雨の降る夜に、恋は

 それは、幸福な幻想だった。僅かに開いたドアのすき間からこぼれ出した、愛しい紫煙が我が身を包む、身勝手で愚かなまぼろし。

 たたん、たたん。錆びた金属製の手すりを雨粒が叩く。打ちっぱなしコンクリートの廊下まで降り込んだ雨が足元を濡らし、その無遠慮な冷たさが謙悟を幻惑から解き放った。

 築年数がかさんだこのアパートの古めかしい木扉の前で、一体どれほどの時間佇んでいたのか。すっかり冷えきった身体を急かすような雨音に瞼を閉じ、大きく息を吸い、吐く。数度それを繰り返し、意を決して開いた目で扉を見据えた。

 そんな儀式じみた行動を終え、ちゃちなドアノブの中央にある単純な見かけの穴に、ポケットから取り出した鍵を差し入れる。安っぽい音がして、施錠が解かれた。

 同じ手ですぐにノブを捻る。そしてそれを引けば当然のようにドアが開き、外気よりもじっとりとカビ臭い空気が溢れてきた。素早く部屋に滑り込み、ドアを閉じて後ろ手に再び鍵をかけながら、はあ、と大きく息を吐く。

 狭い玄関スペースに革靴を脱ぎ捨て、肩からかけていたブリーフケースを床に下ろす。濡れたスラックスの裾を気にも留めず、足音を立てないように奥の和室へと足を運んでいく。

 二畳ほどのキッチンスペースを抜けると、二間続きの和室がある。ひとり暮らしならばやや広すぎる間取りだ。壁際には段ボールがまだいくつか積まれたままになっている。ここには半年前に引っ越してきたばかりだった。

「ただいま、由樹よしき

 そっと襖を引き、奥の和室を覗いた。常夜灯の頼りない光が、カーテンの閉めきられた六畳ほどの和室をぼんやりと照らす。

 傷んだ畳の上には、布団が一組。謙悟に対して背を向けるように、彼はそこに横たわっていた。薄明りに存在を浮かびあがらせている細い体。その微かな上下動に、胸を撫で下ろす。

「……寝てるの」

 声のトーンを落として、謙悟は再び彼――由樹に声をかけた。

 反応がないことを確認すると、静かに布団のそばに寄り、彼の後ろで畳に膝をついた。

 随分と伸びた彼の髪が、流れるように、敷き布団の上に落ちている。汗で首にじっとりと張りついたそれに、思わず指が伸びていく。

 少しだけ。ほんの、少しだけ。

 禁断の果実を目前にすれば、扉の前で整えたはずの呼吸も乱れ、熱い吐息が唇から漏れる。

 ゆるくはまったなど、最初からないのと同じだ。ほんの些細なことで、いとも簡単に外れてしまうのだから。

 ――触れたい。肌に指を這わせ、彼の温度を堪能しながら、そしてその唇に――

 縛るもののなくなった欲望は、ひたすらに加速していく。

 ぞ、と衣擦れの音がいやに大きく謙悟の耳に届いた。はっとして、腕を引き戻す。

「由樹」

 恐る恐る小声で名を呼んだ。

 由樹はシーツの上で億劫そうに体を転がし、仰向けになった。その拍子に髪が乱れ、ぱらぱらと音をたてる。

「あー……悪い、帰ってたのか」

 焦点の定まらない瞳で向けられた視線に、謙悟は「ああ」と素っ気なく返して、逃げるように僅かに顔を逸した。早鐘を打つ心臓の音が、彼にまで聞こえてしまうのではないか。そう思うと気が気ではなかった。

「眠れたの」

 自身の行動に言及されぬうちに、先手を打って尋ねる。

「いや……」

 言い淀む目は、とろとろと虚空をさまよう。薬を服用したのだろう。

 眠れないと嘆く由樹のために、引っ越してすぐに謙悟が購入してきた市販の睡眠改善薬だ。ここひと月ほどは効果も薄れてきていた。今のようにまどろむことはできても、深い眠りには辿り着けないでいるようだ。脱力感も酷いらしく、一日中横になっていることが多かった。

