春色ピアノ

「あなたには、関係ないでしょう」

「そう。それなら僕がどんな顔でピアノを弾こうが、それこそ君には関係ないことだと思わないかい」

「……ばかにしてるの」

「ばかにしてるって? 僕が、君を? どうしてそう思うの」

 菜々と会話しながらも、少年の指先は間接的に彼女の胸の奥を抉っている。旋律という目に見えぬ凶器で。

 きっと今も彼は、春の穏やかな陽射しに静かに歓喜するような微笑を浮かべているに違いないのだ。そう、菜々は確信していた。

「あなたが悲しげな曲を、笑顔で弾いているからよ」

 痛む胸、手のひら。責め苛むのは、行き場を無くして死んだ手紙。彼女をこの少年の元へと誘った、精緻な刺繍が施された一枚の羽衣と、手のひらの中でねむる手紙の手触りは、はたして違うものだったか?

 菜々の言葉を少年がどう聞いたのか。ぴたと、演奏が止んだ。菜々の耳許で、風が囁いた。何を伝えたかったのかはわからない。けれどそれは確かに、背筋が凍るような、北からの使者の声だったのである。

 少年は、すっくと腰を上げ、それまで彼が腰掛けていた椅子の横に、菜々と向き合うようにして立った。そこから微笑は消えていた。彼の瞳は、底の無い黒だ。雪原にぽかりとふたつ、穴があいたようにもある。

「それは、僕の罪?」

 花弁のような唇が紡ぎ出す、黒絹の音色。

「え……」

 黒絹はしゅるりと菜々を包んだ。艶やかで、高貴で、けれどどこかひんやりとしたそれは、菜々の視界を奪った。物理的な視界ではない。彼女の視界は冬の空のように澄んでいるにもかかわらず、何も見えていない――或いは、彼女に見えているのは、ただ、この少年とピアノだけだったのかもしれない。

 柔らかく彼女を包み込む黒絹の上から、再び麻布のざらりとした感触。またも彼女は、自身の意思の決定が及ばぬところで、見えないものによって、がんじがらめにされていく。

「僕が涙を流していれば、罪にならなかった? ……ねえ、笑いながら悲哀を奏でることが罪だなんて、誰が決めたのか、君は知ってる?」

 手のひらが痛んだ。痛みを超えて、そこが熱かった。少年の黒い瞳が、菜々の目をまっすぐに捉えていた。見ないで、と彼女は心の中で懇願した。少年の瞳に宿った闇より深い黒は、まるで宝石のように煌いていた。

「それは、君だよ」

 体を包み込んでいた黒絹が、ぞう、と彼女の内部にまで進入してきた気配を、菜々は感じた。そうして彼女の心臓は、その黒絹によってぎりぎりと締めあげられる。

 少年の瞳に見つめられることを畏れた菜々だったが、刹那、その煌きの中に、彼女は見たのである。ほんの数時間前の過去を。彼女の心ともいえた手紙が、自らの手によって、短い命を絶たれる様を。

 二月二十八日。卒業式を翌日に控えたその日、菜々は眠れぬ夜を過ごしていた。

 ベッドの上に横になってはいるものの、目が冴え、いつにないほど興奮していた。こんなことではいけないと何度も思いたち、そろそろ眠ろうと部屋の電灯を落とすために体を起こしてスイッチに手を伸ばすのだが、その度に、机の上にぽつんと置かれたそれに目をやってしまい、そうすればすぐに彼女の体の奥から春のような暖かさが泉のように湧きあがってきて、彼女の胸を詰まらせるのである。菜々はその感の極まりを、ベッドの上に横になり枕を強く抱くことで必死に治めようとするが、治まったところでまた同じことを繰り返す始末だった。

 ベッドサイドに置かれた目覚まし時計は既に深夜二時を指していた。この時計がベルを鳴らして彼女に朝を告げるまで、あと四時間しかない。

 菜々は自身の昂ぶりを落ちつかせるため、ベッドに寝転がったまま手を伸ばし、すぐそばにある窓を僅かに開けた。途端に、すう、と細く糸のように流れ込んできた冷気が彼女の肌に触れた。暖房でによって温められた空気の中で、過度の興奮に陥っていた彼女は、背筋を一本の長い氷柱で貫かれたように錯覚した。

