雨の降る夜に、恋は

 一年前の雨の夜。公園でブランコを揺らしていたのは、暫く行方をくらましていた由樹だった。

 彼の体は痣だらけで、最後に会った時より随分と痩せていた。慌ててアパートに連れ帰り、事情を聞けば、彼は両親に、自分が同性愛者であることを打ち明けたのだという。

 その理由が由樹の口から語られることはなかった。けれど、きっと考えた末、彼自身がそれを最善策だと判断したのだろう。しかし彼の両親はそんな彼を『大学でおかしな友人にたぶらかされたのだ』と決めつけ、そのまま大学やアルバイトを辞めさせられてしまい、携帯電話も取り上げられてしまったらしい。

 それからというもの、彼の両親は、由樹の性的指向を更生させることに躍起になった。更生、という言葉は不適切ではあるが、異性愛者である両親からすればゲイである彼は紛れもなく異常者だった。

 父親は、嫌がる彼を性風俗店へ連れて行き、また家にいる間は、母親が異性愛の素晴らしさや命を育むことの大切さを切々と説いてみせる。このようなことが、ほぼ毎日のように行われていたのだと、由樹は震えながらぽつぽつと話してくれた。彼が普段から唱えていた異性愛至上主義も、いざ押し付けられてみると、同性愛者の彼にとっては、恐怖以外の何物でもなかっただろう。

 しかし、由樹は耐えた。自分さえ折れなければ、そのうち両親も理解してくれるだろうと思ったのだ。けれど、彼の期待は裏切られることになった。

 ある日彼の父親が仕事から帰るなり、嬉々として一枚の写真を差し出し、言ったという。

『お前の結婚相手だ』

 息子の性的指向を理解するどころか、向けられたさらなる理不尽な仕打ちに、さすがの由樹も反発した。そこで初めて父親から手をあげられた。そして日に日にエスカレートしていく暴力に耐えかね、ついには由樹は実家を抜け出し、あの公園まで数日かけて歩いて辿り着いたということらしい。

『お前が来てくれそうな気がしてた』

 やつれた顔で、力なく笑う由樹の姿はあまりに痛々しかった。けれど、そんな状況で自分を頼ってくれたということが、謙悟は何より嬉しかったのだ。

『来ないかもしれないとか、思わなかったの』

 彼を抱き締めたくなる衝動を何とか殺し、そう尋ねると、

『でももう、頼れるの、お前だけだったからなあ』

 彼の答えは、謙悟を舞い上がらせるのに充分だった。由樹への想いを断ち切ろうとしていた本来の理由すら忘れ、自身の暮らすアパートに彼を住まわせ、謙悟は献身的に彼の世話をした。

 しかし由樹は、謙悟に保護されても、時折何かに怯えるように布団の上で体を小さく丸めては震え、泣いた。そしてその度に、謙悟に『見ないでくれ』と嘆願する。そんな状況が何度も繰り返され、ようやく思い知らされた。彼を本当に救えるのは、自分ではない。彼が好いた、自分以外の別の誰かなのだと。

 だからこそ、一度は彼と友人でいることを選んだというのに。

 自分自身の驕りが、謙悟を酷く打ちのめすことになった。

 悩んだ末、年が明けるのを待ってから、謙悟はアパートを引っ越した。体調の芳しくない由樹を、あまり遠くまで移動させるのは酷だと思い、さほど離れていない場所に、和室二間の部屋を借りた。

 由樹には、単身用アパートでのふたり暮らしは規約違反だから、と説明した。由樹は申し訳なさそうにしていたが、本当は家の中で僅かでも彼と距離を置きたいからだなんて、本人を前にして言えるはずもない。

 そして、襖で仕切られた彼の部屋からは、毎晩のように嗚咽が漏れてくるようになった。

     * * *

 食後、由樹は再び布団に横になるとすぐに寝息を立て始めた。

 それを見届けた謙悟はそっと襖を閉じ、隣の和室で体を横たえる。全身の力が一気に抜けていく。蛍光灯の光が目に刺さり、思わず固く目を瞑った。

 情欲をまとったこの指が確かな下心をもってその肌に触れ、彼を傷つけてしまう前に、今度こそ彼を諦めなければいけない。指先に負った小さな傷が、自問を肯定するかのように疼く。