 その体感を、どろどろに溶けたチョコレートの中に頭まで浸されているような気分だと彼は表現したことがあった。「甘くねえけど」付け加え、浮かべた笑みの空虚さは、以降幾度となく謙悟の頭を過り続けている。

 こんな姿が見たくて薬を与えたわけではなかった。少しでも彼の不安を解消してやりたいだけだった。しかも、結果として由樹に更なる苦痛を与えることになってしまったというのに、申し訳なさの裏ではちらちらと情欲の火を燃やしているなど。

 動くこともままならない友人の体に手を伸ばしてしまう自分を、謙悟は何度も恥じた。いっそ死にたい。思いはすれど、しかし由樹をひとり残す勇気はなく、かといって手放したくもない。醜い欲望――酷く臆病で、傲慢な。

 息苦しい。反射的にネクタイを緩めた。Yシャツが、汗で背中に張り付いて不快だ。それを表情に出さないように、冷静を装う。

「眠れないなら、一緒に食事しようか。何か作るよ」

「んー……」

 由樹は不眠だけでなく、食欲不振も訴えていた。食事を口にしてもすぐに吐き戻すことが度々あったため、自宅でひとりきりの時はほとんど何も口にしない。

 謙悟は、そのことにはできるだけ触れないように、由樹と接するようにしていた。『気を遣っている』と思われ、遠慮されるのを嫌ってのことだ。謙悟が彼に抱いている感情はさておき、これまで築きあげた『遠慮のいらない親しい友人』という関係を崩したくはなかった。

「少しだけ」

 思案の後、由樹はぽつりと呟いた。謙悟に向けられているのであろう視線は、しかしいまだにはっきりとは定まらない。

「……悪ぃな」

 続けざまにこぼれた謝罪は、恐らく独り言。現に彼の掠れた声は、謙悟の耳にもほとんど届いていない。

「じゃあ、すぐ準備するから」

 言い残して、部屋を出た。襖をそっと閉め、隣の和室で適当な部屋着に着替えてから台所に向かう。

 冷凍庫からラップで包まれた白飯を取り出し、そのままレンジにかけた。そして冷蔵庫からは野菜と卵。鍋に水を張り、粉末出汁の素を加えてから、火にかける。メニューは雑炊。胃腸への負担を抑えた選択だ。

 料理なんてしたこともなかったが、それでも由樹のためにと本などで必死に勉強し、今では簡単な食事程度であれば作れるようになっていた。

 包丁で、人参の皮を剥いていく。分厚い皮が、ぼとぼととシンクに落ちる。

「っつ……」

 ぴりりと指先に痛みが走る。人参を握っていた左手の親指が深く切れていた。傷口からじわりと血が滲んでいく。

 まな板の上に包丁と人参を置き、その場にしゃがみこむ。知らぬ間に深いため息をこぼしていた。床に尻をつけて座り、立てた両膝の前で、傷ついた親指をぼうっと眺める。

「何をやってるんだ、僕は」

 傷口から赤い糸のように細く血が流れ出している。行き場のないそれを、仕方なしに舌で舐め上げた。鉄臭い味がやたら苦く感じ、眉をひそめる。もっと甘ければいいのに、と思う。

 背後でレンジが電子音を鳴らし、謙悟を急かす。

 コンロの上では、沸騰した出汁が溢れてじわじわと火を追い立てている。

 ――予感がした。この傷口がいつまでも癒えることがないような、そんな予感。

 雨音が、いやに大きく響いていた。

     * * *

 紫煙を纏った出会いは突然だった。

 大学一年の秋。空が高く、澄んだ青が目に痛いほど晴れた水曜日の午後、大学のそばにある小さな公園。

 涼やかな風が落葉を揺らす音を聞きながら、謙悟はベンチに腰掛けて読書に勤しんでいた。

 本のページを捲り、読み進めながら、時折脇に置いた古いメモ帳と鉛筆でメモをとる。読書をしながら、感想や考察を書き残す。趣味というよりはもはや癖に近い読書スタイルだ。

