雨の降る夜に、恋は

 謙悟の性的指向を形作ったのは、間違いなく兄・省悟しょうごの言葉だった。

 省悟はかつて、親友を亡くしている。その親友は自身が同性愛者であることを省悟に打ち明けたが、まだ若かった省悟にはそれを受け入れることができず、拒絶してしまった。それから間もなく、親友は自ら死を選んだ。

 親友が死んだのは自分の責任だ。省悟は嘆き、悔やみ、贖罪の道を模索した。そして彼はカウンセラーという道を歩むことに決めたのだ。親友のような悲しい選択を、もう他の誰にもさせたくない。彼が考え抜いた結果、出した答えがそれだった。

『同性愛は悪いことじゃない』

 年の離れた兄に、謙悟は幼い頃からそう聞かされてきた。そのおかげか謙悟は同性愛者に対して嫌悪を抱かずに育ったし、兄の経験を聞いてからは『性別という括りは人にとって不利益を生むだけなのではないか』という極端な考えに至るまでになった。

 こうして謙悟の性的指向は、全性愛という方向へ形成されていったのだ。

 由樹は外見や態度に似合わず、性格は真面目で繊細だった。彼が同性愛者であることは謙悟以外には打ち明けていない。それが周囲にばれてしまったら、両親に迷惑がかかると考えているらしい。だからわざわざ浪人してまで実家から離れた大学に進学したという。学年は謙悟と同じだが、年齢は由樹のほうがふたつ上だった。

「謙悟、昼だぞー。飯食いに行こうぜ」

 講義室の後ろの席で、テキストをカバンにしまおうとしていた謙悟は、大きな声で呼ばれどきりとする。他の学生たちが、みな一斉に謙悟を見た。「ああ、もう」呟くと、カバンを掴んで急ぎ足で自分を呼んだ男の元へと向かう。

「由樹、大声で呼ぶなって何度言ったら……」

 こうやって苦言を呈すのは、何度目だろうか。事前に待ち合わせの約束を交わしているというのに、それでも彼は、友人を遊びに誘う小学生のような気軽さで謙悟の元へやってくる。

「恥ずかしいことかあ?」

 あっけらかんとした態度の由樹に、

「恥ずかしいよ、ばか」

 謙悟は憎々しげに言って、拳で彼の背を小突いた。はは、と由樹が笑うその声も大きく、すれ違う学生が思わず振り向く。

 初対面の印象こそ最悪だったが、何度も謙悟の元を訪れる彼と会話を重ねた今では、こうして昼食を共にするほどの仲になっていた。

「……俺は、人前で自分がバイだって宣言するほうが恥ずかしいと思うけど」

 学食のテーブルで向かい合わせに座っていた由樹が、デザートのショートケーキをフォークで弄びながらぽつりと漏らした。

 焼き魚を摘んだ箸を止め、謙悟は「またその話」と肩をすくめた。そして椀を手に取り、味噌汁を啜る。その間に、由樹のケーキはなくなっていた。

「僕は全性愛者。それに、自分の性的指向を恥ずかしいなんて、一度も思ったことはないよ。何度言わせるの」

「何回聞いても理解できないんだっての」

 ぶつぶつと呟いて、不貞腐れたように頬を膨らませる。

 由樹は何かにつけて性的指向について話したがった。謙悟は都度同じ答えを返すが、それでも彼は納得しない。

 ――世の中は異性愛ありきで回っている。男女間でしか命は育まれないからだ。両性愛者は異性と関係を持つことが望ましい。同性愛者は非生産的であるが故、身を潜めて生きるほかない――それが由樹の考えだ。彼は真面目過ぎるが故に、どうしようもないほどの頑固者だった。そんな偏った考えだからいつまでも性的な苦悩から抜け出せないのだと謙悟は繰り返したが、彼は全く理解を示さなかった。

〈異性愛者はみな子をなす生産的な存在〉イコール〈社会的正義〉の図式は、本来成り立つどころかとんだまやかしだ。しかし成立しもしないものが、あたかも絶対であるように嘯くのが現在の日本社会である。そもそも、謙悟にいわせれば、子を為すだけが生産的行動だという考え自体がナンセンスなのだ。