 離れたくはない。正直にいえば、それが本音だ。けれど、この想いを否定されることのほうが恐ろしかった。今の謙悟を突き動かしているのは、間違いなく由樹への執着だけだからだ。

 ふと、兄の親友のことが浮かぶ。自身の性的指向を否定され死を選んだそのひとは、一体何を思いながらひとり逝ったのだろうと。

 信頼していた者からの拒絶……そして絶望。想像するだけでも震えが走る。

 多くの性的少数者が己の性的指向を隠すのは、拒絶に対する自衛でもあるのだろう。由樹を遠ざけてまで自分の心を守り抜きたいと思う今の謙悟と、それは何ら変わりない行動に思えた。

 ――あの日、再び彼に出会わなければ、この恋はとっくに終わってしまっていたのに。

 抑えきれない想いが胸を締めつける。

 瞼の下に広がる、夜より深い闇に沈んでしまいたかった。

 だが、覚醒は無慈悲にも眩い。

 ど、と大きく心臓が跳ねた。

 眠ってしまっていたのだとすぐに気付いて慌てて起き上がり、時計を確認する。幸いにも横になってからまだ十分ほどしか経っていない。

 隣室から目立った音もないことに、胸をなでおろす。外にはまだ雨の気配がある。

 湿気のこもった室内。謙悟の周囲には読みかけの本や取りこんだままの洗濯物が積まれていた。

 それらは紛れもなく日常だ。何の変哲もないその光景は、由樹と暮らし始めた頃と変わらない。

 襖の向こうからは、明日も嗚咽が聞こえてくるだろう。明日も、明後日も、一週間後も。彼の心の傷はじっとりと湿った四畳間で、ぐずぐずと膿んで痛みを与え続ける。恐らく死ぬまで。そしてそんな彼を傍観する。――こんなものが、自分自身で選びとった日常なのだ。

 吐き気がした。

 酷い倦怠感に襲われる。

 これでは、同じではないか。由樹の両親と、自分がやっていることは。

 ふらりと立ち上がり、玄関へと向かう。床に置きっぱなしだった鞄から、携帯電話を取り出す。

 指先は震えていた。折り畳み式のそれを開き、着信画面の一番上に表示されていた名前を選択する。一瞬の逡巡の後、ボタンを押した。

 相手を呼び出す電子音が、ぞろりと耳管を這っていく。それが脳に届いてから、少しだけ後悔した。

 もう、夜も遅い。配慮にかけている行動だとは思いながらも、しかし電話を切ることはしない。

『――もしもし』

 五回もコールをしないうちに、受話口から声が聞こえてくる。

「兄さん、遅くにごめん。今、いいかな」

 台所の隅に座り、やや口早に尋ねる。『構わないよ』という省悟の言葉に、ほっと小さく息を吐く。

『どうした? 何か辛いことがあったのか?』

 続けて穏やかな声で、初めて訊かれた。兄の気遣いと優しさが、じわりと謙悟の胸に染みる。

「…………うん」

 兄の声に背中を押されるように、謙悟はひとつずつ、ぽつぽつと語った。これまで、誰にも話すことのなかったでき事や思いに、兄は時々相槌を打ちながら、弟の言葉に耳を傾けていた。

 今の状況に至ったいきさつ、由樹の不安定な状態、そして謙悟自身の葛藤――。

 一通り話したところで、謙悟は大きく一度、深呼吸をした。

『それで謙悟は、これからどうしたい?』

 省悟もそれを察してか、謙悟をそっと促す。

「僕は……」

 これまでずっと兄に何も話さなかったのは、結局、自身がどうしたいのかを、謙悟自身が分かっていなかったからだ。確かに『兄の悔恨に触れることへの恐れ』も謙悟の中にないではない。しかし、それは結局体のいい言い訳でしかなかった。

