執愛サンセット本文サンプル

2024年02月19日

 ゆっくりと落ちていく太陽が、海と空とを染め上げていた。青とオレンジ、相反する色彩のグラデーションは、見る者の寂寥と焦燥を掻き立てる。
 波打ち際に沿って砂浜を歩くなつめは、横目にそれを眺めながら、漠然と「世界の終わりだ」と思う。
 この世界が本当に終わるわけではないとしても、少なくとも今現在の彼の心持ちは、終末世界のそれに違いなかった。
 ぎゅう、と地を踏みしめれば、散った砂が足先にかかる。そうなって初めて、なつめは自分がサンダルを履いていることに気がついた。
 砂は無防備な足にまとわりつく。サンダルと足裏の間に入り込み、そのざらりとした感触が、なつめに腹の底からの溜息を吐き出させた。
「汐……」
 不意に自身の口からこぼれた名前の響きだけで、なつめは胸を押し潰されるような苦しさを覚えた。
 夕暮れの色をキラキラと反射させた海が、穏やかな波を砂浜に届けている。

 汐は、なつめの同性の恋人だ。温厚で優しく、心配性な節のある青年だった彼との関係は大学時代から続いており、もう五年目になる。
 職場で上司から酷いパワハラとストーカー行為を受けて、退職を余儀なくされたなつめを、献身的にケアしたのは他でもない汐だった。住居を共にし、食事をはじめとする日常生活、通院――なつめに関わる一切を、彼が補助し、管理する。そんな日々を一年以上続けた結果、汐の優しさと持ち前の心配性が相混じり、執着へと変化したのは、当然の帰結といえた。
 汐はまず、なつめの勝手な外出を禁じた。
 そうして「目印に﹅﹅﹅」と言って、なつめの右耳にピアスをあけた。
 ほぼ在宅で仕事をしている汐にとって、なつめを管理するのは、容易なことだっただろう。何よりなつめ本人が、汐から向けられた異常な執着にすっかり依存しきっていたことも大きい。
 朝起きて、夜眠るまで、恋人がそばにいる生活。あらゆる制限があることを加味しても、それはなつめにとって、幸いでしかなかった。汐がいなければ生きていけないとすら感じるほどに。

 ――安定を保つのは、至極難しい。些細な歪みであったとしても、それを崩すには十分すぎる。
「先にお風呂、入っておいでよ」
 普段と変わりない表情や態度。だが汐のその言葉に、なつめは大きな違和感を覚えた。何しろ、二人で暮らし始めてからというもの、風呂に入るのはいつも彼と一緒だったのだ。元々、なつめが精神的に不安定だった頃に、何かあってはいけないからと、汐から言い出したことだった。なつめが心身共に回復した今では、ひとりで入浴するなど、当然造作もないことだ。だが、慣習のように、それは続いていた。
 不審に思いつつも、言われるままに入浴を済ませると、入れ替わりに汐がバスルームに入っていった。まるで、逃げるように。
 明らかに、おかしい。何かを隠している。どうして、何故、何を、何のために――。
 胸の奥から不安が積乱雲のように湧きあがり、答えのない断片的な思考が脳内を占拠する。酷い動悸がした。呼吸が浅い。
 バスルームから、湯音が聞こえてくる。
 汐は、すぐそこにいる。大丈夫だ。
 そう自分に言い聞かせながら、なつめはリビングのソファに腰を下ろした。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。嫌なものを、外に逃がすように。何度か深呼吸を繰り返せば、少しだけ身体のこわばりが和らいだ。
 小さく溜息がこぼれた。
 汐はすぐに戻ってくるだろう。そうしたら、疑問に感じたことを直接聞いてみればいい。
 なつめは、テーブルの上に置いたままにしていたスマートフォンを手に取った。連絡する人も場所も、今はない。時計代わり、あるいは時折調べ物をするくらいにしか使ってはいないそれは、すっかり型落ちしてしまっている。
「え、……なんで」
 昼過ぎに充電をしたばかりだった。しかし、画面に表示されているバッテリー残量は、半分ほど。
「汐……?」
 ど、と大きく心臓が鳴った。
 理由はともあれ、汐がこのスマートフォンを操作するために、なつめひとりで風呂に入るよう促したのは明白だ。
 ――何かを、疑われている?
 整えたはずの呼吸が再び浅くなる。
 頭の中で、思考が糸のように絡まって解けない。
 目の前が真っ暗になる。
 気づいた時にはもう、なつめはひとり、砂浜をとぼとぼと歩いていた。

