或る少年の追想―彼が如何にバランを愛したか―

『終わった』と思っていたのは、どうやら自分だけだったらしい。

 そのことに好男が気付いたのはひと月ほどたった頃だった。

 好男は放課後、学校から自宅アパートまでは徒歩で帰宅する。所要時間は四十分ほどだが、バスに乗れば交通費がかかってしまうし、歩けない距離でもないから、特別に苦とも感じたことはない。

 同じ方向へ帰るクラスメイトはバス通学なので(そもそも、一緒に帰る気もないのだが)今日も好男はひとりで学校を出た。そしてすぐに、違和感に気付いた。

 ひとりで学校を出たはずなのに、足音がしたのだ。自分のものと、もう一つ。男子が履くスニーカーの足音ではない。硬質な踵が、こつこつと、アスファルトを叩いている。誰かが後ろにいるようだった。

  こういうことも、たまにはあるだろう。通学路なのだから、他の生徒が同じ方向に歩いていたとしても、不思議なことではない。好男はその違和感を、単なる偶然だとして、すぐに頭の片隅に追いやった。そんな些細なことよりも、早く家に帰りたいという思いが、好男の中で勝っていた。

 住宅街を抜け、シャッターが降りたいくつかの商店を横目に歩く。

 耐用年数ぎりぎりか、既に過ぎているかもしれないと思うほど古びた橋を通り過ぎると、その先は民家が点々とあり、周辺は田畑に埋めつくされている。

  そこから十分ほどさらに歩を進めると、好男が母と暮らしているアパートに辿り着く。この田園地帯の中にひょっこりと、三棟ほど背の高いアパートが並んでいる。周囲と同じように元々は田だった場所を埋立てて建造されたらしい。好男は生まれてからずっと同じアパートに住んでいるし、彼が物心ついたときから既に 『古い建物』という認識はあったので、築年数はかなり嵩んでいるだろう。

 三階建てアパートの二階に、彼が住む部屋がある。当然ながらエレベーターなどあるはずもないから、二階に上がるには、コンクリート造りのその角が欠けはじめた階段を昇らなければならない。

 階段の前で、好男は立ち止まった。さすがに、何かおかしいと気付いたのだ。

 学校を出た時に背後から聞こえてきた足音は、いまだ彼を追っていた。そして、彼が止まると同時に、案の定その足音はおさまった。

 首だけで、ちらと振り返る。

 好男と十メートルも開けないほどの距離に、赤崎が立っていた。

「……尾行が趣味なの、君。この間といい、今といい」

 その呆れた物言いを受けても、赤崎は言い訳もせず、ただ身を縮めるばかりだ。

 好男は大きく溜息をつくと同時に、肩をすくめた。

 彼女の家がどこにあるかなんて、好男は知らない。けれど、保育園が一緒だったのだから、極端にこの場所から遠いということもないだろう。ここで「帰れ」と冷たくあしらうのは簡単だ。けれど、赤崎の好男に対する執拗さは、そんなことでは失われるはずもない。現に、先日彼女の告白に答えなかったというのに――或いは答えなかったせいで――彼女はまた、好男の後をつけてきたのだ。

 断るならば、今度ははっきりと答えなければならない。だからといって、もしこの場所で口論にでも発展してしまえば、アパート住民の間でおかしな噂になってしまうだろう。

「まあ、上がっていけば」

 考えた末、好男は彼女を部屋に招き入れることに決めた。

 赤崎は、好男の誘いに表情を輝かせ、足早に駆け寄ってくる。それを確認して、好男は階段に足をかけた。

 誰かを自宅に入れるのは初めてだった。

 ふと、好男は思う。あのことが、バレてしまうのではないか。

 しかしすぐに小さく頭を振る。招き入れるといっても、せいぜいダイニングまでだ。自室を見せるわけではないのだから、自分の秘密を彼女に知られるはずもない。

 そう思い直した時には、既に玄関扉の前に立っていた。

 壁にかけた時計の秒針の音が、やけに大きく、部屋に響いていた。そこに、茶をすする音が混ざる。

 冷えた麦茶が注がれたグラスをテーブルに戻しながら、時計に目をやる。もう十分以上も沈黙が続いていた。

 赤崎は椅子に座ったまま、グラスにも口をつけず、じっと押し黙って俯いている。その様子を向いに座って眺めながら「ああ、やはり自分はこの女が嫌いなのだ」と、好男は改めてそう感じた。

