或る少年の追想―彼が如何にバランを愛したか―

 これは、自慰ではない。

 葉山好男は、硬く屹立した自身の性器を右手のひらで包み、上下動でそこに刺激を加えながら、徐々に芯を失い痺れていく頭で、そんなことを考えた。

 傍目からは自慰としか見えないこの行為は、しかし彼にとっては間違いなく性交なのである。

 それが、ひとりでは出来ないものであることぐらい、彼も知っていた。知りながらなお、この行いは性交だと考えているのだ。

 尾を引くように粘性を帯びた摩擦音が、四畳ほどの、決して広いとは言い難い室内を支配する。性器の先端から僅かずつ溢れ出した透明な液体が、彼の五指にまとわりついていた。

 だらしなく開いた薄い唇の間から、甘い声が零れる。性感によってすっかり麻痺した聴覚神経が、自身の声を何重もの膜を通したようにくぐもらせて頭へと伝達する。頭蓋の下で、ぶよぶよと、だらしなく肥大した嬌声の残響は、色狂いの脳髄によってまんまと快感へとすり替えられたようだ。その証拠に、彼の手のひらの中で息づく欲望の内側には、更に血液が集中している。そのせいで表面にはくっきりと太い血管が浮き出し、そこを握る彼の指に、己の心臓の脈動を、さも他人事のように感じさせるのである。

 好男は、より速く、その右手を動かした。絶頂が近付きつつあるのだ。彼の視界は、ざらつく砂を撒き散らしたように、細かい斑状に白み始めていた

 左手を、徐に胸に寄せる。そして、その指先に摘んだあるものを、胸の上で勃ち上がった小さく赤い粒へと押し付けた。そして、そこを何度も擦るように往復させる。それにより、細微ながらも鋭い刺激が波状に与えられ、粒の中にはっきりと芯が生まれた。

 体をやや前傾させ、好男は顔を、目の前の壁へと寄せた。正確には、壁に貼られたあるものに。

 薄っぺらく、緑色をした、プラスチック製のその物体。元は横長の長方形であったと推測できるその上部は、不規則な山谷を形作るように切られており、まるで子供が描いた、大雑把な造型の草にも見える。草の下辺からはまっすぐ縦方向に、人工の葉脈様の筋が伸び、いくつも等間隔で並ぶ。水も養分も運ばぬ人工葉脈の部分は、他に比べ僅かに突出していた。

 胸の突起を刺激するために、彼の左手指に挟まれているものが、まさしくこれと同じ物だった。

 彼は、行為に没頭する間中、虚ろな目で、壁に貼られたこの人工草を見ていた。

 そしてこれこそが、性器と胸の突起を自ら愛撫するだけの行為を、自慰から性交へと昇華せしめている最大の要因なのである。

 彼は唇の間から舌を伸ばし、壁に貼られたそれを、下からねっとりと舐めあげた。

 山形に細くなった先端が壁と擦れ合い、かさ、と小さく音を鳴らす。舌先には、葉と葉脈の細かな凹凸がつぶさに感じられ、ざらざらとした感触は好男の背筋をぶるりと震わせる。そして、彼の下腹部で熱を持つ霰もない欲望を、益々膨張させた。