 ふと、風が吹き抜ける。手で押さえるのも間に合わず、本のページが悪戯に踊った。

 同時に、においがした。喉の粘膜に張りつくような、苦くトゲのある匂いだ。自然、眉根が寄る。それが煙草の匂いであるとすぐに気付き、風上に視線をやった。

 そこには、見知らぬ男がひとり。一見体育会系風で、上背がある。怪訝な眼差しを隠しもせずに向ければ、視線は当然のようにぶつかった。男は、に、と口角を上げてみせる。咥え煙草のまま。

「市川謙悟って、あんた?」

 謙悟の掛けるベンチのそばまで歩み寄ってきた男は、煙草を摘まんで徐に口から離した。

 不躾な奴だ。

 内心腹立たしく思いながら、

「それが何か」

 手元の本に視線を落とし、ぞんざいに答えた。

 煙草の臭いがきつくなる。男が謙悟の隣に腰をおろしたのだ。狭いベンチの上で僅かに体をずらし、男から距離をとるが、ほとんど意味のないことだった。

「市川謙悟はバイだって聞いて来たんだけど」

 脈絡もなく、その言葉は口にされた。

「何を……」

 言いだすのだ、この男は。

 初対面で失礼な、とでも怒鳴りちらしたくなるところだ。しかし、彼のあまりの無作法ぶりには、謙悟はもはや呆れを通り越し、脱力で声を出すのも面倒だった。

 だが、この男が謙悟の心中など欠片でも察することができるはずもなく。

「大学であんたのこと聞いて、ずっと探してたんだ。時々ここで見かけるって言ってた奴がいたから、来てみたら――」

 アタリ。

 年齢不相応の無邪気な笑顔に覗きこまれた。紫色の煙が、目の前で渦を巻く。

 至近距離で、目が合った。日が遮られ、影の落ちた瞳の中には底の見えない闇がある。

 見てはいけない。そんな気がして、ついと視線をずらす。

 男の指先に摘まれた煙草の先 、長くなった燃えかすが、ほろり、スローモーションのように崩れていく。

「……先に断っておきますが」

 関わってはいけない。頭の辛うじて冷静な部分が、警鐘を鳴らしていた。しかし、もはや限界だった。

「僕は、君のような人間は嫌いです。でも僕に用があるというなら、その用件ぐらいは聞いてもいい。だけどその前に、その煙草を消してください。失礼に加えて、極めて不愉快なので」

 やや強めの語気でまくしたて、男を睨んだ。

「あ、ああ……ハイ」

 呆気にとられながら、思いのほか素直に男はポケットから取り出した筒型の携帯灰皿に煙草を差し入れる。筒底に押し付けられたそれが、じ、と音をたてると、なかから濃厚な煙が立ち上った。

 それを確認すると、謙悟は小さく頷き、

「……それで? 僕がもしバイセクシャルだったとして、君に何か関係が?」

 ベンチの背に体を預けた。木製のそれがぎいと軋む。

「いや、それは、その」

 謙悟が尋ねると、男は途端に歯切れが悪くなった。ばつが悪そうに、背中を丸めている。先ほどまで見せていた悪い意味での威勢のよさは、一体どこへいったのか。男の姿は、まるで飼い主に叱られて項垂れる大型犬だ。

 彼はそのまま、なかなか話を続けようとしなかった。それがどうにも焦れったく、僅かな苛立ちを覚えるが、しかし用件は聞くと言った手前、それを破って帰るわけにもいかない。それに、謙悟にはどうしても訂正しておきたい事柄もあった。

 続く沈黙を破ったのは、再びの突風。

 塵が舞い上がり、思わず目を閉じる。

「あっ」

 隣で男が立ち上がる気配がした。風が止み、恐る恐る目を開ける。男の姿は十数メートルほど先にあった。手に何かを持って、再びこちらへと歩み寄って来る。

「あ、それ」

 男が手にしていたのは、謙悟のメモ帳だ。慌てて元あった場所を確認するが、当然ながらなくなっている。鉛筆は、ぽつんと地面に転がっていた。今の強風に煽られて飛ばされてしまったのだろう。それを拾い上げ、膝の上にあった本と共にカバンに片付ける。