「由樹と、離れたい」

 携帯電話を握る手が強くなる。親指の傷が、またじりじりと熱を持つ。胸が痛んだ。引き裂かれたかのような痛烈な痛みは、破壊に伴うそれだ。

 由樹もまた、変化を望んでいたのかもしれない。ふと、謙悟は思う。

 だが、彼が求めた変化への代償は、あまりにも大きすぎた。身内からの彼への精神的肉体的暴力は、どれほど彼を傷つけただろう。挙句、望んだ形とは全く違った変化を押し付けられた、その絶望たるや。

『本当に、それでいいのか?』

 声が震えていたのかもしれない。

 受話口の向こうから、ゆっくりとした口調で問われる。

 唇を噛んだ。

「……そうしないと、もう、駄目になるから」

『そうか。分かった』

 ひりだした言葉を否定されなかったことに、肩が少し軽くなる。

『ただ……このことについて、由樹くんとは相談したのか?』

「え……」

 意外な問いかけだった。由樹の状態を考えれば、相談をするなど思いもよらなかったからだ。

「話す必要なんてないよ。だって――」

『謙悟』

 弁解じみた言葉は、ぴしゃりと遮られた。名を呼ばれただけだというのに、思わず背筋が伸びてしまうような厳しい声だ。

『いいかい。相手の言い分も聞かずに、一方的に何かを決めつけるのは、愚か者のすることだ。その上自分勝手な思い込みをしたまま無責任な行動を起こしたなら、それを死ぬまで後悔し続けることになる。例外なんてないんだ。……俺がそうだったように』

 兄が自嘲気味に漏らした乾いた笑いに、謙悟はただ口をつぐむほかなかった。あれほど避けていた兄の過去を、触れるどころか深く抉ってしまったのだと、自らの浅慮を深く後悔した。

 同時に、兄の言う通りかもしれない、とも思う。自分ひとりで思い悩み過ぎて、誰の気持ちも顧みないまま、無責任な行動を続けるうちに、こうやって兄の古傷を抉ってしまった。唯一の友人であった由樹に対しても、きっと知らず知らずに同じようなことをしていただろう。

 謙悟はおもむろに鞄の中を探り、メモ帳をそっと取り出した。左手で携帯電話を耳に当てたまま、右手でその表面を撫でる。随分と色褪せている表紙。その中に記されているのは謙悟自身の人生と、浅ましいエゴに満ちた言葉たち。