 舌が、そこから離れる。

 息を詰める。

 好男の視界が、白色に明滅を繰り返す。

 同時に彼は、性器を擦り上げていた右手で、その先端を覆う。

 膨れ上がったそこが、大きく脈打つ。

 先端の僅かな割れ目から、脈動に合わせたように、生温かな液体が複数回にわたって吐き出された。

 胸の突起を弄んでいた左手は、体の横に力なく垂れる。汗で貼りついていたのか、指先から、シート状の人工草が、はらりと剥がれ落ちた。

 下腹が、性器が、いまだ痙攣するように震えている。

 好男は、ゆっくりとした動作で性器から手を離し、顔の前まで持ち上げる。緩く握った手の端から、白濁した液が滴り、一筋、手首を伝った。

 そしてようやく五指を開く。その手のひらの中心には、透明の中に白が多く混じった液が溜っている。そして、液溜りの下には、人体では有り得ない、緑色。

 白濁によって汚されたその緑色は、壁に貼られている、そして先程まで彼の胸を愛撫していた、大雑把な草を模したあのプラスチック製シートだ。

 彼はうっとりと、手の中のそれを見つめた。

「あぁ……可愛いよ、バラン……」

 うわごとのように呟き、そして再び視線を、壁に貼られたそれ――バランへと向ける。

 好男は、壁に貼られたバランに、キスをした。緑色の、ざらつくその表面に、軽く触れるだけのキスだ。

 行為の後、儀式のように行われるこの口づけにより、やはりこの行為は自慰ではないのだと、彼の中に改めて確信が生まれる。

 これは彼と、他でもないバランとの、紛れもない性交なのだと。

   △△△

 緑山好男は、バランを愛していた。否、バラン以外を、彼は愛することができないのだ。

 このことを彼が自覚したのは高校に入学してからだったが、その性的指向が形成されるに至った根本的原因は、十数年前、彼の幼少時代にあった。

 好男の記憶の中に、父親の姿はない。彼が三歳になる前に、病気で他界した。

 母は再婚せず、だからといって実家に帰ることもせず、パートを掛け持ちして、たったひとりで好男を育てることに決めた。とはいっても、彼女が日中仕事に出ている間、彼は保育園にずっと預けられていたため、彼と母親が家で共に過ごす時間は、睡眠時間を除けば、かなり短かったのだが。

 しかし、彼の性的指向形成における過程で問題だったのは、母親と触れ合う時間の少なさではなかった。

 好男が預けられていた保育園には給食がなく、園児はそれぞれ親から弁当を持たされて登園することになっていた。

 幼稚園ではなく保育園ということもあり、両親共働きの家庭がほとんどだったが、それでも朝の忙しい時間の合間を縫って作られた園児たちの弁当は、定番のおかずである卵焼きの黄色をはじめとして、プチトマトやスパゲティナポリタンの赤、そしてブロッコリーやキュウリなど野菜の緑が揃い、どれも色鮮やかで、子供の食欲をそそるものが多かった。

 また、少人数ではあったが、食材を使って子供に人気のキャラクターを描いた、なんとも凝った弁当を持参する園児もいた。そして、昼食時にそういった弁当を広げる園児は、例外なく他の子供たちの間でヒーローとなるのだ。誰もが次は自分がヒーローになりたくて、夕方になって親が保育園に迎えに来るなり、自分にもあんな弁当を作って欲しいと強請るのである。

 しかし好男は、自分もヒーローになりたいとは、一度も思わなかった。

 彼は、時折クラスからヒーローが誕生することもある、この昼食の時間が嫌いだった。周囲を色鮮やかな弁当で囲まれるのが、苦痛でたまらなかったのである。何故なら彼の弁当には、いつも色がたった二色しかなかったからだ。

 弁当箱の中にあるのは、飯の白に、冷凍食品の揚げ物の茶色だけ。彼はひとに比べ鮮やかさに欠けるこの弁当箱の中身を衆目に晒すことを、酷く惨めに感じていた。

 彼は、ヒーローになりたいとは思わなかった。しかし、自分と同じ歳の子供たちのように、色鮮やかな弁当をーー他人の目を気にせず蓋を開けることができる弁当を――与えられることを望んだ。

 けれど、彼は結局それを母に伝えられず、二色きりの弁当を与えられ続けたまま、保育園での四年間を過ごさざるを得なかったのである。

  小学校に上がると、給食が始まった。それは彼にとっては喜ぶべきことだった。もう、あの二色の弁当を惨めな思いで口にしなくてもいいのだ。保育園では嫌いだった昼食の時間は、小学校に通うようになってから、彼にとって大好きな時間になった。幼いながら感じていた精神的苦痛から、ようやく解放されたのだ。彼自身はそう思っていた。

 けれど、その幸福な時間も長くは続かなかった。

 彼を絶望させたのは、遠足だ。小学校に入学した年の五月、一年生は校区内の野原まで遠足に行かなければならなかった。各自、弁当を持参で。

 遠足の存在を知った彼の脳裏に、あの二色の弁当が過ぎった。目眩がした。もう二度と目にすることはないと思っていただけに、彼を襲った衝撃は大きく、遠足のことを考える度に吐き気すら覚えた。

 彼は自宅で、逆さまのてるてるぼうずを十体こしらえて、窓際に吊した。雨が降って、どうか遠足が中止になるようにと、彼は何度も空に向かって祈った。遠足の日に仮病を使って休むという選択肢は、好男にはない。多忙な母に、要らぬ心配をかけられないと思っていたからだ。

 遠足当日、天気は快晴。気怠い体を引きずるようにして向かった食卓には、皿に載った朝食用のトーストが一枚。家の中に、既に母の姿はなかった。

 トーストの横には見慣れた四角い布包み。弁当が入っていると、一目で分かった。彼の弁当は、なぜかいつも、日本地図が描かれた古ぼけた大きめのハンカチで包まれている。そしてその中には、弁当箱代わりの黄ばみが目立つ白いタッパー。箸は裸で、いつもタッパーの下に敷かれていた。周囲が持っている赤や青色の、キャラクターや飛行機、花などが描かれた弁当箱や風呂敷の前で、それらを広げることも、幼い彼の心を傷つける要因のひとつだった。