 情愛によってのみ突き動かされる点においては、彼女と好男は似通っていて、その行動原理については彼自身も理解したつもりだ。しかし、理解することと好意を抱くことは、同義ではない。

 そして恐らく赤崎は、放っておけばこのまま何時間でも沈黙を続けるだろう。元より、彼女はそういう性質なのだ。肝心な部分については、いつだってこうして口を噤んできた。

「はっきり言うけど」

 赤崎の目を見ずに、口を開く。彼女は目線を上げ、緊張のためか、ごくりとひとつ、唾を飲み込んだ。

「二人きりだからって期待しても、何もないよ。僕が君を好きになるなんてことは、絶対にないから。ましてや、手を出すなんてこともね」

 言いながら、彼は想像した。

 赤崎の肌に触れる自身の指先を。

 重なり合う、唇と唇を。

 汗ばむ細い首筋。

 甲高い嬌声。

 そのどれもが、嫌悪の対象でしかなかった。胃の奥からせり上がる嘔吐感を、麦茶で押し流す。胸ポケットにおさめたままのバランを取り出し、今すぐにでもその感触を求めたい気分だった。

 赤崎の目に、涙が溜っている。女らしく成長した顔には、あの日と同じ表情が浮かんでいた。

 胃袋を手で押し潰されるような不快感が、好男に宿る。

「……ごめんなさい」

 乾いた喉から捻り出した声で、彼女は言った。

「好男くんが私のこと、嫌いだって分かってる。保育園で、私が好男くんを怒らせてしまったから。でも、私、それでも好男くんのことが好きなの。諦められないの。私のことを好きになって……なんて、言えないけど、ずっと嫌われたままなのは辛いから――」

「だから、何」

 声に苛立ちが滲む。

「好男くんの気が晴れるまで」

 涙が彼女の頬を伝う。

「――私を殴って」

「……は」

 赤崎の言葉に、目眩がした。

 彼女が何を言っているのか、解らなかった。

 戸惑う好男に構わず、赤崎は腰を上げ、身に着けていたブラウスのボタンを外し始めた。

 呆気にとられて、好男はそれを制止することもできない。

 徐々に胸元が露になる。薄いピンク色の下着に包まれたふたつの膨らみが、好男の目に入った。そこに、滲んだ紫色の痣がある。それはひとつだけではなく、よく見れば大小幾つもの痣が、肩や胸元、腹部に散っている。

 一目で、暴力を受けた痕だと分かるその痣を、彼女は隠しもしない。

 ブラウスを脱ぎさると、続けてスカートのホックを外す。すぐに、すとん、と足元に落ちた。股間を覆うショーツも、ブラジャーと同じ色をしていた。

「殴るだけじゃ、足りないと思うから……私の全部、めちゃくちゃにして、いいよ」

 涙の跡が残るその顔で、彼女は笑った。

 彼女のことを僅かでも理解したつもりになっていた自分自身を、好男は今更になって責めた。

 肉体的・性的な暴力を甘んじて受けさえすれば、相手の怒りを静めることができるとでも、彼女は考えているのだろうか。何が彼女をそうさせたのか、好男には当然分からないし、分かりたくもなかった。

 同時に、好男は自分が、他者を制圧することでしか怒りを発散できないような人間と同種のように扱われたことが、我慢ならなかった。

「……そう言えば、僕が喜んで君を犯すと思った? それともその痣だらけの体を見て、哀れんで、慰めてくれると期待した?」

 好男は立ち上がり、じり、と摺り足で、赤崎との距離を詰めた。

「ち、違うの、そんな」

 否定するその声は震えている。

「今君がやっていることは、君に痣をつけた奴がしていることと同じだ」

 そんな彼女に向かって、好男はぴしゃりと言い切る。

 あの日、彼女が好男に、自分の弁当箱に入っていた柔らかな黄色をしたオムレツを差し出してきたような気軽さで、彼女は自らの体を捧げようとしている。嫌われたままが嫌だなんて言い分は、後付けにすぎない。彼女は、幼い頃の怒りをいまだひきずり続けている好男を哀れんでいるだけだ。そしてそれは、好男に対してだけではない。彼女を力でねじ伏せることしか出来ない誰かのことも、きっと同じ目で見ているのだろう。そして、体を差し出すことで、その怒りを慰められると思っているに違いない。――少なくとも、好男にはそう感じられた。