 同性愛者たちも異性愛者と同じように、社会の一員として働き、経済を支えているというのに、そんな生産的な部分はわざと見ないようにして、異性愛至上主義者たちは、彼ら彼女らを『社会悪だ』『異端者め』などと嘲笑う。テレビで、雑誌で、そして街中のそこかしこで、日常的に吹聴される腐敗しきった物の捉え方に、謙悟は辟易としていた。

 世間一般の考えがそうであるように、性的指向に関する認識について、謙悟と由樹が理解し合うことは決してできないだろう。否、むしろ今でさえふたりの間に共感できる事柄などゼロに等しい。しかしそれでも友人として関係を保っていられるのは『互いが全く違う考えを持っていること』だけを理解しているからかもしれない。価値観が合わないと分かりきっているからこそ、意見を合わせる必要もない。言い分が食い違っても、論争を繰り広げたところで無駄に終わることは目に見えているので、適当なところで戈を収めることができた。最初こそ、面倒な男に懐かれてしまったと困惑していた謙悟だが、慣れてしまえば、この距離感が逆に心地よく感じられる。

「まあ、別にいいけどさ。それより、午後はあるの?」

 ようやく箸を置き、温くなった茶を飲み干す。

「午後? ないない」

「……ちゃんと講義受けてるの、由樹」

 学部が違うので、互いが具体的にどういった講義をとっているのかは分からない。しかし謙悟は由樹を見て、午前中は講義がなかったのだろうと思っていた。なにせ彼は、携帯電話と財布以外は何も持っていないのだ。

「受けてるって。たまに」

「そんなことしてると、落第するよ」

「進級できる程度にはやってるから、そんな心配すんなって」

「心配なんてしてない」

「冷てえの」

「いつものことじゃないか。……メモ、メモ」

「あ、こら、なにメモしてんだよ」

「今日も由樹が授業をサボりましたっと」

「書くなばか」

「ばかはどっちだよ」

 淡々とやりとりした後、どちらともなく顔を見合わせて、笑う。

 既に日課のようになったこの時間を、謙悟は楽しみにするようになっていた。大学二年の冬のことだ。

     * * *

「好きな奴ができたんだ」

 大学三年の春、謙悟は由樹から、唐突にそう打ち明けられた。

 電話で呼び出された場所は、ふたりが初めて出会った大学近くの公園。ひとり暮らしをしているアパートからもそう遠くないそこに、謙悟は慌てて駆けつけた。日曜日の公園には、こどもの声やブランコの揺れる音が響いている。