 盆を過ぎた夕方の海に、ひとけはない。
 足に触れるざらざらとした砂の感触。耳の奥に染み入るような優しい潮騒。海からの穏やかな風が、ゆるりと肌を撫でる。
 海が好きだ。なつめは山育ちのせいか、幼いころから海への憧れが強かった。
 一緒に暮らそうと汐から提案を受けた際、回らない頭で「海のそばで暮らしたいな」となつめは答えた。ほんの冗談のつもりだった。だからまさか、翌日汐が条件に合う物件を見繕ってくるとは思いもよらなかったし、実際にふたりで海のそばに住むなどとは、想像すらしていなかった。
『――なつめが一番落ち着ける場所で、一緒に暮らそう』
 当時のことを思い出して、なつめは思わず小さく笑う。
 元々、汐の一目惚れから一方的に始まった関係だ。しかし、汐が端々で見せる気遣いや情愛に触れ、なつめが彼に対して同様の感情を抱くまで、さほど時間はかからなかった。
 同居に至る過程も手伝ってか、ふたりの生活に僅かでも暗い影が落ちるなど、今日まで考えたことがない。つまりそれは、心のどこかで彼との関係は揺るぎないものだと信じ切っていたということだ。
 ――衝動的に部屋を飛び出しておきながら?
 自分自身のことのはずなのに、まるで理解ができず、考えれば考えるほど、他人事のような気さえしてくる。頭がぼんやりとする。うっすらと砂嵐がかかったように、視界が悪くなっていく。
 耳の奥には、ただ、波の音。