『お前には、俺たちみたいになって欲しくない。だから――』

「兄さん」

 澄んだ声が、自然とこぼれた。

『謙悟……?』

 その唐突な変化に、省悟は訝しげに弟の名を呼ぶ。

「兄さんの親友の気持ちが、今なら、すごくよく分かるよ」

 やり場のない苦悩によって引き裂かれるその胸の痛みが。

 自身を否定されるという、死より辛い悲しみが。

 ――死を選んだ彼は、きっと、兄の事が好きだった。

『謙悟、何を言って』

「ごめん、兄さん」

 耳に飛び込む、叫びに近い兄の呼びかけ。けれどそれには耳を貸さず、通話を終了させる。そのまま電源を切り、謙悟は携帯電話を無造作に床に放り投げた。

 自分の考えに心酔していた。

 自身の選択が正しいと信じきっていた。

 だから他者を受け入れなかった。

 それなのに――由樹への想いが、謙悟の中の何かを狂わせてしまったのだ。

 好きで、堪らなく好きで、そんな想いを隠し続けてきた結果、それが余計に謙悟の心を乱していた。

 静かに燻るような恋であればよかった。彼が吸っていた煙草の先に点る火種のように、最初から最後まで、その姿を表出させないで終わる恋だったなら――。

 謙悟はメモ帳を掴み、立ち上がった。

 そして、ガスコンロに近付き、点火スイッチを押す。すぐに円状に点々と青い炎が揺らぎ始めた。

 右手を炎の上にかざす。指先に摘まれているのは、色褪せた表紙の、醜いエゴの塊。

 上昇する熱が、指先を、手のひらを、手首を、苛む。

 熱風がジリジリと肌を灼く感触が、妙に心地よかった。

 表紙の隅が茶色く色を変えてぐにゃりと歪んだ。

 黒い煙が細く立ち昇る。同時に、焦げた臭いが謙悟の鼻腔をかすめた。

 結局、檻に囚われていたのは謙悟の方だった。

 全性愛者以外を『性別という愚かな檻に囚われた愚者』だと決めつけていた謙悟自身が、そんなものよりも遥かに小さな自分自身という檻の中に閉じこもっていたのだから、それは滑稽以外の何物でもない。

『メモ帳、すごいな。なんか、大事にされてる感じ』

 青い炎に曝された自分の心を見つめながら思い出すのは、皮肉にも彼の言葉だ。

 幸福な思い出ごと、燃え尽きてしまえばいい。心の中で呟いた瞬間、紙の端にようやく火がついた。

「な……に、やって……だよ……!」

 突如背後から聞こえた掠れた怒声に、背筋が震えた。

 振り返ろうとした瞬間に、火がついたメモ帳を、大きな手が包むように掴んで奪い去る。

 灯っていた火が、じ、と握りつぶされる音がした。

 鼻につく嫌な臭いが僅かに漂う。

 突然ので出来事に呆然とその場に佇む謙悟には、それが他でもない由樹の皮膚を灼く臭いだとは、すぐに理解ができなかった。

「ばっかやろ、これ、大事なもんじゃねーのかよ……」

 三分の一ほど焦げてしまったその表紙を見て、由樹は眉根を寄せる。肩で息をしながら、すぐそばにある冷蔵庫に体を預け、そのままずるずると壁面を伝うようにして床に腰を下ろした。

「あ、よ……しき、手……!」

 そこでようやく、謙悟は事の重大さを認識する。慌てて由樹のそばにしゃがみ、その手を取る。

 手のひらを広げさせようとするが、謙悟の手は由樹によって握り返されてしまい、火傷の程度を確認することもできないまま、自由を奪われる。

「由樹、ごめん、ごめん、すぐ冷さないと――」

 自分のせいで、彼の体に傷を増やすのは嫌だった。許しを乞うように彼の顔を覗き込んで謝罪を繰り返す。

「あの、さ」

 由樹の表情から、疲労感が漂っている。まだ薬が効いているのかもしれない。瞼を開いていることすら、億劫そうだった。いかにも重そうなそれは、よく見ればふるふると微かに痙攣していた。

「俺が……出て行く、から。だから……もうそんなこと、すんなよ」

「え……」

「迷惑かけて……悪かったな。俺、ずっとこんなだし……お前が、俺と離れたいと思うのも……無理ないよな」

「、そんな」

 恐らく、彼は眠ってなんていなかったのだ。眠っている振りをして、そして聞いてしまったのだろう。兄弟の会話を。

 誤解だ。

 そう叫びたかった。けれど喉が張りついたように、声が出ない。一度ならず二度も、彼と離れる決心をしたというのに、それがいざ現実味を帯びると、ぞわぞわと胸の内側を撫で上げられるような不快感が込み上げた。

 謙悟が何も口に出せずにいると、由樹は再び冷蔵庫の壁伝いにゆっくりと立ち上がった。彼の手の中から、するりと謙悟の手首が離れる。メモ帳は、床の上にそっと置かれていた。

「……この部屋、勿体ねえから、早く女の子とでも……付き合ったほうが、いいぜ」

 重い足取りで玄関に近付き、靴を履く段になってから、謙悟の方を振り返って、彼はそう言った。そして、に、と口角を上げて笑う。その表情に、そして彼の言葉に、軽く目眩を覚える。