 あの時と同じベンチに、同じように並んで座り、煙草をくゆらせる彼から聞かされたのが、この話だった。

 正直、驚いていた。最近はどこかへ買い物へ行くのも、学食で昼食を食べる時も、いつも一緒だったというのに、一体いつそんなことになったのだろうと。

 彼の想い人とは、誰なのだろう。元々いた彼の友人か。それとも最近知り合った男? これからは、その男と行動を共にするのだろうか。

 訊きたいことは山ほどあった。ありすぎて、どう切り出していいかが分からない。自分の気持ちが分からないなんて謙悟には初めてのことで、混乱した。

 そして口をついて出た言葉は、一言「よかったね」――。

 それが本心でないことは、他でもない謙悟自身がよく知っていた。

 胸の奥にまで紫煙が侵入し、心臓を絡めていくような錯覚。呼吸を繰り返しているのに、肺に空気が送り込まれている気がまるでしない。

 はらはらと、小さな花弁が足元に落ちる。頭上で満開の桜が枝を揺らしていた。無邪気なこどもの声が、どこか別世界のことのように思える。

 ふたりの間を、緩やかに風が通り抜けていく。煙草の匂いを連れて。

「なんて顔してんだよ」

 由樹に肩を叩かれ、はっとする。鼻先が、頬が、首筋が冷たい。そんなに酷い顔をしていただろうか。思いはすれど、とても訊き返せない。

 ポケットから取り出した銀色の筒を開け、由樹はその中に煙草を押し込んでから、

「まあ、好きな奴っていっても、まだ告ってもねえんだけどさ」

 空笑いした。

「え」

 その言葉を聞き、途端に体が軽くなるのを感じる。

「あ……そう、なんだ」

 自然と安堵している自分に気付き、謙悟は動揺を隠しきれなかった。

「やっぱさ、言い出しにくいよな。そいつも男とじゃなくて、可愛い女の子とでも付き合ったほうが、幸せだと思うし」

「…………うん」

「だよなあ」

 肯定。

 異性同士で結ばれることが一番の幸せだ――そんなこと、かけらも思っていないというのに。

 どうかしてる。

 小さく頭を振って、謙悟はふらりとベンチから立ち上がった。ぬかるんだ沼底を歩いているようだった。足が重く、思うように歩くことができない。

「おい、大丈夫か?」

「ごめん……帰る」

 背後から、心配そうな声がかかる。

 ぼそりと吐き捨て、振り返りもせずに公園の出口へと向かう。

「帰るったって」

「っ――」

 右腕を掴まれ、制止された。

「なんか具合悪そうだし、ひとりじゃ無理だろ。送ってく」

「大丈夫」

 掴まれているのは腕だというのに、心臓が握られたような痛みを覚える。それがひどく恐ろしいことのように、謙悟は思えてならなかった。まるで、自分の体が自分の物ではないような感覚。

「いや、大丈夫に見えねーし」

 腕が引かれた。

 振り向きたくなかった。

 由樹の顔が、視界に入る。そこにいるのは、いつも通りの彼だった。時々自分勝手なのに、それでいて真面目で、いつだって真剣だ。何ひとつ、彼は変わらない、変わっていない。彼は今でも、同性愛者なのに愚かしいほどの異性愛至上主義者だ。変わったのは――。

 体から力が抜けた。由樹の指が、謙悟の腕からするりと外れる。ぺたりと地面に座り込む。謙悟は生まれて初めて、この世から消えてなくなりたいと心の底から思った。

「ちょ、そんな具合悪いのか? すぐ、タクシーを――」

 慌てて携帯電話を取り出そうとするその腕に、今度は謙悟がすがりつく。

「謙悟……?」

 由樹は訝しげに眉をひそめる。

「教えて、欲しいんだ」

 消え入りそうな声で、問う。

「誰かを好きになるって……どんな感じなの」

 彼にまとわりついているはずの煙草の匂いは、どこか遠い。代わりに鼻をかすめるのは、南風に乗ってやって来る、芳しい春。

 困惑の色を浮かべ、由樹は暫く口を噤んでいた。そしてようやく開いた彼の唇から紡がれた言葉は、

「そいつと、ずっと一緒にいたいって思うよ」

 暖かく、優しく、穏やかで、しかし刃物のように鋭利な切先で、謙悟の胸を切り裂いた。

 それからどうやってアパートまで戻ったのかは覚えていない。ひとりでタクシーに乗ったような気もするし、由樹が隣にいたかもしれない。ただ、気付いた時にはもう夕方で、謙悟は部屋の真ん中で、ひとりぽつんと座っていた。窓から見える空は、いつの間にか厚い雲に覆われている。そのせいか、部屋は酷く薄暗かった。

 すべて、白昼夢だったら。

 しかし床の上にはらりと落ちた一枚の桜の花弁が、謙悟の胸に宿ったそんな些細な希望すらも打ち砕く。

 目の前のテーブルの上に、色褪せた古いメモ帳が置かれている。普段から片時も離すことのないそれを、今日は持ち出していなかったことに、今更気付く。突然の呼び出しで、慌てていたためだろう。

 テーブルに転がっていた鉛筆を手にして、紙を貼り合わせて作った新たなページをぺらぺらと捲っていき、空いたスペースを探し出す。そして真っ白なそこに、鉛筆を走らせる。

 記したのは、たったの二文字。しかし今の謙悟には、最も重要で、そして大切な言葉。

 謙悟はメモ帳に踊るその文字を、ただじっと眺めた。

 そして再び鉛筆を手に取ったのは、夜半頃のこと。かつかつと言葉を綴る鉛筆の音は、いつの間にか降り始めていた雨音に上塗りされて、静かにどこかへと消えていく。

   *  * *

 状況を理解できれば、気持ちを整理するのに時間はかからなかった。

 単純に、直面している現実を認めてしまえばいいだけだ。難しいことなんてない。正体がわからないものは不気味だが、逆を言えば、正体さえ掴んでしまえば、それが何であれ恐れるに足らない。

 たった一晩で、メモ帳の新たな一ページが細かな文字で埋まった。

 謙悟は翌日から、これまでと何ら変わらない日常を過ごした。

 月曜日のこの日、講義は午後からだったので、午前中はいつもの公園で読書をしてから、昼前に大学へ向かう。その頃になって、携帯電話がようやくメールの着信を知らせてきた。その送信元と内容を確認して、すかさず通話履歴から同じ名前を呼び出してダイヤルする。たった二回のコールで、電話は繋がった。

