沼底に沈む

 彼の精神が明らかな変革を迎えた、その刹那のことだ。

 からだを飲み込む無から、ごぶ、ごぶ、と何かを吐き出す音が聞こえてきたのである。

 あ、と口に出す間もなく、美耶の視界がひらけた。ひらけた、ように錯覚した。無から溢れ出してきたのは、真っ白な光だ。漆黒から純白、まったく正反対の性質をもった世界へと、美耶は一瞬の内にさらわれた。

 とん、と軽い衝撃。そして続いて感じる確かな重力。意識とからだが、ぴたりと同じ枠にはまった感覚があった。酷い風邪をこじらした時のように、全身が気怠い。

 足が、手が、露出した皮膚すべてが、柔らかな何かに触れていた。

 ふわりと優しい匂いが、美耶の鼻腔をかすめる。土、木、水、花、草――、幼き日に感じたきり、今は失われた、懐かしい自然の芳香。それはかつて、集落に住まうすべての人々が神を信じていた頃、確かにこの集落全体に満ち満ちていたのだ。

 冬というのに、そこは暖かかった。小さな花をつけた草の群。それを囲むように木々が立ち並んでいる。その草野原の中心に、ぽっかりと、大きく、丸く、輝く白い光があった。その光によって、美耶の周囲は明るく照らされている。

 美耶は、その草の上に横たわっていた。そして、いつの間に開いたのか自分でも分からぬその双眸で、すぐそばで輝く光を見ていた。彼の長い黒髪が、水の流れのように広がり、毛先の一部が、その光の中に吸い込まれている。

「きれい……」

 美耶は思わずそう漏らしていた。言葉とともに、彼の滑らかな頬に、つうと涙が一雫、落ちる。

 しかし光は、徐々に力を失っていく。少しずつ、辺りが暗くなる。やがて光は、現れたのとは逆に、今度は闇に融けるように消失した。そしてそこには、どんよりと濁った沼が、空に再び現れた月のあかりによって、照らしだされている。彼の髪は、光ではなく、その暗闇にも似た沼の水に浸っていた。

 どうやってこの場所に侵入したかは覚えてなどいなかったが、ここは恐らく、集落のはずれにあるという沼であろうと、美耶は推測する。実際に足を踏み入れたことこそなかったが、幼い頃に一度だけ近くを通ったことがあった。

 山からは少し離れて存在する小さな林の前には、崩れかかった鳥居が建っていて、そこには朽ちて僅かほどその姿を残すのみとなっている注連縄が、だらしなくぶら下がっている。

『どうして、あんなにぼろぼろなの?』

 記憶の中の幼い美耶は、明らかに不自然なその場所に対し疑問を抱き、彼の手をひいていた両親に尋ねた。

 訊かれた両親は、ふたりで顔を見合わせ、さも不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。

 母が言う。

『どうしてって――』

 そして父が言う。

『あんなもの、もう必要ないからだよ』

 そして再び顔を見合わせて、にいと笑う。にい、と、笑った、それは、現実だったのだろうか。それとも幼い美耶がわずかに感じた恐怖から作り上げた幻想だったのだろうか。真実は定かではないが、その時の両親は、まるで美耶の知らない生き物のように、美耶の目には映ったのである。

 それから数日後だった。美耶の両親が、山で変死したのは。

『美耶、おまえは神の化身なんだよ』

 そして残された美耶に、いつからか祖母はそう言い聞かせるようになる。

 今思えば、美耶を『神の化身』だと呼んだ集落のおとなたちは、みな、美耶のことを恐ろしく思っていたのかもしれない。彼が、他でもない美耶が、彼の両親を山で殺したのだと、そう思ってさえいたのだろうかと、今になって美耶は考える。だから、彼を『ひとではないもの』に仕立てあげることによって、住民らは、自身の不安を、少しでも和らげようとしたのではないか。

『あんなもの、もう必要ないからだよ』

 父の言葉が、美耶の頭の中をぐるぐると駆け巡る。

「あんなもの、もう必要ないからだよ。あんなもの、あんなもの、あんなもの、もう、必要、ないからだよ」

 美耶の唇から、父の声が溢れ出す。記憶の中のそれと、寸分違わぬ音で。

(あんなものって、なに?)