 ああ、彼は未だに、異常な程の異性愛至上主義者なのだ。異性愛者である両親に散々酷い目に合わされたというのに。

 もともと、理解し合える関係ではなかった。それでも、友人だった。否、それ故に、ふたりは友人だったのだ。

 互いの意見や考えなんて、拒まれて当然のものだった。

 それなのに、何故自分の思いを彼に受け入れてほしいと願ったのか? ――そもそもそれこそが、傲慢であり、間違いだったのではないか。

 彼が自分を受け入れることなどないと、最初から分かりきっていたというのに、謙悟は、それすら失念してしまっていた。恋に狂うとは、まさにこういうことなのかもしれない。

 自分のこれまでの行いが、どこまでも独りよがりで愚かなものであったと、謙悟は思った。それは確かな事実だ。だからといって、それらを改めたところで、由樹が謙悟になびくわけではない。

 ならば、いっそ。

「ま……って、由樹!」

 玄関までは、ほんの二メートルそこらの距離。謙悟は立ち上がりながら一歩前に踏み出し、そして倒れる込むように、由樹の背中にすがりついた。

「何を……」

 謙悟よりも、広く、しかし痩せ細った背中からは、衣服越しでも、その温度が伝わってくる。

 謙悟が何よりも欲したぬくもりだった。

 けれどそこから、煙草の匂いはしない。

 激しく屋根を叩く大きな雨粒。

 それがぱちぱちと弾けるような音が室内に踊る。

 互いの時だけが止まっていた。

 しかしそれも、刹那のこと。

「好きだったよ」

 明瞭な言葉で、謙悟が沈黙を破る。

「ずっと、由樹のことが」

 好きだ。好きだった。愛していた。

 うわごとのように、繰り返す。一文字口に出すごとに、背に触れた指先が、ときめく胸が、熱くなる。愛欲の炎が、体の内側から身を灼いていた。

 愛して欲しいなんて、謙悟はもう思ってなどいない。

 だからせめて彼の手で、引導を渡して欲しかった。この辛い恋に。そして愚かな自分自身に。

 最後の審判が下される瞬間を、謙悟は瞼をふせてじっと待った。

「……で……、何で……ったんだよ……っ」

 けれど、由樹の口から漏れ出したのは、期待したような辛辣な拒絶の言葉ではなく、嗚咽。時折ひきつったように、ひ、ひ、としゃくり上げる彼は、ゆっくりと大きな背を丸めていき、そのまま玄関にしゃがみこんでしまった。

 謙悟はというと、状況が掴めず、その場にぼうっと立ち尽くして由樹を見下ろしていた。襖の向こうで、彼は毎夜こうやって泣いていたのだろうか。謙悟はなんとなく、そう感じた。

 発作的な号泣を落ち着かせようとようやく思いたち、隣にしゃがんでその背中を撫でる。

「何で、俺なんて……好きになったり、したんだよ……」

 溢れる涙が収まってきて、荒い呼吸の合間に、由樹は小さな声で絞り出すように言った。

 その問いかけに答えることはできない。何故好きになったのかなんて、そんなことが分かるものなら、謙悟だってこれほど悩んだりしなかっただろう。

「三度も、諦めたのに……今更、ばかみてえ……」

「由樹……?」

 ますます話が読めなくなる。

 困惑する謙悟を、由樹は首を少し捻ってちらと返り見た。その目は赤く充血していて、瞼は腫れている。頬には涙が伝った跡が幾重にも残っていた。

 そして由樹は伏し目がちに、口を開く。その表情は諦念に支配されているようにも見える。

「――二年前、公園で『男は、女と付き合った方が幸せなんじゃないか』って……俺が聞いたら、お前、肯定したよな。……その時が、最初。二度目は……実家、帰ってから。お前にああやって言われたけど、やっぱり諦めきれなくて……だからけじめをつけたかった。『俺はゲイで、男と付き合いたいと思ってる』って、馬鹿正直に言っちまった。……そしたら親がもう、必死でさ。ゲイは社会悪なんだと。そんなの、分かってたけど、実際面と向かって言われると……結構キツいのな」