『謙悟、もう大丈夫なのか?』

「ああ、大丈夫だよ。かえって気分が良いくらい。それより、昨日は先に帰ったりして悪かったね」

 心配げにひそめられた声に、と返す。そんな謙悟の調子に拍子抜けしたのか、

『いや、まあ、それは別に』

 続く由樹の言葉にはやや戸惑いが伺える。

「ところで由樹」

 彼の言葉を遮るように発した声が、無意識に弾んでいた。

「昼、今日も一緒に食べたいんだけど、いいかな」

 明らかに喜色を帯びた謙悟の誘いに、電話口の向こうで由樹が笑いを漏らした気配がした。

『突然なんだよ、改まって。そんなの、いいに決まってるだろ? 俺もそのつもりで連絡したし』

「ありがとう。じゃあ、学食の前で待ってるから」

『おう。しっかし、お前から誘ってくるなんて珍しいこともあるんだなあ』

「ま、一生に一度くらいはね」

 互いに軽口を叩いてから、電話を切った。そしてひとつ大きく息を吐く。

「不自然、だったかな……」

 謙悟は歩道の端に立ち止まったまま、電話での会話を省みる。これまでと変わらない態度で由樹と接しようと頭では考えていたのに、彼の声が耳に入った途端、気持ちが勝手に先行していくのを、どうしても抑えられなかった。

「だめだ、もっと普通にしてないと」

 一晩考えた末、由樹とはこれまで通り友人として付き合っていこうと決めていた。これまで築きあげてきた関係を、自分の一言で壊してしまうことは不本意極まりない。

 慣れ親しんだはずの孤独は、彼と過ごす内に随分と遠い感覚になってしまっていたようだ。そして、再びそれを味わうことのないようにと無意識の内に願っている自分を、謙悟は昨日ようやく認識した。

 ぶつぶつと呟きながら、謙悟は学食へと歩きだす。すれ違う学生たちが皆一様に怪訝な顔を浮かべていることに、当の謙悟本人はまるで気付いていなかった。

「ああ、食べた食べた」

 トレイの上に転がったスプーンと三つのプラスチック製カップを前に、由樹は満足そうに言ってから大きく背伸びをした。

 カフェテリア方式の学食では、好きなものを好きなだけ食べることができる。そういえば、由樹はいつもオムライスやハンバーグなど子供が好みそうなメニューを選び、食後に甘いデザートを欠かさない。今日はプリンを嬉しそうに口に運んでいた。

 これまでは特別何も感じなかったのに、今は彼がどういったメニューを選んでいるのかやたらと気になってしまう。自分の極端な変化に、謙悟の口から苦笑すら漏れた。

「なーに笑ってんだよ」

 それを指摘され、

「別に」

 素っ気なく答える。

(今のは、結構自然だったな)

 内心で満足しながらも、それが表に出るのを防ぐため、おもむろに茶を啜った。

「あーあ、もういつもの無愛想な謙悟かよ。さっきはあんなに素直だったのに」

「愛想なしで結構。僕は見境なく誰にでもニコニコする由樹とは違うの」

「ばっか、お前、笑顔はコミュニケーションの基本だろ」

「その割には、笑いが厭らしいんですけど?」

「厭らしいとはなんだよ。むしろ爽やかすぎるぐらいだろうが」

「それはないね」

「ひっでえの」

「そりゃどーも」

「褒めてないっての」

 そしてわざと作り出す、沈黙。その数秒後には、ふたりの笑い声が重なる。

 穏やかなひとときだ。これまでと何ら変化のないやりとりに、謙悟は心底安堵した。

「ま、お前が元気そうで安心したわ」

 由樹はそう言いながら席を立つと、カバンを肩に下げて、食器の載ったトレイを手にする。

「あれ、何か用事?」

 箸を止め、尋ねる。普段であれば、由樹は謙悟の食事が終わるまで席を立ったりしないのだが、今日は明らかに支度を整え、このまま食堂を出ようとしている様子だ。謙悟のトレイ上には、まだ焼き魚も白飯も残っている。