 自問しながら、答えは既に美耶の心の中にあった。

 それは、自分だ。

 この集落にとって必要のないもの。それはかつて住民が敬愛した神、そして、美耶なのだ。

 地面に落ちた雨粒のように、記憶が弾ける、覚醒。

 眠ってしまっていたのか、気絶してしまっていたのか。美耶は勢いよく瞼を開ける。ふわりと漂う草の香り。彼のからだはいまだ地面に横たえられたままだった。沼に浸かった髪を伝って、その水の冷たさが、じわりと肌にまで昇りつめてくるようだ。この場の空気は暖かいというのに、沼の水だけが、冬を実感させるような温度だった。

『もはやおまえはひとではない』

 唐突に聞こえてきたのは、きん、と耳を突き刺すような高音だった。声ではない。音だ。けれどその音に、言葉としての意味がのっているのである。不思議な感覚だった。その響きは極めて不快で、けれどそこには、反論などとても許されぬ、絶対的な力が宿っている。

『もはやおまえはひとではない』

 美耶は思わずからだを起こした。沼を、自分を取り囲む林を、ぐるりと見渡す。けれどそこには、誰もおらず、風すら吹かぬ、静かな沼畔の景色がただ広がっているだけだ。

『もはやおまえはひとではない』

『もはやおまえはひとではない』

 その音は、沼から響いていた。そして同時に、美耶の頭の中に直接響いていた。

『おまえは神の化身なんだよ』

『おまえは神の化身なんだよ』

 不可思議な音が、記憶の中の祖母の言葉と重なる。

 酷い頭痛がした。頭が割れそうだった。

「もう、もうやめて」

 美耶は両手で耳を塞ぐ。けれどその手に力を込めるほど、頭の中の音は大きくなっていく。

(じゃあ、ぼくは、なんなの)

 ひとでなければ、一体、何者だというのか。

 ぞ、と身震いがした。どことなく違和感があったのだ。

 はっとして、耳を塞いだまま、自分のからだを確認する。

「ああ……」

 悲壮感に満ちた声が、美耶の口からもれた。背中で揺れていた、彼の黒髪の先が、じわりじわりと、その色を白く変化させていたのだ。それは、沼の水に浸かったあたりがはじまりのようであった。

(ひとで、なくなってしまう)

 咄嗟に、そう感じた。

「もはやおまえは神なんだよ」

 祖母の声と頭の中の音とが混じり合い、聞きたくもないようなおぞましい言葉が生まれる。ぱん、とガラスが割れるような衝撃が、美耶を襲った。ぐらりと頭が揺れる。酷い目眩がして、目の奥が鼓動に合わせて鋭く痛んだ。

「ちがう、ぼくは――!」

 それらすべてを払いのけるように、美耶は頭を大きく左右に振った。徐々に元の色を失っていく髪が、嵐の中でなびく柳葉のように激しく揺れる。それを一房、両手で掴む。そうして一気に、力を込めて引いた。ぶちりと嫌な感触が、頭皮から背筋を伝い下りていく。いくらかの長い髪が、彼の細い指に絡まり、抜けた。

(人間、なんだ)

 白い喉を反らせ、天を仰ぎ、獣のように、吠える。そこには、かつて神のために清められた身で優雅に舞い踊り、さらに神の化身とさえ呼ばれた、触れがたい聖なる乙女のような姿をもった彼などいなかった。今の美耶は、乱れた薄い寝間着一枚を身に着け、肌をところどころ土で汚し、いくつも小さな傷をつくり、そして自分自身の心内で静かに怒りを燃やす、ただのひとりの人間だった。

 空では薄雲に隠された丸く白い月が、美耶を見下ろし、不敵に微笑んでいる。

 美耶は月を、きつく一睨みし、唇を噛んだ。嘲笑われているような気分だった。

「神よ」

 それでも、震える声で、唄うように美耶は言う。

「ぼくに、ひとのまま死ぬ機会を与えてくださり、感謝します」

 草の生えた地面に、つう、と足を滑らせれば、そこはすぐに沼だ。

 かつては綺麗な清水が湧いていたといわれるこの沼は、今ではどろりとした水が溜まり、異臭すらする。かつてひとびとは、この沼の水を頼りにこの場所へと集まり、そうしてできたのが、この集落であるとされていた。

 美耶は思う。先ほどの沼からの光も、頭の中に流れ込んできた音も、どれもこの沼の神の仕業だったのではと。この汚れた沼の汚泥の底に、神はまだ、いるのだ。

 沼を汚したのは、ひとか。あるいは、驕れる人間への、神の怒りだったのか。それは美耶には分からない。分かるはずもない。そして、分かる必要など、もはやない。

 美耶は、闇にも似た沼へと、その身を踊らせる。からだをくねらせ、水に落ちる瞬間、彼は月を見た。既に雲は晴れ、歪みのない美しい月が、そこにはあった。そこに浮かぶ表情は、もう美耶には読み取ることができない。

