沼底に沈む

 それは沼底に沈んでいる。沼底の、きらきらと輝きまたどろりと粘つくような手触りの、腐臭の染みついた汚泥の中に、手のひらで包み込まれるようにして、確かにそれは埋もれているのだ。

 ***

 すべてのものに神が宿るとは、この国において古来からいわれてきたことであるが、この集落にも、同じような考えが当然のように根付いていた。山には山の神が、川には川の神が、一本の木ごとに木の神が、釜戸には釜戸の神と火の神が同居していて、そして沼には、沼の神がおり、住民はその全ての神々に感謝を捧げて、時には祭事を執り行うなどして、長い間、慎ましく暮らしてきたのである。

 けれどそれももう昔の話だ。今ではこの山奥の村にも水道やガス、電気が通り、林業に従事して山に入る者はおれど、古くから崇められてきた、そこに宿っているとされてきた神の存在など、もう誰も信じてなどいない。ただその名残として、祭事のみが慣習として、その形だけを残すだけだ。

 いや、誰も、というわけではない。年寄りと、それに影響を受けた一部のこどもだけは、信仰心を失ったこの集落の中で、いまだ神を信仰し続けている。

 この集落の外れに、祖母とふたりで暮らす美耶という少年がいた。彼はその、一部のこどもだった。数年前に、彼の両親は山で命を落としていて、それ以来祖母と共に生きてきた美耶は、祖母に教えられるままに、山の、川の、火の、沼の、すべての神に感謝を捧げてきた。それ故に、彼が七つの頃に、祭事で行われる神楽の踊り手に率先して加わったのも、自然な流れといえる。

 幼女のような可愛らしさのある面差しをした彼が、舞台に立つなり年齢とは不釣り合いなほどに表情を凛と引き締め、舞子装束の長い袖を揺らし、鈴をしゃらんと鳴らして舞えば、神を信じぬおとなたちも、よもやここに神がおわしたのかと、不思議と思わされるのだった。美耶の舞姿からは、それを見る誰もが、こどもとは思えぬ艶やかさと華々しさ、そして神々しさすら感じずにはいられないのである。神への信仰が途切れかけたこの集落において、しかし美耶だけは、まさに神の化身であるとして、敬われていた。

 けれど当の美耶自身はというと、そのような周囲の視線を、息苦しく思っていた。

 特に、美耶の実の祖母は元々信仰深かっただけに、美耶にかける思いは人一倍で、彼が神の化身だと囁かれはじめてからは、彼が朝起きてから寝床に入るまで、文字どおり手取り足取りで面倒をみることを、いきがいとするようになっていたのだ。

 朝、美耶が目を覚ませば枕元に祖母がいて、桶に汲んだ水に布を浸し、冷たいそれで全身を清められる。それから着せられる衣服は、集落の他のこどもが身に着けているような洋服ではなく、美耶の体にあわせて特別に誂えた、紋様のない純白の狩衣だ。そうして、切ることを許されず女のように伸びた長い黒髪を、櫛で丁寧に漉かれたあと、ようやく朝食にありつくことができるのである。

 この集落には学校はなく、みな隣の集落の学校まで歩いて通っているのだが、けれど、大切な美耶に祖母が通学など許すはずもなく、彼は神の化身という荘厳な呼び名とは裏腹に、縄で繋がれた犬のように、不自由な身の上を受け入れなくてはならなかった。

 それでも、彼が幼いうちはまだよかった。彼も幼いが故の素直な心で、けなげにも「周囲の期待に応えなくては」と思い、祖母や集落のおとなたちのいうがままに、神の化身を演じたのだ。普段は家の中で、祖母の世話を受けながら、時折囀る鳥のような声で唄い、花が揺れるような可憐さで舞って、祖母や来客を喜ばせる。そして祭事となれば、美耶は意図して刀のような鋭さと美しさを演出し、そして気高く清廉な舞を披露した。彼としては、周囲の期待通りの振舞いをしたにすぎないのだが、見る者からすれば、この彼の二面的な姿が、余計に彼を神の化身らしくみせていたのだから、なんとも皮肉なものだ。彼は自らの手で、自身の人生を酷く苦しめるはめになってしまったのである。

 美耶が十五を迎えた年のことだ。美耶の祖母が、歳のせいか足を悪くしてしまった。そのせいで、彼女が一日のほとんどを寝床で過ごすようになってしまったため、美耶の世話は、近隣の家の女たちが交代ですることになったのだ。長い間、美耶を繋いでいた縄が、急に緩められたのである。昼間は世話人たちの目があるが、夜になればそれもなく、この家には動けぬ祖母と美耶が残されるだけであった。

 ふたりをおいては他に誰もいないこの家の中から、目を閉じ、耳をすまし、美耶は外の様子を伺った。しんと耳を刺すような静けさの、さらに奥の方を、細く尖らせた神経で探ってゆく。七日間、そうやって家の外を、音をもってじっくりと観察したあと、八日目の夜、静寂に溶けこむような足運びで、祭事のためではなく、自らの意思をもって、彼は家の中から抜け出したのだ。

 数年間にわたって彼を閉じ込めていた牢獄は、こうしてなんとも呆気なく打ち破られたのである。

 裏口から出てすぐ、美耶は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。きんと張りつめた夜気が胸を刺し、その鋭い痛みによって、美耶は今が冬であることを実感した。

背筋がふるりと震える。吐く息は白い。寝間着一枚で出てきてしまったことを、ここにきて後悔した。しかし、ようやく手に入れた自由な時間だ。それを一秒たりとも無駄にはしたくはない。