「酷い……好男くん、私は本当に」

「酷い? 酷いのは君の方だ。いつもひとのことを見下してる。僕のことだって、施しをしてやりたくなるほど、哀れだと思ってるんだろう? いつもひとりでいて、友達もいない寂しいやつだと、馬鹿にしているんだ。君は、小さい頃からそうだった。僕はちゃんと知っているよ」

 まくしたてるように、早口で、好男が言葉を紡ぐ。

 赤崎は、とうとう両手で顔を覆って、すすり泣き始めた。

 下着だけを身に付けた姿で涙する彼女を見たところで、彼には罪悪感もない。ただ、面倒だな、とだけ思う。けれど自宅に彼女を入れたのは、好男自身だ。面倒でも、事態を収拾させなくてはいけない。

 彼女は暴力に支配されているが、彼女自身も暴力を利用しようとしていた。そんな彼女を傷つけたところで、それこそ彼女の思うつぼだ。さらに赤崎には言葉も通じない。彼女は好男がどう言おうとも、それを拒絶とも認識しないのだ。

 だから暴力以上の衝撃でもって、好男への諦念を植え付けなければ、赤崎はこれから先も、好男に係わろうとするだろう。そんな関係は時間の無駄でしかない。

 好男は振り返り、自室への扉を見た。

 その中に広がる光景を、頭の中に浮かべる。

 好男はひとつ、溜息を吐くと、自室の扉へと歩み寄り、ノブに手をかけた。そして、ちらと振り返り、

「泣いてないで、こっちに来たら」

 ダイニングの隅で佇む彼女に向かって声をかけた。

「え……」

「するんだろ、セックス」

 涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、目を丸くして赤崎は好男を見る。

「食卓の上でも構わないけど」

 ふたり分のグラスが置かれたテーブルを顎で示すと、彼女は慌てて首を何度も左右に振った。足元に散らばったブラウスとスカートを拾い上げると、それをまとめて胸のあたりに抱く。俯き加減で、上目に好男の様子を伺いながら、彼女が好男へと近付いてくる。

 気を抜けば、今にも嘔吐しそうだ。これからふたりで性交をするのだと、彼女が思っていることが、とにかく不快でたまらなかった。

 ノブを握ったのとは逆の手で、胸元をさする。胸ポケットの中に感じる存在だけが、彼にとっての救いだった。

 好男は唾を飲んだ。

 ノブを捻る。

 部屋の内側へ、ドアを押し開く。

 さらさら、薄い何かが擦れ合う音が折り重なり、部屋の外へこぼれ出す。

 風に葉を揺らす木々の囁きに、それは似ていた。

 目に飛び込むのは鮮やかな緑。

 四畳ほどの狭い部屋。

 カーテンがひかれた窓から、僅かに光が差し込み、部屋の中の緑がそれを反射する。

 壁、床、天井――すべてが緑で覆われている。小さなバランが、ひとつひとつ、丁寧に貼り付けられているのだ。

 好男は無意識に甘い吐息をこぼしていた。

 つい今しがたまで彼を苛んでいた嘔吐感など、この光景の前にあっさりと消え去った。代わりに、彼の下腹の奥に、粘度のある熱が宿る。

「これ……何……」

 声を震わせて呟く彼女を押しのけるように、好男は自室に足を踏み入れた。

「何って……見て分からない? バランだよ。ああ、でも、君は知らないかもしれないな。君の弁当は、いつも色鮮やかで、バランが入る隙なんてなかったから」

 白、茶色、その間を彩るささやかな緑色。彼の母が作ったのが、二色の弁当であったからこそ、彼はバランの魅力に気付くことができたのだ。

 好男は壁に貼られたバランに指を這わせた。そっと慈しむように。バランの表面にある、葉脈様の縦筋は、規則正しく並び、その感触を、指先が余すことなく捉える。色情狂の脳髄が、その感触を快感へと挿げ替えた。体の芯がどろりと溶かされ、その代わりに下半身に唯一、芯を持ち始めたものがある。

