、本来は行うべきではない。たとえ神から恨まれることはあっても、祝福されることなんて決してないだろう。
 しかし、そうはいってもやはり花となるとそれも難しい。人は口にはしない。毒があろうがなかろうが、美しければ、それでいい。完成された美の前では、倫理すら霞む。そんな世界なのだ。青いバラは、その最もたる象徴だろう。
「倫理に反してなお、美をどこまでも追い求める……それが僕が立っている世界だ。――キミは、それでも僕を誘うのかい? 『天高七福神計画』に」
 彼は横目で、私に視線を送った。どこか物憂げな瞳が、美貌を引き立てる。思わず見とれてしまいそうになり、ハッとした。惑わされてはいけない。私は、見た目の美しさだけに囚われるような女では、決してないのだから。
 ――引き下がるか。それとも食い下がるか。
 ぐっと息を飲む。
 膝の上で、私は固く拳を握りしめた。
「はい」
 短い返事。シンプルでいい。外見を繕うようにごてごてと着飾った言葉は、私にとっては重いだけだ。
 私の返答に、彼は軽く口角をあげた。
「そうかい。じゃあ、こうしよう」
 そうして彼は、私の耳許に唇を寄せた。
 夏の太陽の下。
 彼の息が近い。
 吐息が肌をくすぐる。
 ――これはトゲだ。美しいモノに潜む、甘い罠だ。
「――――」
 彼は囁くような声で、私に告げる。
 夏の太陽は、いまだ空高く居座っていた。

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