「飛んでったから」

「……ありがとうございます」

 受け取ったメモ帳を手ではたいて、砂ぼこりを落としてから、カバンの底の方にそっと入れた。

「メモ帳、すごいな」

 男はまた隣に掛けた。

「すごい?」

 首を傾げる。

「なんか、大事にされてる感じ」

「……」

 これは、謙悟が小学生の頃から使っているものだった。文具店でたまたま見かけた何の変哲もないただのメモ帳なのだが、どういうわけかそれが幼い謙悟の心にとまり、駄々をこねてようやく親に買ってもらったものである。中に記されている内容はメモというより日記に近く、自分の感じたことを率直に記し続けてきた。十数年にわたり自身の心のうちを綴ったこのメモ帳は、謙悟にとってはもはや人生そのものといっても過言ではないだろう。だから、新しく買い換えるという選択肢はなかった。ページがなくなれば、都度、不要な紙を切り貼りして新たなページを拵えた。そのためにメモ帳は今では随分とぶ厚くなっている。

「なんか、いいなあ。俺、そのメモ帳みたいになりたいわ」

 男は両足を投げ出して、間延びした声で言い、空を仰いだ。

「……ひとは、メモ帳にはなれませんよ」

 冗談めかした男の言葉に、溜息混じりに現実的な皮肉を返す。「そうだなあ」と呟く男の声は、僅かに落胆の色を帯びていた。

「それはそうと、早く用件を言ってもらえますか」

 特にこの後予定が詰まっているわけではなかったが、かといって不必要に時間を取られるのも癪だ。

「ああ、そうだった。あー、あのさ、と……と……」

「と?」

「友達に、なってくんない? 俺とさ」

『友達』――その言葉の響きは、謙悟にとっては遠いものだ。

「……友達って、そうやって作るものじゃないと思いますけど」

 友達関係は、自然と形成されていくものだ。もし友達ができない、あるいは失ってしまうようなことがあれば、それは紛れもなく自分自身に問題があるためだろう。自分という殻に引き篭り、他者を遠ざけ、相手に歩み寄る努力もしないのなら、そんな人間はいつまでも孤独から抜け出せるはずなんてない。……謙悟は、それを身をもって知っている。ただ、孤独が彼にとっては苦痛にならないだけで。

「それにそもそも、僕がバイだとかいう話からどうしてそうなるんです?」

「それは……その、俺、あれなんだ、ほら、ゲイってやつ」

「ふうん。それで?」

「冷たっ! そんだけ!?

 男はがくっと大げさに肩を落としてみせた。

「何か不服が?」

「いやー、不服ってか、ゲイって聞いても驚かねえの?」

「そんな、異性愛至上主義者じゃあるまいし」

 同性にも愛情を持ちうる両性愛者がそんなことで驚くわけもないことぐらい、分かるだろうに。謙悟は、はあ、とわざとらしく大きく息を吐いてみせた。

「驚かれたいだけなら、他をあたってください」

 冷たく言い放ち、謙悟がカバンを肩にかけると、

「違うっ、違うんだって! むしろ逆! あんたみたいに俺のこと嫌がらない人と友達になりたいんだよ!」

 必死になってすがりついてくる。

「じゃあダメですね」

「なんで!」

「僕は君みたいな無礼な人間は嫌いです」

「謝るって! ごめんなさい! この通り! だから帰らないでくれよ!」

 謙悟の腕を引きながら、男は体を小さくしてぺこぺこと頭を下げている。本気で帰るつもりもなかったが、それでも懸命な男の様子に、すっかり毒気を抜かれたような気分になってしまった。

「ああ、もう。分かりましたから、早く手を離してください」

 観念して謙悟が言うと、男はすぐに手を離した。謙悟がまたベンチに腰をおろすのを見届けて、男が嬉しそうに頬を緩めた。

 彼の話を要約すると、こうだ。

 同性愛者ということを隠して生きるのが辛い。友人はいるがみな異性愛者で、ばれた後の迫害が恐くて自然と距離を置いてしまう。同性愛者に理解を示してくれそうな人物がいないものかと思っていたところに、ある噂を聞いたという。