「なつめ!」
 馴染みのある声が、唐突に心臓を貫いた。
 衝撃に身体を震わせ、反射的に振り返る。
 唇の隙間から、ひゅ、と呼吸が漏れた。
 押し潰されたかのように胸が苦しくなる。
 国道から砂浜に降りる階段の上に、彼はいた。
 Tシャツにハーフパンツというラフな格好。離れた場所からも、その肩が大きく上下しているのが見て取れた。
 彼の姿を視認した途端、砂に足を絡めとられたように動けなくなる。
 その間に、汐は階段を下り、足元の悪い砂浜をなつめに向かって駆け寄ってきた。
「よかっ……た、無事で」
 息を切らしながらも、心底の安堵を濃く滲ませた言葉と共に抱きしめられ、そのあまりの力強さに、なつめは不意に泣きそうになる。
 ああ、彼が好きだ。そう強く思う。
「汐」
 身体を少しだけ離して、彼の顔を窺った。
 軽い酸欠なのか、青白い顔には、悲喜入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。濡れたままの髪が、Tシャツの襟口を濡らしていた。
 そろりと頬に指先を伸ばせば、汐によってその手を取られ、甲にキスをされる。
 触れられた僅かな部分から伝わってくる激しい脈動が、なつめに酷い後悔をもたらした。
「勝手に出てきてごめん」
「ううん、なつめが怒るようなことしたおれが悪い」
 怒ってなんて。
 そう口にしようとしたが、言葉が詰まって出てこない。
 ――怒っているのは、むしろ汐の方ではないのか。なつめの何かを疑って、スマートフォンを覗き見たのでは。
 当人を目の前にして、なつめは急に恐ろしくなる。
 汐の気に障ることを、知らず知らずのうちに自分がしてしまっていて、そうして嫌気がさした彼に捨てられたら。
 想像しただけで、全身から血の気がひいていく。
 呼吸が乱れ、目がくらむ。膝から崩れ落ちそうになり、汐に抱きとめられた。
「……う、う……しお、」
 汐の腕の中で、なつめは意図せず、彼を見る。低くなりゆく太陽が、彼の瞳に無垢の光を宿していた。
「汐、俺……、なにか、した……?」
 意を決して問うた声は震えている。
 叱責をされたら。
 口汚く罵られたら。
 かつて職場でなつめに向けられた、おぞましい言葉の幻影が、ぞろりと虫のように皮膚を這い、腹の底でのたうちまわる。異物を排除しようと、胃がきつく収縮を繰り返す。呼吸をするだけで吐きそうだ。全身に酷い鳥肌が立った。ぬるついた嫌な汗が、額を伝う。
 浅い息遣いを察してか、汐の手がなつめの背をゆっくりとさすった。
「――大丈夫。なつめは何も悪くないよ」
 背中に感じる手のひらの感触と低く落ち着いた声が、徐々に身体に染み入って、まるで麻酔のように、なつめの不快感を取り除いていく。
「大丈夫」「ゆっくりでいいからね」繰り返される汐の何気ない一言一言に、今だけでなく、これまでも、一体どれだけ救われただろうか。不意に額をハンカチで拭われ、なつめは泣きそうになる。
 それは、なつめの呼吸が安定するまで続けられた。長い時間のように感じたが、太陽はいまだ水平線より高い。
「モニタリングアプリを入れてたんだ」
なつめの肌に張りついた前髪をそっと摘まみながら、汐は淡々と口にした。
「モニタリング、アプリ……」
「良く言えば、ね」
 顔を上げると、申し訳なさそうに眉を下げた彼と視線がぶつかる。前髪が整えられ、仕上げとばかりに額にキスが落とされた。
「位置情報とか操作記録、あとは通話音声なんかも遠隔で確認できるんだ。……なつめ、仕事探しに行きたいって言ってたから。おれと離れてるあいだ、なつめに何かあったらって考えたら、耐えられなくて、つい……」
 その後ろめたさで、不自然な振るまいになってしまった。そう告げた汐の焦点が揺れる。
 なつめに触れた部分から、小さく震えが伝わってきた。本人は無自覚であろうその不穏な兆候に、なつめはとっさに汐の頬を撫でた。
 ひゅ、と目の前の喉が鳴って、目線がなつめへと戻ってくる。
「それなら、話してくれたらよかったのに」
 子供にするように顔を覗き込みながら、ゆっくりと語りかける。既にふたりの立場はすっかり逆転してしまっていた。
 通院をしていたなつめには精神的不調の自覚があるが、汐にはない。そもそも、汐がそうなったのが、なつめの精神不調に起因することは明白だ。だからこそ、本人に自覚がないうちに、何とか自分で対処をしたかった。彼に気づかれることが、なつめは恐ろしいのだ。万が一、このことが原因で、汐が自身から離れていくようなことがあれば、きっと耐えられない。
 汐を失うことに比べたら、すべてが些末なことだ。
「嫌がられるかと思って」
 波の音にかき消されそうな呟き。
 涙が滲む目尻へのキスで、なつめはそれに答えた。
「汐にされて、嫌なことなんて何もないよ」
 慰めのための嘘などではない。これまでの汐の献身に対して、なつめは自身のすべてでもって報いていくべきだと心得ていたし、そういった義務感を抜きにしても、本心からそうしたいと強く思っていた。彼のすべてを受け入れることで、今後もそばにいることができるのならば、なつめにとってそれは幸福に他ならないのだから。
「ごめんね」
「……俺こそ、ごめん」
 今度は汐から、目元に口づけられた。唇が触れた部分から、じわりと彼の体温が滲んで、きゅ、と胸が切なく締めつけられる心地がした。
 思わず彼の胸元に顔を埋め、背中にきつく腕を回した。
「なつめは悪くないよ」
 穏やかな声が降ってきて、頭を撫でられる。もうすっかり元の汐だ。
 安堵すると同時に、自宅を飛び出した時の不安が再びなつめの胸に戻ってくる。
「嫌われたかと、思った」
 必死の思いで、なつめはそうひりだした。
 ふたりの足元まで押し寄せた波が、砂を連れて海へと還っていく。
 波同士がぶつかり、ひとつになる音。
 昼と夜とが溶け合う色が、海面を眩しく照らす。
「大丈夫、――死んでもずっと好きだよ」
 囁きとともに、右耳のピアスに、静かなキス。
 微かに聞こえる、離れた国道を走る車のエンジン音は、潮騒が密やかに飲み込んでいった。