 それを目にした彼はすっかり肩を落とし、それでも仕方なしと、日本地図で包まれた弁当と、冷蔵庫から取り出した麦茶入りペットボトルを(彼は水筒も持っていなかった)リュックに詰め、家を出る。学校までの道中、彼は数えきれぬほどの溜息をこぼした。

 天気は一向に変わらず、遠足が始まった。同級生たちが、初めての校外活動に興奮し、その高揚感を露にする中、彼だけが、鈍色の重い雨雲を背負ったような表情で、どろりどろり、沼の中を沈みながら進む心境で、目的地を目指したのだった。

 野原に到着すれば、すぐに昼食の時間だ。みな好きな場所で、仲の良い者同士で集まって、弁当を広げる。

 好男はひとり外れた場所で、こっそりと弁当を食べることにした。寂しくはあったが、同級生たちに、どうしても自分の弁当を見られたくなかったのだ。

 暑くもないのに、彼の背中には汗が伝っていた。

 動悸が速まる。

 彼は膝の上に、包みを置いた。

 結ばれた日本地図の端と端を、震える指先で解く。

 現れたのは、やはり黄ばんだ白の、弁当箱という名のタッパー。

 蓋に手をかける。

 かぱ、と間抜けな音と共に、密閉空間の中で冷えて圧縮された空気が、外へ逃げ出した。

 好男は一気に、蓋を外した。

「あっ――」

 思わず、声が漏れた。

 そこにあったのは、保育園時代に散々好男を苦しめた、二色の弁当ではなかった。

 飯の白。揚げ物の茶色。その間を、緑色のラインが仕切っている。

 決して、他の同級生のように、赤黄緑白茶紫と色が揃った、彩り豊かな弁当ではない。けれど、彼にとっては、そんな彩りある弁当以上に、タッパーの中でその緑色だけが、きらきらと輝いて見えたのだ。

 二色の弁当が、三色に変わる。

 予想だにしていなかった出来事は、彼に無上の喜びを与えた。

 彼は恐る恐る、指でその緑色をひとつ、摘んだ。絵に描いたような草に似たその形。指に触れる、ざらりとした感触。彼は、初めて目にするこの緑色の物体に、すっかり心を奪われてしまったのである。

 そして彼はすぐに教師の元へ飛んで行き、この緑色のものの名称を尋ねた。教師はこれが『バラン』であると、好男に教えた。

 バラン。バラン。

 彼はその名を、心の中で繰り返し、揚げ物の油が付着してべとつく緑色のシートを、きつく握りしめた。

 その日以来、小学校での弁当持参の日を、彼は心待ちにするようになった。弁当に入れられた緑色のバランを想像しては胸を高鳴らせ、日々を過ごした。

 いざ弁当持参の日になれば、これまでとはうって変わって、彼は誰よりも先に弁当箱を開けた。何よりも待ちわびた瞬間だ。白と茶色に挟まれたその偉大なる緑色が現れれば、たちまち好男の視線は釘付けになり、彼の頭の中は、じん、と痺れ、薄く開かれた唇の間からは、知らぬうちに甘い溜息がこぼれる。その光景は、さながら、遠距離恋愛中の恋人同士の再会の場面のようであった。

 二色の弁当に苦痛を覚えていた彼が、そこに彩りを添えた緑色のバランを愛するようになったのは、乾いた体が水を欲するように、冷えた指先が温もりを求めて彷徨うように、ごく自然的な流れだったといえるだろう。

△△△

 四時限目終了のチャイムが鳴る。教師が教室から退出するのを見届ける前に、生徒たちはそれぞれ机を動かし、昼食の準備を始めた。男女混成で四十名弱のこのクラスでは、昼食時にはいつも大小八つほどのグループができる。

 しかし好男が自分の席を動かすことも、かといって好男の周りに誰かが集まってくることもない。ただ黙って、机の上に弁当の包みと、ペットボトルの緑茶を置いた。

 好男は、どのグループにも所属していなかった。高校で過ごしたこれまでの二年半、弁当を食べる時は、いつもひとりだった。

 高校の所在地は、好男が通った小中学校から近く、それ故クラスにも見知った顔がちらほら見受けられる。特別親しいわけではなかったが、同じ学校出身という繋がりから、簡単な会話を交わすことぐらいはあった。だから、彼が完全に孤立しているのかというと、そうではない。かといって、いじめられているわけでもなかった。

 包みに手をかける。小学生の頃から比べると随分とくたびれてしまった、日本地図。擦れてあちこち布地が薄くなっている。そろそろ替え時かもしれない、と好男は思う。

 結び目に指をかけ、解く。そして現れるのは、心なしかさらに黄ばんだ弁当箱(タッパー)。かつては嫌気がさしていたこの行為も、今では好男の心に安らぎを与える唯一のものとなっていた。

