マッチョに言い寄られてました。

 翌日、僕は約束通り河川敷を訪れた。それはまた、男性型マッチョの姿でを待っていた。

 河川敷にふたりでいるからといって、何か特別なことをするわけでもない。ただ、彼の話を聞いて、僕は相槌を打つだけのことが多かった。会話が途切れたら、以前のようにぼうっと川の流れを眺める。その際、隣には彼がいるにも関わらず、その気配は一切感じられないのだ。けれど、ちらと横目で見やれば、確かに彼はそこに座っていて、更に僕を見つめ、そうしてやはり微笑している。それを目にすると、胸に温かな安堵が宿るのを、僕は感じた。それは『あるべきものがそこにある』という自然的感覚、とでも表現すればいいだろうか。

 とにかく、出会った当初は変った人(といっても人間ではないらしいが)だという印象は、ひと月も経った頃には、僕の中からすっかり失せていたのだった。

 五月病という言葉がある。僕はといえば、年中似たような憂鬱を抱えていたが、しかし五月の連休を過ぎた辺りから、それが輪をかけたように酷くなっていた。

 通っている高校には、クラス替えがない。科ごとにクラスが分かれているためだ。同じ面々で迎えた高校生活二回目の春は、クラスメイトたちをすっかり浮足立たせていた。

 連休後の話題は、恋愛関係のものに終始した。隣のクラスの誰々とうちのクラスの誰々が交際を始めたとか、連休中のショッピングモールで、化学教諭とうちの学校の三年生が歩いているのを目撃しただとかいった噂は、狭いクラス内を飛び交い、当然のように僕の耳にも入った。

「次の連休は、俺たちもショッピングモールに行ってみようぜ。もしかしたら、現場に遭遇できるかもしれねえし」と、クラスメイトが噂の検証作業に僕を誘った。とはいえ、人目を憚る関係の男女が、同じ場所にそう何度も現れるとは、彼も思っていなかっただろう。そういった口実の元に、複数のクラスメイトを集めて遊びたいだけなのだということは、僕にだって知れた。

 だからこそ、僕は返答に困ってしまったのだ。これまでは、僕を遊びに誘うことを敬遠していたようなのに、何故今になって、という疑念ばかりが胸に渦巻いた。

 結局「気が向いたら」と、曖昧に答えるしかなかった。クラスメイトも、それでいいよ、と言う。その返事に、一体どうしたらいいのか、益々解らなくなってしまったのだった。

 同じ時期に、小テストがあった。相変わらず結果が振るわず、いつものように両親に叱られた。「もっと将来のことを考えろ」と。将来どころか、今の自分のことにだって、考えが追い付いていないというのに。

 そういったことが重っていくと、そのうちに、頭いっぱいに泥が詰め込まれたような気分になった。

 五月半ば過ぎ、僕は初めて学校をサボった。

 朝、家を出たその足で河川敷に足を運んだ僕に、それが何か苦言を呈するというようなことはなかった。この日は、女性の外見で――せめて上を着てくださいと頼んだので、今は半裸ではなくぴったりとした白いタンクトップにジャージ姿である――僕を黙って迎えてくれたのだった。

 いつも通り、隣り合って腰を下ろす。そうするだけで、どことなく気分が落ち着くのだから不思議だ。

「妖精さんは、いつも楽しそうですよね」

 言って、溜息。一体何を口走っているのか。これではまるで、嫌味だ。

「お前は楽しくないのか?」

 だが、彼は気にも留めていないようだった。しかし余裕とも取れるその態度に、一層気持ちが暗くなる。

「……つまらないから、ひとりになりたくてここに来ていたんです。元々希望していた学校じゃないから、クラスメイトともどう接していいか分からないし。親は親で、口を開けば成績のことばっかり。……いいね、妖精さんは。毎日楽しいんだもんね。悩みや辛いことなんて、何にもないんでしょ」