 せっかくだから、散歩でもして帰ろうか。
 そう提案したのは汐だった。
 ごく当然のように手を繋いで、肩を並べて砂浜を歩く。
 東の空からは、夜がじわりと迫っている。
 太陽は、水平線に今にも触れそうだ。散乱するオレンジ色が、いっそう鮮やかにまばゆく輝いている。
 柔らかい潮風が、なつめの肌を撫でた。
「誰もいないなあ」
「日も暮れるし、お盆すぎたらさすがにね」
 この浜は、海水浴場として開放されているわけではないが、それでも夏の日中は海水浴目的の人々が多数訪れる。砂浜を上がった場所には駐車場が整備されているが、今は一台も停まっている様子はなかった。
「ふたりきりだ」
 呟いてちらと視線を寄越した汐の口元が、ふ、と笑みを形作る。
「ぁ……、うん」
 夕日に照らされた横顔が、いつもの彼とは少し違って見えて、気恥ずかしさになつめはついと顔を逸らしてしまった。
 砂を踏みしめる二人分の足音と潮騒の隙間を埋めるように、なつめの心臓が大きく早鐘を打っている。
 握った手を伝って、彼にも聞こえてしまっているだろうか。
 そんなことを考えていると、不意にその手が強く引かれた。
「ね、なつめ。あっち」
 汐が指さした先には、広い岩場がある。国道の方から、崖のように砂浜に向かって張り出したそこは、巨大な岩が波で抉られ、大きくトンネルのようになっていた。
「わ、すごいね」
 岩のトンネルを内側から見上げながら、なつめが感嘆の声を漏らした。
 近づけば、トンネルは存外に大きく、二人が中に入っても、上にも奥にも、まだ十分なスペースがあった。トンネルの足元は、多少岩が転がっているものの、ほとんどが砂地だ。長年かけて岩が削られたのだろう、隙間から控えめに打ち寄せる波の音が、岩窟の中に響いている。
「秘密基地みたい――、ん、」
 こどものようにはしゃぐなつめの顎が、不意にすくわれ、そのまま唇を塞がれる。目を閉じる時間もない、短いキス。
「なつめ……」
 離れていく汐の唇が、熱を孕んだ声で名前を呼ぶ。
 右手を握られたまま、空いた手で背中を抱かれる。自然向き合う形になって、互いの身体が密着した。はっきりと芯を持ち始めた汐の情欲が、衣服越しになつめの下腹に押しつけられる。
「あ……、汐……。する、の?」
 尋ねる声が上ずった。
「うん……したい。だめ?」
 肩口に顔を埋められ、額を擦りつけられる。
 きゅう、と胸が切なくなった。
 汐に求められている。それはなつめにとって、これ以上ない喜びだ。断る道理などありはしないし、むしろ許可など得ずにこの身を蹂躙されたとて一向に構わなかった。自らのすべてを差し出したとて、彼から受けた献身に対しては、まるで釣り合いが取れていないとさえ、なつめは思う。
だからこそ、彼がこうしてなつめの同意を得ようと、犬猫がするように甘える仕草が、堪らなく愛しかった。
 なつめが黙って頷くと、
「ありがと」
 ちゅ、と小さく音をたてて、数度、首筋に口づけられた。
 きっとそこには、彼からの所有の証が残されたに違いない。
 それを認識すると、なつめは自身の下腹にも、はしたない熱が宿るのを、確かに感じた。

「――ぁ、ンっ」
 岩壁に背を預けたなつめのTシャツの裾から侵入してきた汐の指先が、胸を滑り、小さな尖りを捉えた。人差し指の腹が、触れるか触れないかすれすれの距離で、緩く撫でられる。
 反射的にこぼれた甘い声に、なつめは思わず口に手の甲を押し当てた。驚くほど声が響いたためだ。ここが天井の高いドームのような構造になっているせいだろう。自身から漏れた嬌声の残響など、一体誰が聞きたいと思うだろうか。それに、いくら岩陰だからといっても、明らかな情交のそれを聞きつけて覗きにくる者がいないとも限らない。
「なつめ、声」
 しかし、汐にとっては不服なことだったらしい。
 声を抑えたことに言及され、咎めたてられるように乳首を摘ままれる。
 思わず息を詰めた。きゅ、と身体が緊張する。敏感な箇所への刺激に、痛みなどは感じない。神経が拾い上げるのは、刺激の中に潜む僅かばかりの快楽だ。なつめの身体は、汐によって、そういうふうに作りかえられた。苦痛を感じないように。少しも苦しまないように。
「ッあ、でも、響く……か、ら――そと、聞こえ……ッ」
「大丈夫、波の音で聞こえないよ」
 伝えた懸念を、汐が余裕のある微笑で一蹴した。たったそれだけで「汐が言うのならば、そうなのだろう」という気になってくる。
 欠片ばかりの疑念がないわけでもなかったが、
「ぁあア、っ、や、そこ、吸わな……で……」
「ここ、だめ?」
 胸に顔を埋められ、音を立てて乳首を吸われ、食まれ、合間に甘えるような上目の視線を向けられれば、もはや彼と彼に与えられる性感以外のことなど、頭の中からすっかり消え失せてしまっていた。
 舌先で乳頭をくじられ、乳輪を唇で擦るように愛撫される。音だけ聞けば、ちぱちぱと、赤子が乳を吸うようでもあった。

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