「実はバイトなんだよな、これから」

 ゆっくりできなくて悪いな、と申し訳なさそうな顔を見せた。

「バイト、してたっけ」

 初耳だった。思わず訊くと、

「最近始めたんだ。空いた時間に何時間でもいいって貼紙があってさ。すぐそこの駅前の喫茶店なんだけど、結構落ち着いた感じで洒落てる店だぞ」

 細かい説明が返ってきた。

 言われてみれば、そんな店もあったような気がする。駅前なら、いつもの公園からもそんなに遠くはないから、雨が降って公園に行けないときは、立ち寄ってもいいかもしれない。それに、彼に会うための体のいい口実にもなる。

「へえ」

 興味なさげに相槌を打ちながらも、謙悟の内心はそんな思いでいっぱいだった。

「うわ、すっげーどうでもよさそう。って、まあいつものことか。つーわけで、俺もう行くわ。お前はゆっくり食えよ」

「ああ、そうする」

 空いた左手をひらひらさせて、由樹は食器を返却口に戻しに行った。そして出入口で振り返って、謙悟にもう一度軽く手を振ってから、学食を後にした。

 謙悟は止めていた箸を再び動かした。箸先で小さく千切った焼き魚を口に運ぶ。舌の上に広がる味が、やたら生臭く感じられる。

「まず……」

 慌てて白飯を口に入れたが、それもどこか淡白で、旨味がない。

 急激に変わってしまった味に戸惑い、助けを求めるように、向かいの席を見る。しかしそこに求めた姿はない。

 苦笑が漏れる。

 たった一晩で、由樹がこんなにも自分にとって重要な存在になるなんて、謙悟は思いもしなかった。否、自覚がなかっただけで、本当はもっと前からそうだったのかもしれないが。

 ひとりだけの昼食にもはや何の意味もない。味気のない料理を適当に腹に入れ、さっさと席を立った。

「あ……」

 食器を片付け、カバンを取りに席に戻った謙悟は、先ほど由樹が座っていた椅子の上に何かが落ちていることに気が付いた。紙製の箱のようなものに、透明なフィルムが巻いてある。煙草だ。恐らく、由樹が落としたのだろう。

 謙悟はカバンから携帯電話を取り出し、メール作成画面を呼び出した。しかし送信先を選択したところで指を止める。暫く考え込んでから、それを削除し、携帯電話を閉じた。そして拾った煙草と一緒にカバンに放り込む。

 学食内にはもう学生の姿は少ない。講義開始の時刻が迫っている。謙悟は足早に教室へと向かった。

     * * *

 アルバイトを始めた由樹とは、共に過ごす時間は減ってしまった。謙悟は少し残念に感じていたが、自身の気持ちを隠すには、つかず離れずのこの距離感は丁度よくもあった。

 夏になり、秋がきて、その冬には珍しく雪が積もった。大学に入って四回目の春が訪れた頃、謙悟は小さな経理事務所への就職が決まった。

 そして由樹は、謙悟の前から姿を消していた。アルバイトもやめてしまったらしく、電話も繋がらない。大学の事務局で尋ねると、既に退学したという。彼のアパートを直接尋ねようとして、そこでようやく彼がどこに住んでいたのかを知らないことに気が付いた。そして彼の事を、何もかも知った気になっていた自分にも。

 絶望というほかない、空虚な感情。距離を置いてもなお冷めることのなかった想いが胸の奥底で膨張し、今にも破裂しそうだった。気持ちを落ち着かせようとメモ帳を開いても、無意識のうちに書き記しているのはあの二文字。そのうちにメモ帳を見ることすらやめてしまった。夜も眠れない日々が続き、食欲もなくなった。

 そんな時にたまたま連絡をくれたのは、兄の省悟だ。電話口で異変に気付き、謙悟はすぐさま病院に連れていかれた。点滴を打たれ、生活態度を改めるように医者からはやんわりと注意を受けたが、謙悟の耳には入るはずもない。

 アパートに戻っても、省悟は何も訊かなかった。ただ、崩れ落ちるように部屋の床に腰を下ろした謙悟の背を、そっとさするだけだった。優しい手のぬくもりに、涙がこぼれた。それでも謙悟は、兄に何も言わなかった。