 鬱屈としたものが、勝手に口から飛び出していくのを、止めることは出来なかった。

 終わった。そう思った。胸に酷い圧迫感があった。

 漂う沈黙が、僕の息の根を止めようとしている。

 埃っぽい風のにおいが、やたらと鼻につく。

 川面が反射させた日差しが、僕の目を刺した。瞬間、視界いっぱいに空が映る。

「ふぇっ!?」

 背中に硬い感触を覚え、思わず声が漏れた。

 白く薄い膜を張ったような、不明瞭な淡い色の空。その空を覆うように現れたそれは、白い歯を覗かせながら言う。

「好きだ」

 くるくると波打った長い髪の先が、仰向けに倒れた僕の頬をくすぐる。

 至近距離で囁かれた愛の言葉に、顔が一気に熱を持つのが分かった。

「よ、妖精さ」

「好きだ、好きだ、好きだ! 大っ好きだ! お前の為なら俺はいつ消えたっていい!」

「な、何を」

 彼女が目の前で声を張り上げているにも関わらず、頭に響くような煩さはない。それどころか、呼吸の気配すら伝わってはこなかった。代わりに、ほのかで爽やかな緑のにおいが漂う。それが胸に流入すると、じわりと広がっていって、温かさと共に身体の奥の方へ染みていった。

 それを意識した途端、近すぎる距離が気になり始める。僕が掌で目の前の肩を押すと、彼女は少しだけ身体を離した。

 僕の口から思わず、あ、と小さく声が零れた。体をひいた彼女が一瞬、儚げな少女に見えたのだ。鎧のように逞しい筋肉なんて纏っていない、吹けば飛んでしまうような華奢な身体だった。瞬きをする間に、それは幻と消えた。

「お前は気付いていなかったかもしれんが」

 しかし表情にだけ、その名残があった。口元には、薄幸の少女じみた寂しげな微笑が張りついている。

「ここで川を見ている時のお前は、いつも泣きそうな顔をしていたのだ」

 彼女はそう口にしながら、僕に手を差し伸べた。おもむろに、それを取る。感触はあるが、温度はなかった。このままずっと手を握っていれば、僕の体温が、いつかは彼女に移っていくだろうかと、何げなしに思った。

「お前がここに来ること自体は、嬉しかったぞ。この河川敷に人が長居することは少ないからな。だが、お前がそんな顔をしたままなのは、俺はどうしても嫌だったのだ。お前の笑った顔が見たい! だが、いくらそう願っても、動くことのできない俺には、どうしようもなかったわけだ。

 だがあの日、俺はついに妖精となって、お前の前に立つことができたのだ」

 彼女はゆっくりと語りながら、身体を起こした僕の背を掌で払ってくれた。正面から抱きすくめられるような格好に、僕は話を聞きながらも、少しだけどぎまぎとしてしまった。

「……まあ、ちょっと興奮しすぎて、驚かせてしまったみたいだがな!」

 わっはっは、と笑った彼女が、仕上げとばかりに僕の背中を軽く叩いた。ぐえ、とカエルが潰れたような声が出る。痛みに、というよりは、その衝撃に。

 改めて対面した姿は、元の逞しい、マッチョの彼女だ。太い首や腕、肉の盛り上がった肩、鎧様の上半身、そのどこにも、か弱さは漂っていない。その安定的な力強さには、親しみの混じり入るような安心感があった。 

「俺がずっとお前を見ていたこと、俺が言わなきゃ、お前はずっと知らないままだったろう。お前がここにひとりで来てはあんな顔してるってことも、お前が口に出さなけりゃ、誰にもわからないままだぞ」

「妖精さん……」

 彼女の言う通りだ。僕はこれまで自分から何かをやろうとしただろうか。何もしないうちから、言い訳ばかりを自分の内側に並べ立てて、全てを諦めていたんじゃないのか? 親に一言でも反抗したことがあったか? クラスメイトに自分から話しかけたことは? そうすれば、不満だらけのつまらない日常を甘んじて受け入れるのではなく、それを自ら破壊することだって、もしかしたらできたかもしれないのに。