 ついには、胸ポケットに大事にしまっておいたものを取り出した。くるんでいたティッシュペーパーを適当に床に落し、手のひらの上に並んだ五枚のバランに、彼は堪らず舌を這わせた。ざらざらと舌を刺激する細かな凹凸が、甘い痺れとなり、全身を震わせる。体が熱かった。酷く興奮していた。は、は、と犬のように荒い息を、好男は吐いた。

 ひ、と引きつった声が、赤崎の口から漏れる。

 横目で確認すれば、彼女は青ざめた顔で、一歩、後ずさっていた。

「僕のことが好きだっていうなら――」

 彼女に対して、好男は初めて、満面の笑顔を浮かべた。しかしその頭の中にあるのは、緑色をした、人ならざる愛しいものの姿だ。

「せめてバランに生まれ変わってきてくれる?」

 彼女は好男から目を逸した。その顔からは、さらに血の気が引き、既に白い。

「……っご、ごめんなさい、ごめんなさい、私、ごめんなさい……っ!」

 下着姿のまま、彼女は玄関へと向かったようだ。

「ああ、服は着て帰ってよ。変な噂が立つと困るから」

 好男が部屋から出ずにそう言うと、暫く衣擦れ音が続いたあとに、玄関のドアが、ぎい、と軋んで開き、すぐに勢い良く閉まった。こつこつと、硬質な足音が遠ざかっていく。

「――変な噂、ね」

 足音が完全に消え去ったのを確認してから、彼は自室の扉を閉め、ひとり呟いた。

『アパートの部屋から裸同然の女を追い出した』のと、『バランで性的興奮を覚える異常者』という噂であれば、果してどちらがましであろうか。

 考えかけて、やめた。考えなくても、答えは明らかだからだ。

 好男は、バラン敷の床へと仰向けに寝そべった。首筋に、かさかさと、草のような感触。草原のようにむせかえるような緑のにおいはしない。それどころか、丁寧に洗浄されているプラスチック製のそれらは無臭だ。

 ぐずぐずに蕩けた頭で、好男は思う。バランを愛したことは決して異常なことではない、と。

 バランは幼い好男を救った。孤独の底から。惨めさの中から。バランは、彼の中では唯一のヒーローだったのだ。バランだけが、いつも彼の心に寄り添っていた。だから彼はバランをごく自然な流れで愛し、求めた。

 好男は想像した。世間から『異常性愛者』だと、後ろ指をさされる未来を。ずっとこの狭い部屋の中に閉じ込めておくはずだった彼の欲望を外部に晒したことにより、今後目にすることになるかもしれない、そのおぞましい光景を。

 好男の中に、赤崎はここで見たことを口外しないであろうという、自分勝手な憶測があった。けれど、この秘密が守られる保証など、本当はどこにもないのだ。

「もし……、もし、そんなことになったら……一緒に、死のうか」

 一面緑色の天井が滲む。好男は目を閉じた。

 そして思い描く。想像上の自死――否、緑色の愛しきものたちとの心中。

 誰も知らぬような山奥の淀んだ沼の底に、鮮やかな緑と共に沈む、極めて荒廃的な最期。

 或いは、地面に叩きつけられた自身の体から迸る鮮血の上に、雪の様に舞い落ちる愛しい緑。

 ゆっくりと、彼の中の熱が冷めていく。

 そして彼の胸の奥底には、僅かなぬくもりだけが残った。

 手のひらの中にある、五枚のバランを、彼はきつく握り締め、その胸に抱く。

 部屋中に貼り付けられたバランが、風もないのに、さらさらと揺れた気がした。

(了)

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