 やけに冴えた、しかしそれまでとは違う冷静な目で、彼女は机の上に置かれたそれを見た。

 小学校に通い始めた頃から使っている学習机は、古くなってはいるが目立った傷もなく、丁寧に磨かれている。今は教科書類が並んでいるが、これらを使うことはもはやない。そして、この学習机を使うことも、彼女にとっては今日が最後だった。明日の卒業式が終わってしまえば、すぐに引越しの準備をしなければならない。

 菜々は、別の街での就職が決まっていた。親戚のつてで決まった就職だ。

 彼女はこの三年間を公立高校の普通科で過ごしたが、そこではやりたいことも、学びたいことも結局見つからなかった。菜々は常々から、何事にも積極的でなかった。しかし消極的というわけではなかった。彼女はその場の流れに乗ることしか出来ない、空気のような存在だったのだ。それ故、クラスメイトの中に溶けこんではいたが、際立つこともない生徒だった。

 そんな彼女でも、唯一夢中になったことがあった。それに気付いた時、彼女は初めて、世界に彩りがあることを知った。目に見えない全てが、美しく思えた。「その人」を取り巻くように揺れるオーロラ色の輝くヴェールが、菜々には確かに見えたのだ。入学式の日、彼女が所属することになったクラスの教室に「その人」は颯爽と現れた。すらりとした体躯、それを描く細い線、意思の強さを感じさせるはっきりとした目、引き結ばれた唇の端には微笑が浮かんでいた。まるで神話の世界から抜け出てきたようだと、漠然と彼女は感じた。しかしそう感じていたのは、きっと彼女だけであったのだろう。思わず席から立ち上がりそうになるのを必死で抑えながら、「その人」に対して目を輝かせる彼女に対して、同性のクラスメイトたちはといえば、特段目を奪われた様子も、頬を染めるようなこともなかったのだ。だから、これらの印象は、菜々の心が創り出した一種の幻想だったのかもしれない。

 グレイのスーツに身を包んだ「その人」は、席についた生徒たちの前に立つと、言った。

「はじめまして。今日から一年間、私が君たちの担任です」

 菜々には見えた。春の空と同じ、柔らかな青が。彼女の心は、この瞬間から、青い春に囚われていた。

 彼は国語の教師だった。整った美しい言葉を彼は操り、そして時々、教授する内容から派生した話題――古典で扱う作品が書かれた時代の文化だとか、教材となっている小説の細かい表現についてだとか――を熱っぽく生徒に語ってみせた。担任教師のそんなロマンチストな一面が、菜々を余計にも夢中にさせたのである。

 彼女は三年間、ただ彼に、そして彼の操る美しい言葉を信仰した。そう、菜々は間違いなく敬虔なる信仰者であったのだ。彼に擦り寄るわけでもなく、やや距離をおいたところから、ただ彼の言葉を聴いているだけで満足だったのだ。勉学に励むというのとはまた違う情熱を、菜々はそこだけに傾けていた。

 卒業の日の間際になって、菜々はふとあることを思い立った。それは、三年間耽溺し続けてきた彼と彼の言葉に対する自分自身の想いを、一通の手紙をしたためることだ。卒業してしまえば、菜々は引っ越さなければならなかったから、ふらりと母校を訪れて、偶然を装って彼に会うこともできなくなってしまう。だから、最後に手紙を手渡して、せめて餞別代わりに、彼が多くの生徒に向けてではなく、ただ自分だけに宛てて発した特別な言葉が欲しいと、彼女は思ったのである。

 そうして卒業式の前日、彼女は一通の手紙を書き上げた。こうした想いを抱くのも、勿論言葉にすることなど初めてで、どう表現するべきか散々悩んだ挙句、深夜になってようやく完成させることができた。

 薄い桜色の便箋一枚をそっと折り畳んで、真っ白な封筒へと差し入れた。机の上に置かれているのが、それである。

 背筋が震えた。窓から入り込んだ夜気で、体が随分と冷えていた。菜々は慌てて窓を閉め、その勢いで電灯のスイッチを切ると、掛け布団を頭まで被り、冷たくなった自分の体を抱き締めた。きつく目を閉じれば、それまでの煩悶の余韻などなく、彼女はあっという間に眠りに落ちていた。