 朧月のぼんやりとした灯りの下、美耶はかじかむ手のひらに、はあと息を吹きかけてから、寒さを堪えるように強く拳を握りしめ、夜霧の中を駆け出した。

 行きたい場所があったわけではない。見たいものがあったわけでもない。この集落から逃げ出そうなんて考えは、美耶の心にはかけらも宿っていなかった。ただ、不自由を強いられていた生活の中でも、彼が感謝をし続けてきた神の存在をその肌に感じ、そしてひとである自分が『神の化身』などと呼ばれていることを、敬愛する神々に謝りたいという一心だけが、今の美耶を支配している。

 夜の帳が下りたこの狭い世界で、木々のざわめきを、清らかな水の流れを、草花の睦言を、そして包み込むような土の香りを求めて、彼は彷徨う。何も知らぬ者が、この美耶の姿を目にしたならば、冬の夜に寝間着一枚でうろつく彼のことを、きっとこの世のものとは思わなかっただろう。

 しかし美耶は、この闇の中にひとなど誰もいやしないことを知っている。家の中で閉じ込められて過ごす時間が長かったため、屋外の様子を確認する術として、彼は普通のひとより優れた五感と、そして研ぎ澄まされた第六感を備えていた。だからこの夜気が、ぴんと張った糸のように、ひとつのほつれもなく世界を包んでいることを、美耶は目で、鼻先で、耳で、そして胸の奥の不思議めいた部分で感じとり、そしてその意味するところを、言葉には表せない直感でもって理解していたのだ。

 

(生きていない)

 集落を、音もなく密やかに駆けながら、美耶は眉を顰めた。

 木々が揺れる音、小川の水流、草花の囁き、土の匂い。そういった自然にありふれているはずのものが、ないのである。

 胸の奥に、ざらついた不安が過る。

 死んでいるのではない。『生きていない』のだと、美耶は思った。木々も、小川も、草花も、土も、確かにそこに姿はあるのに、それらから生を感じられない。

 幼い頃、まだ美耶が『神の化身』などと呼ばれるより前、木々も草花も、もっと伸びやかで、川はきらめいて、その音はとろとろと優しく、土はふんわりと温かな芳香を漂わせていた。それらの鮮やかで美しい光景は、神の存在を確かに美耶に意識させ、そしてもう十年近く前の古い思い出だというのに、脳裏に色褪せることなく焼き付いている。

 今、目の届く範囲に、美耶の信じた神はいなかった。

 腹の底から、ぞう、と冷たいものが込み上げる。それは夜気と暗闇によって増長された悲しみだ。

「死んでしまいたい」

 美耶はぽつりと漏らした。その呟きが、闇に融けていく。いつの間にか月は、雲によって隠されていた。

 神のためにと、舞うことを続けてきた。『神の化身』と呼ばれ、家から出ずに暮らす日々の中でも、神を信じ続けてきたのだ。それが、どうだ。神なんて、とっくにこの集落から、姿を消していたのだ。

 あちこち舗装されてしまった土の道。虫避けの薬が撒かれた畔。手入れが行き届かず荒れた山。コンクリートで固められた川。集落のあちこちに手が加えられたのは、美耶の耳にも入っていた。けれどそれが、ここまでこの集落から生を奪っているなんて、まだこどもで、それも家に閉じ込められていた美耶が、どうして知ることができるだろうか。

 不自由な生活の中で、神を信じ、舞を捧げることだけが、彼の支えだったというのに。

 重くなった足取りで、今度は本当に宛もなく、美耶は闇の中を彷徨した。

 もう美耶の目には、何も映ってなどいない。月あかりがないせいではない。悲しみという深い闇に覆われ、淡く霞んだ意識だけの存在へと、美耶は成り果てていた。そうなれば、どこまでもついてまわるからだは重く、物質的な意味しかもたないそれは、彼にとってはただ邪魔なだけだ。

(捨ててしまおう)

 だから美耶が、夜霧に浸された思考で、そこに射す一筋の陽光のような救済を望んだことは、もはや必然的であっただろう。

 このからだを捨て去ることが、今、自分にできるせめてもの償いだ。まだ十五の少年が、身を裂かんばかりの悲しみから逃れる術は、そう信じるほかになかったのである。

 そうして美耶は、鬼火の如く、ゆらり、ゆらりと、漆黒の世界を漂った。

 闇、一面の闇。

 これが、神のいない世界か。美耶は思う。

 光がないことが、不安なのではない。

 神の存在すらどこかへ追いやってしまうほどの人間の力が、心底恐ろしかった。

 寒さなんて、とうに感じなくなっているというのに、冷たい氷柱に貫かれたように、彼の意識がぶるりと震える。

 いまや彼を庇護するものは何もなく、初めて感じるいいしれぬ孤独に、美耶は苛まれていた。

 不意に遠いところで、美耶のからだが沈む。ずぶり、ずぶりとゆっくり埋もれていく。冷たくも熱くもなく、温度というものを一切感じさせないそこは、無、というほかない。否、既に意識とからだはすっかり分かたれていて、そのおかげで何も感じないだけなのかもしれなかったが、そんなことは美耶の知るところではなかった。美耶は漆黒で塗りつぶされた視界の中で、やや離れた場所にあろうからだが沈みゆく様を、ただぼんやりと眺めている。終わりとは呆気なくやってくるものなのだな、と意識の端でぽつりと思考した。そうなれば、つい先ほどまで感じていた恐怖などどうでもよく感じられてくる。

 終わり以上の恐怖などない。しかしいまや、美耶はその終わりこそ救いだとみなしている。彼に恐れることなど、何もないのだ。それは、蝉がするりと古い皮を脱ぎ捨てるような、硬い花蕾が柔らかく綻ぶような、すべてが生まれ出づる瞬間に似ていて、また、木々から葉が落ちるように、艶やかな蝶が地面に伏せるように、すべてが死に絶える瞬間にも似ていた。

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