 そこまで考えて、僕は目の前の彼女に、酷いことを言ってしまったのだと気付いた。彼女のことを何も知らないのに「毎日楽しいんだ」なんて、決めつけてしまった。

 いくら望んでも自分の意思や行動が、その介入を許されないという苦痛は、とても僕などに理解できるようなものではない。

「あの、僕――」

 とにかく謝ろう、と思った。が、

「しかーし!」

 彼女によってそれを遮られる。そして腰に手を回され、引き寄せられた。

「も・し・も! 相手が俺でもいいなら、いくらでも慰めてやるからなっ!」

 彼女は言って、ウインクしてみせる。何故だか、心臓が大きく跳ねた。

「い、いえっ、あのっ、やっぱりマッチョはちょっと」

 その動揺を隠すように言い訳する。

「そもそも、マッチョで何が悪い!」

「や、悪いというわけでは……。それにしても、どうしてマッチョ以外には変身しないんですか?」

「おっ、いい質問だな! それには深ぁい理由があってだな……」

「ほ、ほう?」

「実は、この体型以外には変身できないのだ!」

「うわあ妖精のイメージぶち壊し!」

 そう大げさに口にすると、彼女が豪快に笑った。僕もそれにつられてしまう。

 腹が痛くなるまで笑ってから、これだけ声を上げて笑うのはいつぶりだろうと考えた。きっと、高校に入ってからは初めてだ。

「ま、おおかた、本体の性質が反映されているんだろう。俺の場合は、主に根だな」

「はあ、根、ですか」

 根、という言葉で、彼女の正体が元は花であったことを思い出す。しかし、そんなに屈強な根を張る花なんてあるものだろうか。

「そういえば、妖精さんって何の花――」

 何気なく尋ねた。次の瞬間だった。

「危ない!」

 彼女は叫んで、僕の背後へ向かって跳んだ。

 その動きを反射的に視線が追う。

 子供が乗った自転車が、勢いをつけて土手を下ってくるのが見えた。

 それと僕の間に立ち塞がるように、屈強な彼女の背。

 声を上げる暇もなかった。

 彼女の身体と自転車が衝突する。

 ぱん、と破裂音。同時に閃光が走る。

 眩しさに思わず手で目を覆った。

「……よ……せい、さん?」

 子供が泣き喚いている。そして女性の悲痛な声。子供の母親かもしれない。

 恐る恐る、手を下ろす。

 僕のすぐ目の前に、自転車が横たわっていて、そのそばに男の子が泣きながら座り込んでいた。土手を母親らしき女性が駆け下りてくる。

 辺りに彼女の姿はない。

 代わりに、僕と男の子の周辺の空中に、白い綿のようなものが無数に漂っていた。

 ふわりと舞って、制服の肩に降りてきたそれは、タンポポの綿毛だ。

 それを指先で摘まんだ途端、酷く胸が苦しくなった。

 これは、彼女であり彼であったものだと、すぐに察しがついた。その言葉通り、花の妖精は、消滅してしまったのだ。――僕の為に。

「だからって、こんな、唐突に……」

 呟いた僕の肩を、温かな風が包み込む。埃っぽいそれが、哀しいほどに涙を誘った。

*  *  *

 それ以後の高校生活や両親との関係は、僕自身の積極的な関わり合いの甲斐あって、あながち悪いものでもなくなった。生活のどこかに楽しさを見出せば、勉強をする姿勢というものも、やはりいくらか改善されるようで、成績も中程度にまで上がった。

 高校を卒業してからは、大学へは行かず地元の小さな土木会社に就職した。体育会系ではないが、肉体を酷使すれば、余計なことを考えなくてすむような気がしたからだ。

 目覚まし時計のけたたましいベルと共に、目を覚ます。

 カーテンの隙間から優しい日差しが射し込んでいた。布団を恋しがる身体を無理に起こし、窓辺に向かう。そしてカーテンを開け、窓に手を掛けた。

 目覚めてすぐ窓を開けて庭を眺めるのが、河川敷に通わなくなってからの僕の日課だ。

 開け放した窓からは、どことなく埃っぽい、しかし甘い花の匂いを連れた温い風がゆるりと流入してきて、四畳程の部屋は、すぐに春で満たされた。窓の外にある狭い庭の花壇は、黄色く小さな花が、幾つも揺れている。

 しかし、この小さな庭から五感に訴えかけてくる春が僕に与えるのは、今後更に鮮やかに展開していく季節に対する喜びなどではなく、胸に重く圧し掛かる哀しみだけだった。

 あの日散った無数の綿毛を、僕はいくつか持ち帰って、自宅の庭の、使われていない花壇に植えた。そのうちのいくつかが育って、最近になってようやく花をつけるに至ったのだ。

 僕はあの妖精の影を、五年経った今、河川敷ではなく、この庭の片隅に見続けている。同じ種から育った花であれば、もしかするとまた、という思いが少なからずあった。

「ちょっと、早く起きないと仕事に遅れるわよ」

 廊下から扉越しに、母の声。

「起きてるよ」

 答えて、小さく溜息を吐く。

 庭にまたちらと視線をやる。そこでは変わらず、タンポポの丸っこくて小さな花が、風に揺られているだけだ。

 再び、溜息。

 窓を閉め、部屋を出ようとドアノブに手をかける。

 その瞬間、背後から、眩い光が走ったのを、僕は、確かに感じた。

(了)

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