 蓋を開くその動作に躊躇はない。

 白い飯、茶色のおかずが姿を現す。

 彼の口から、ほう、と感嘆の溜息が漏れる。

 ……美しい。彼は心の中で呟いた。

 白と茶を、彼の愛する緑色が仕切っている。

 毎日弁当を開く度に、彼はとろりと目尻を下げ、弁当を――バランを見つめた。

 弁当箱の下に敷かれた箸を手に取り、弁当を前にして両手を合わせる。

「いただきます」

 食事の挨拶と共に、真っ先に箸先で摘むのは、バランだ。油物と白飯が接触しないように並べられているのだから、そうしてしまっては、バランの意味がなくなってしまう。しかしそれはごく一般的な、弁当のためにバランが存在すると信じている者たちの立場としての意見なのであって、好男にとって弁当は、単にバランを引き立てる目的で用意された舞台に過ぎなかった。この質素な、色味のない弁当こそが、弁当としての最低限の役割を果たしつつも、バランを活かす最高の舞台なのである。

 だからといって、舞台に設置された書き割りによって、主人公の存在が貶められることは、好男にとっては許しがたい。あくまで引き立て役の書き割りは、主人公に触れてはならないのだ。舞台の上で主人公に、触れることができるのは、その相手役だけである。今や好男は、バランに対して、そんな一種異常ともいえる盲信を抱いていた。

 箸で摘んだバランを、一枚ずつ、蓋の上へと避難させていく。

 一枚、二枚、三枚……。今日は全部で五枚のバランが入っていた。この数は、弁当を作る母の気まぐれで変わる。五枚入っていれば多い方だ。少ない時は、二枚という日もある。

 蓋の上に横たわる緑色をした薄いプラスチック製のその肢体。揚げ物の油を纏い、天井から落とされる蛍光灯の白っぽい光を受け、ぬとぬと、いやらしい艶をその肌に浮かべる。

 好男の心臓が跳ねた。思わず唾を飲み込む。

 誰の物とも判らぬ多量の体液でその身を汚し、そこから向けられる虚ろで定まらぬ視線を、好男はバランから感じとる。暴漢に教われ凌辱の限りを尽くされたその現場に踏み入ったような心境だった。

 そして彼は持つ。左手に弁当箱を。右手に箸を。

 悪を成敗する心持ちで、弁当の中身を口へとかき込んでいった。

 弁当は大した量が入っているわけではない。むしろ、少ない。なにせ、保育園の頃から同じ大きさのタッパーが使用されているのだから、当然だ。以前よりは白飯が若干厚めに盛られている気もしないでもなかったが、さすがに高校生ともなれば、成長期ということも手伝い、腹三分程度しか満たされることはない。何とか我慢できる日はそれでいいが、どうしても無理な時は、購買部でパンをひとつだけ買うことにしていた。バランが入っているような弁当は、購買部には売っていない。もしあったとしても、母が作る弁当ほどバランを引き立てるものはないだろう。彼はそう思っていた。

 わずか五分足らずで食事は終わる。その後は、決まって茶を飲む。揚げ物と白飯だけの弁当は、さすがに喉が乾く。ペットボトルの中に収まった茶は、いつもそこで半分ほど無くなるのだった。

 空になった弁当箱、そして、蓋の上に置かれたバラン。

 好男はそれらを満足そうな目で見つめた。至福の時間であった。彼は、この時間を、誰にも邪魔をされたくはなかったのだ。

 食後、一息ついてから、弁当箱の蓋の上に避難させていたバランをティッシュペーパーで包み、それをシャツの胸ポケットに忍ばせる。適当に弁当箱を片付けてから、好男は教室を出た。

 向かうのは、実習教室棟の端にある男子トイレだ。

 授業以外で実習教室棟をうろつく生徒はいない。だからここは、いつも無人だった。少なくとも、彼が昼休みにこの場所を利用し始めてからは、誰かと出くわすようなことはなかった。

 中の手洗い場で、ティッシュにくるまれていたバランを取り出し、洗う。油まみれのままでは、あまりにもバランが哀れに思えたからだ。

 手洗い用に設置された液体石鹸を手の中で泡立て、油でべとつく緑色の体を、一枚ずつ、丁寧に撫でるような手つきで洗っていく。それを何度も繰り返すことで、汚れた体はすっかり清められ、バランは本来あるべき素朴な姿を取り戻すのだ。他でもない、好男の手によって。

 最後の仕上げとばかりに、新しく取り出したティッシュで、バランに付着した水分を拭き取る段になって、好男は、ゆるゆるとした熱が、下半身に溜り始めていることに気が付いた。ズボンの布地が、下から僅かに押し上げられている。彼はそれを、ちらと確認し。肩をすくめて苦笑を浮かべた。

 まだ、反応するのか。そう思うと、何だか可笑しかったのだ。

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