 細い背から、着水。淀んだ冷たい水の中へ、彼のからだは沈んでいく。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

(――神よ、感謝します、感謝します)

 深い沼の底で、堆積した汚泥に意識が融ける、その最期の瞬間まで、彼は心の中で、神への感謝を唱え続けた。

 あくる朝、世話役の女が美耶の元を訪れると、そこに美耶の姿はなく、すぐに集落中の騒ぎとなった。それを聞いた美耶の祖母は、混乱し、意識を失って倒れてしまい、それでなくても彼女は足が悪く動けないので、しかたなしに集落の男たちが、あちこち美耶を探し回ったのだ。

 しかしどこにも美耶の姿はなく、そのうちに、これは夜に乗じて集落を出たか、あるいはあの林の中か、という話になるのは当然の流れだった。

 鳥居の奥の林は、集落の者にとっては、かつては水神様や沼神様がおわすとして神聖視されていた場所である。けれど、沼に湧く水が泥のように濁りだしてからは、誰も立ち入ることがなく、荒れていた。それに元々そこは薄暗く、気味の悪い場所であると、口にこそ出しはしないが、誰もが思っていたのだ。だから、汚水が湧きはじめてから、この場所が放棄されるまでは早かった。

 さて、問題は、放棄されて久しいかつての聖地にまで、捜索の手を伸ばすかということである。けれどそれには否定的な声が多かった。『神の化身』がこんなところにいるはずもない、とみな声を揃えて言うのだ。もちろん、本当にそう思っているはずもなく、それはただ、この林に足を踏み入れたくないという気持ちの現れだった。

「でも、もしここにいたら」

 そんな中で、集落で一番大人しい、気弱な男が、おずおずとそう切り出したのである。その言葉に、男たちは口を噤んでしまった。やがて、先ほど口を挟んだ気弱な男と、その他に若い数人の男が、様子を見に林の中に入ることになった。

 男たちは朽ちた鳥居を避け、林の中へと足を踏み入れた。

 茶色く枯れた草が、足元を覆い、つんと鼻をつくごみ溜めのような臭いが、そこには漂っていた。

 林は、あっさりと途切れた。そこに現れたのは、ぽっかりと丸くひらけた空間だ。沼畔は、剥き出しの土。そして中心に、口を開けた化け物のように、今まさに何かを喰らわんとするほどの迫力をもった、黒い水を湛えた沼があった。

「おおい、おおい」

 男たちは、周囲の林に向かって声をかけた。けれど、あたりはしん、と静まり返るばかりだ。

「やはり、ここにはおらん。早く出よう」

 男のひとりが、早々と出口へと向かいながら、他の男に声をかけた。「そうだな」「しかたないな」とみな口々に言い、沼に背を向けようとした、その時であった。

「お、おい、あれ……」

 裏返った声を上げたのは、先ほどの気弱な若者だ。彼は、慌てた様子で、沼のそばへと駆け寄っていき、そこで膝を折った。他の男たちは彼の様子に驚きつつ、その後を追う。

「なんだ、どうした」

 乾いた地面に膝をついた男を、後ろから覗き込むようにして声をかける。そうして、あ、と小さな悲鳴じみた声が、誰かから、あるいは、みなからもれた。

 しゃがみこんだ男の手の中にあったのは、黒く長く、そして絹のように美しく、そして先の方が、色艶を失い白くなった、ひとの髪の毛であった。

 もう、男たちは誰ひとりとして、口を開くことはなかった。

 その後、美耶の祖母は、意識を失ったまま帰らぬひととなった。

 美耶が行方知れずになってから、不思議なことがおこった。集落でこどもがまったく生まれなくなったのだ。さらにそれまで集落にいたこどもたちも、重い病気にかかって遠い街の病院に入院することになったり、親の不幸などで集落の外に養子に出されていったり、それぞれ事情は違えど、みな出て行ってしまったのだ。そうして、ひとりまたひとりと年老いた住民が死んでいき、その様子に恐れをなした若者はみな、この場所を去っていった。彼らは、ここに二度と戻ることはないだろう。

 このような調子で、たった十年ほどの間に、この集落に住む者はひとりとしていなくなってしまったのであった。

 誰も意図せぬにもかかわらず、こうして美耶の存在は、かつては神を愛し、崇め奉っていたこの集落ごと、消されていったのである。

 ***

 神を愛し、神の化身と謳われながら、ひとであることを最期まで願った少年は、冷たく、優しく、どろりとした腐臭の漂う沼の底で、何年も、何十年先も、恐らく未来永劫に、誰にもその存在を知られることなく、ひっそりと、そして静かに、沈み続けるのだ。

(了)

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