『経営学部の一年が公然とバイ宣言をした』と。

 そして人づてにその人物を探し出し、今日この公園でようやく謙悟を見つけた――ということだった。

 力説する男をよそに、謙悟は頭の痛い思いをしていた。噂には尾ひれがつくものだと、この日、身を持って実感したのだ。

 思い当たる節は、確かにある。今年の五月のことだ。

 講義を終えたあと、同じ講義室にいた学生が騒いでいた。合コンの人数が急に足りなくなったとか、そういう話だった。その学生らと謙悟は、学部が同じというだけの関係で、挨拶を交わしこそすれ、親しい間柄でもない。けれどその日、彼らは謙悟にこう提案してきた。

『人数合わせで合コンに参加して欲しい』

 当然すぐに断った。合コンというものが、謙悟の持つ恋愛感や性的指向とは全く合致していないからだ。合コンとは一般的に、男対女で行われる。そしてごく限られた人数と時間で、恋愛対象を探そうと考えている人々の集まりでもある。勿論例外もあるだろうが、共学の大学という場においては極めて稀だ。そんな集まりに参加したからといって、謙悟には何の利益も見出せないのは分かりきっていた。だから即答したのだ。嫌です、と一言。

 しかし彼らも必死だった。何とか人数を集めたかったのだろう。数人で謙悟を囲い、

『市川くんも、女の子、好きでしょ?』

 口々にそのような言葉をぶつけられた。

 思い返すだけで、胃の奥から苦いものが込み上げてくる。すべての人間が異性愛者だと決めつける――そういう者たちのせいで、異性愛者以外の者たちがいらぬ不安を抱えなければならないというのに。

 人はもっと自由に愛を交わすべきだ。男女などという括りに囚われず、自分が心から愛しいと思う者の手をとればいい。鎖でがんじがらめにされた性別という檻が、人を苦しめている根源なのだ。

 学生たちをぐるり一瞥した後、謙悟は吐き捨てるように冷たく言い放った。

『いえ、僕は全性愛者ですから』

 謙悟を囲んでいた学生たちはそれを聞くと一瞬固まり、そして誰からともなく逃げるように教室を出て行った。

 ……あの時のことが曲解された噂となり、この男の耳にも入ったのだろう。

 噂をされるのは別に構わなかった。何か悪さをしたわけでもなし、まして自身の性的指向も恥ずべきものではないからだ。ただ、情報が歪曲して伝わっていることだけは、本意ではない。

「……噂、訂正しといてもらえますか。僕、バイじゃないので」

「え、じゃあストレートなのか?」

 驚いたように男は言った。『ストレート』という言葉に、頭痛が酷くなる。

「どうしてすぐ異性愛者だと? もしかして、君は同性愛者にして卑屈な異性愛至上主義者なんですか?」

 思わず謙悟は、憮然とした声で皮肉をこぼしていた。

 やはり人は、性別という檻に囚われているのだ。虐げられていると嘆く同性愛者すらそうなのだから、異性愛者がそれ以上に性別に固執するのは当然のことだろう。

 しかし人間の性的指向はほとんど生まれながらにして備わっているものだ。だから自分以外の者の性的指向を貶すことなど誰にもできないし、許されることではない。それは謙悟も理解している。

 だが、すべての人間が性別に囚われることなく、特定の誰かを愛することができれば、これほど幸せなことがあるだろうか。全性愛者である謙悟は、ことあるごとにそう思わずにはいられなかった。

「……そういえば、名前、訊いてないですけど」

 暫く口を噤んでいた謙悟は、ふと思い出したようにそう口に出した。名を知らずとも話は進むし、これ以上彼に関わるつもりもないなら、それこそ名前なんて知る必要もないだろう。けれど、今このタイミングで、謙悟は不思議と彼の名前を知りたくなった。

 僅かに不機嫌な色を帯びた謙悟の唐突な問いに、男は一瞬きょとんとする。しかしすぐにニッと口端を上げた。

 柔らかな風が肌を撫でていく。いまだ彼にまとわりついている煙草の匂いが、謙悟の鼻をくすぐった。

 ――これが、由樹との出会いだった。

1頁 2頁 3頁

       
« »

サイトトップ > 小説 > 同性愛 > 単発/読切 > 雨の降る夜に、恋は