 しかし結局、その手紙は渡せなかった。それどころか、卒業式の後、彼に会うことすらできなかったのだ。彼は今年、三年生の、菜々とは別のクラスの担任となっていて、ただ彼が担当する教科を習っているというだけでは、そこへ入っていける隙などあろうはずもなかった。また、菜々の生来の気質も多分に影響しているだろう。彼女が、彼の敬虔なる信仰者であったことが、ここにきて仇となったのだった。

 菜々は肩を落として帰路につきながら、それでも、淡い期待を抱いたのである。

 今戻れば、もしかすると、手紙を渡せるかもしれない。

 ひょっとすると彼が、自分を追ってきてくれるのではないか。

 そんな幻想にとりつかれた彼女が家路につく足はのったりと遅く、けれど直視すべき現実は、ポケットの中と自身の胸の内に、既に存在していたのであった。

 彼女が傾倒した青い春は、吹きすさぶ冬の北風によって、跡形もなく消えていた。ただその名残が、今こうやって、彼女を苛んでいる。

 涙が、菜々の頬を伝っていた。それは寒風に乗って、空へと舞い上がる。そして、彼女の体を、心を縛り付けていた、ざらついた麻布まで共に攫っていく。

 菜々は、ずっと握り締めていた皺だらけの手紙を、胸に抱いた。彼女が殺した

その亡骸は不思議と温かく、その温度が、彼女の手のひらを介して、胸の奥底の方へ浸透する。その温もりに、彼女の口元が僅かに緩んだ。痛みは、もう感じなかった。

「……悲哀を奏でながら笑うのは、罪になるのかな」

 少年はぽつりと言った。

 菜々は黙って、ただ首を横に振る。

「そう、それは良かった」

 そんな菜々の様子を見て、少年は満足そうに頷いた。血色の良い唇が笑みを描き、まるで鮮やかな一輪の花が咲いたようだった。

「それじゃあもう少しだけ」

 少年はくるりと身を翻して、再び菜の花色と桜色で彩られたピアノの前に座った。すぐに、重く低い音が、菜々を包んだ。これまで演奏されていた曲とは、また違う曲だった。雨上がりの重い鈍色の雲に、そして冬の終わりに吹く風に似た旋律。

 菜々は、その演奏に聴き入った。手紙を胸に抱いたまま。

 どれくらいそうしていたかは、彼女には分からない。何度かその曲が繰り返されたあと、彼女は、すぐそばを流れる川面に目をやった。

 水が流れ、少しずつ石を削る音。水草を揺らす音。魚が泳ぐ音。彼女には、すべてが聞え、全てが見えていた。

 ゆっくりと両手を体の前にかざす。指先で、手紙を摘んだ。

「ごめんなさい。……ありがとう」

 菜々は手紙に向かってそう言葉をかけ、そしてそれを半分に破った。さらに半分、もう半分。白と薄い桜色の想いのかけらたちが、あっという間に菜々の両手のひらの上で溢れた。それらは、風が運ぶ春色のピアノの旋律に連れられて、宙へ、川へ。その様子は、桜吹雪を思わせる。水に浸かったピアノの足を、いくつかの花弁が掠めていく。美しき葬送であった。その余韻に浸るように、菜々はそっと目を閉じた。

 それは、そう短い時間ではない。しかし再び目を開けた時、彼女のそばには、春色のピアノも、そして少年も、その姿を跡形もなく消していた。驚いた菜々が周囲を見渡しても、どこにもそれらしきものは見当たらない。

 さあ、と風が川縁の枯れ草を揺らした。いつの間にか風向きが変わっていた。その中に身を切るほどの冷たさは、もうない。

 菜々の耳の奥に、胸の底に、彼女を誘った早すぎる春が残した、僅かな温もりだけが残っていた。

「ありがとう」

 彼女はまた、そう呟いた。その口元に、自然と穏やかな笑みが浮かぶ。彼女には、不思議と、心と体が軽く感じられていた。

「今度会う時は、楽しくなる曲を弾いて欲しいな」

 少年がピアノを演奏していた場所に向かって、菜々はそう冗談めかして言う。ごろごろと石が転がるそこに、紙の花弁が一枚、落ちている。菜々はそれを拾い上げ、川へと流した。それが遠くへと流れていって、そして視界から消えるまで、菜々はひとり、ずっと見送っていた。

(了)

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