 そこで一旦言葉を切って、自嘲気味に笑う。その視線はどこにも向けられていない。

 これは、彼の恋の話だ。謙悟の知らぬ男に、由樹が抱いた、恋の話。

 謙悟には拳をきつく握り締め、その終結を待つことしかできない。

「我慢しても……結局無理なものは、無理なんだ。親父に殴られて、はっきり分かったよ。……雨が冷たくて、体が重くて、それでも歩いて、ようやくあの公園に辿り着いた。本当は……お前が来なければいいと思ってた。それなら、きっぱり諦められるって。でも、やっぱりお前が来てくれればとも思ってた。これって、わがままだよなあ……ばかだよなあ、本当に。救いようがないってやつ。でも、お前は俺の前に現れて……ああ、運命ってあるんだなって、呑気に思っちまった。お前が、他でもない、お前が、お前が……あー……、諦めたのになあ、俺は……」

 同じ言葉を何度も繰り返す様は、まるで壊れた玩具のようだ。

 しかしその中で彼が口にした『運命』という一言に、謙悟の胸は跳ねた。そして、その言葉が示す、彼のこの告白の本意を、ようやく察した。

「だから勝手に、期待した。……お前も知ってるだろ、俺、ばかだからさあ。もしかしたら、報われるんじゃないかって。……でも、そんなの思い上がりだったんだよな。お前が、電話で、俺と離れたいって、誰かと……。だから今日、また、諦めて……俺、お前を……」

 ぼそぼそと漏らす彼の目は虚ろだ。

「もう、いいよ、由樹。ごめん、……僕が悪かったんだ」

 謙悟は、由樹の頬を、左手でそっと撫でた。肌は青ざめ、唇も色を失っている。全身が小さく震えていた。指先で顔の輪郭をなぞっていき、そして乾いた唇を拭うように親指で触れた。荒れたそこが、閉じかけていた指先の傷口をこじ開ける。ぴり、と痛みが走り、途端に彼の唇の端が紅を差したように、微かに色づいた。

 謙悟は縮こまった由樹の体を引き寄せて、胸に抱いた。そしてその彼の唇を、まず舌先で舐めるように愛撫してから、そこに自身の唇を重ねた。瞼は閉じずに、由樹の目をまっすぐに捉えながら。

 ずっと頭の中だけに思い描いてきた瞬間だった。妄想で終わるはずだったこの触れ合いが現実になるなんて、謙悟も、そして恐らく由樹も思いもしなかっただろう。互いに『これは叶わぬ想いなのだ』と愚かにも決めつけていたのだから。

 由樹も、暫くは虚空を見ていた。けれど彼の唇が本来の温度を取り戻すにつれて、その焦点は定まっていき、ゆっくりと瞼を伏せる。

「僕も、好きだよ」

 ゆっくりと唇を離してから、謙悟は穏やかな声で、子供に言い聞かせるようにはっきりと言葉を区切って、言った。

「性別という檻に囚われた君の事が、堪らなく、好きだよ」

「俺は……」

 謙悟の胸に、由樹は静かに顔を埋めた。くぐもった声が耳に届く。

「お前の……メモ帳みたいに、なりたかった」

 床に放られたままの、色褪せた表紙の古いメモ帳。一度は燃やしかけたけれど、謙悟はきっとこれからも変わらず、愚かしくも愛しいそれを大切にそばに置き、そして自ら作り出した新たなページに、自身の想いを綴り続けるだろう。

「そう。……大丈夫、なれるよ」

 あやすように、謙悟は由樹の長く伸びた髪を、指先で梳いた。兄にきちんと謝らなければいけない。心の内で、ぼんやりとそう思いながら。

 玄関の、ちゃちな木扉の向こうで降り続いているのは、世界の終わりを感じさせるような長雨。

 それは心を凍らせてしまうほど冷たく、同時に、すべてを洗い流すように清らかだ。

 煙草の匂いのしない部屋の中で、謙悟は愛しいぬくもりを抱き締めながら、きっといつかは止むであろうその雨音に、静かに耳を傾けていた。

(了)

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