 兄が帰ってから後、謙悟はふと、テーブルの上に転がるある物の存在を思い出した。震える手で、それを取る。ぱりぱりとフィルムが擦れる音。微かに漂う、懐かしい匂い。いつだったか、由樹が忘れていった煙草だった。彼に渡さないまま持ち帰っていたその紙製のパッケージの中には、三本ほど中身が残っている。その中の一本を摘み、謙悟はキッチンへと向かう。そしてガスコンロに火をつけ、青い炎に恐る恐る煙草を近付けた。

 もうとっくに、湿気てしまっているかもしれない。そう考えると、少し不安だった。けれど予想に反して、呆気なくその先端が赤くなり、懐かしい紫煙が揺らめき始める。

 どきりとした。あの公園で、初めて由樹に会った日のことを思い出す。

 摘んだ煙草を、慣れない手つきで口に運ぶ。唇に挟んで、すうと胸いっぱいに吸い込んでみる。途端に辛いような苦いような味が口中に広がり、同時に肺が煙たさにざらつき、むせ返った。

「こ、んなもの……」

 咳込みながら呟く。

 一体これのどこが良くて吸っているのか、全く理解できなかった。

 けれど、たなびく煙がゆっくりと体を包み込んでいくその感覚は、どこか愛しさに溢れていて、謙悟の目に再び涙が滲んでいく。

 きっと、謙悟はとっくに中毒なのだ。彼がまとったこの匂いの虜に、いつの間にかなっていた。

 ――いつの間にか?

 いや、出会ったあの日から、なんとなくあの匂いが鼻について仕方がなかったのだ。ずっとそれを、謙悟は不快感だと思っていた。けれどそれは、不快感どころか、むしろ、

「好き……だ。由樹……好きなのに……」

 紙の上に何千回と綴った言葉。それを口に出すのは初めてだった。言葉はじわりと胸に染みていき、そして同時に、宙を漂う紫煙と混ざり合い、小さく渦を巻く。手を伸ばして渦を掴もうと試みるが、指が触れた途端、それはたちどころに消えてしまった。

 嗚咽を漏らしながら、煙草のくゆる部屋の中で、ひとり。想うのはただ、密かに恋心を寄せていた友人のことだけだった。

 それ以降、兄の省悟は時折謙悟のアパートを訪れるようになっていた。とはいっても、食事の用意をしてくれるくらいで他は特に何をするでもなく、ただ謙悟と同じ部屋にいて、持ち込んだパソコンで何かしら作業をしていたり、のんびりと読書をしていたりする。

 元々兄弟なのだから、謙悟にとっても気兼ねをする相手ではないのだが、しかしどことなく申し訳ないような、そんな気持ちがあった。気を遣わせているのではないか。そう思えて仕方がない。何しろ、彼はカウンセラーという職業についているというのに、先日の謙悟の様子を見ても何ひとつ訊いてこないのだ。職業を抜きにしても、憔悴しきった弟を見て、何も尋ねてこないものなのだろうか。謙悟はそれが不思議で仕方がなかった。

「あの、さ」

 謙悟の呼びかけに、省悟はテーブルの上に置いたノートパソコンを操作していた手を止めた。

「うん?」

 そして謙悟の方に向き直り、視線を合わせてくる。

「あ、いや……」

 思わず、目を逸してしまう。弟の謙悟ですら見たこともないような柔和な微笑を、彼が浮かべていたからだ。記憶の中の兄は、こんな表情をするようなひとだっただろうか。僅かながらの動揺と驚きを、謙悟は覚えた。

 俯いたまま、何も言えなくなってしまった謙悟に対し、省悟は何も尋ねずにじっと黙っていた。まただ、と謙悟は思う。何も訊かれないということが、かえって謙悟の不安を煽る。

「……何も、訊かないの」

 押し殺したような声で、ようやく謙悟は言った。

「そうだなあ」

 間延びした声で省悟が答え、暫く間をおいた後、

「謙悟が話したくなったら、その時は聴くよ」

 軽く肩を叩かれた。

 それは意外な答えだった。弟に何事が起こっているのか知るために、わざわざアパートを訪れているのだと、謙悟は思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。

「じゃあ、兄さんはここに何しに来てるの」

 だから、思わず謙悟の方から訊いた。意識せずとも、やや刺を纏った言葉を謙悟は吐いていた。

 顔を上げれば、まだ微笑んだままの彼と目が合った。彼の目が細められ、目尻に皺がよる。歳の離れた兄は、今年でもう三十七だ。

「何って、お前、ひとりよりふたりでいるほうが、断然楽しいだろう」

「意味がわからないんだけど……」

「ええ? そうか?」

「そうだよ」

 戯けてみせる兄の姿が可笑しくて、思わず笑いがこぼれる。

「ほら、ひとりじゃこういうどうでもいい会話も、できないだろう? そういうことだよ」

 省悟の言葉を聞き、全身からすっと力が抜けていくのを感じとる。思いの外、体を強ばらせていたようだ。

 他ならぬ謙悟自身が、話を訊いてほしいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。謙悟は、兄の優しさに感謝すると同時に、その兄に的外れな期待を傾けていた自分を情けなく感じた。

「ありがとう、兄さん」

 再びパソコンに向かってしまった兄に、謙悟はぽつりと呟いた。聞こえていたかは分からない。けれどキーボードを叩く音が、少しだけ跳ねた気がした。

 由樹が謙悟の前から消えて、ふた月が経った頃、ようやく謙悟はかつてのような冷静さを取り戻していた。冷静といってしまえば聞こえはいいが、要は単なる諦めだ。否、諦めざるを得なかったといってもいい。

 結局、謙悟は兄には何も話していない。話せば必ず、兄が悔恨する過去に触れてしまうからだ。

 だからこのどん底のような精神状態から抜け出すためには、もはや謙悟自身から由樹への想いを断ち切るしかなかった。たとえ、上辺だけの諦念を自身の心に塗りたくることしか、方法がなかったとしても。

 その日降っていたのは、静かに大地に染みるような雨。

 梅雨独特のじっとりと湿気を孕んだ空気が、心にまでも侵食してくるようで憂鬱だった。

 雨の日の夜は早い。太陽を分厚く覆う鈍色の雲のせいだ。普段であればまだ明るい街には、この日ばかりは、夕方というのに既にあちらこちらで電灯が点っていた。

 大学からの帰り、公園の前を通ったのは本当に偶久々のことだった。

 冬の間は由樹のアルバイト先である駅前の喫茶店で読書をしていたし、春になってからはアパートですっかり引き篭っていたから、かれこれもう半年以上足を踏み入れていない。

 初めて由樹が現れたのと同じ場所に、今、謙悟は立っていた。に、と口角を上げて笑う懐かしい彼の姿が、ふと脳裏に甦る。もう三年近く前のことだ。

 自虐的な笑みがこぼれた。

 差していた傘を、雨粒がぱたぱたと叩き、そして地面へと滑り落ちていく。

 ぎい、と何かが軋む微かな音が、謙悟の耳に届いた。外灯も疎らな、暗い雨の公園で、今にも雨音に掻き消されてしまいそうなそれは、あまりに不自然だった。だから、公園の様子だけを眺めて、既に背を向けてその場を去ろうとしていた謙悟は、思わず振り返っていた。

 傘をずらして、公園内を窺う。斜めに降り込んだ雨が頬を濡らした。さほど広い公園ではないが、目視できるのはベンチだけで、他にいくつか設置された遊具のある場所まで灯りは届いておらず、公園全体を見渡すことはできなかった。

 しかし、音の正体には察しがついていた。ブランコだ。風雨で揺らされ鎖が軋んだのだろう。天候を考慮すれば、至って当然の考えだ。だから、用もない公園にこれ以上留まる必要はない。それなのに、謙悟の足はふらりとブランコのある方へと向かっていた。

 ブランコの悲痛な叫びは続く。

 それはゆっくりと揺れていた。揺らされていた。座板にぽつんと腰掛ける何者かによって。

 距離を詰めていくと、そのシルエットは大きく、こどもではないことがすぐに分かる。さらに歩を進めれば、その人物が、じっと謙悟を見ていることにも気付いた。

「は……」

 笑いとも呼吸ともいえない音が、口から漏れていた。雨音なんて、謙悟の耳にはもう届いていない。すべての音という音を心臓が激しく脈打っていた。必死の思いで心に塗りつけたばかりの色が、乾かぬうちに、いとも簡単に、だらだらと溶けて流れ落ちていく。

 謙悟は初めて、運命だとか奇跡だとか呼ばれるものの存在を信じてしまいそうだった。

 駆け出していた。指から離れた傘が地面に落ちるより速く。雨に打たれながら悲しげにブランコを揺らす、その影に向かって。

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