陽炎

ひとを殺した小説(1/3)



 私は、もうずっと長い間、旅に出たかった。どこの街へという明確な目的地があるわけではない。ただ、輝くような青い海と空を見たいと思っていた。
 小説家として生計をたてはじめてから十五年の間暮らしているこの部屋の窓から見えるのは、ざらついたコンクリートの肌、背の高い無機物、そして無表情の人間たち。その気になればいつでも人を殺めることのできる鉄の塊が、アスファルトの上を尊大な態度で転がっていく。窓枠の中の世界に私の欲した空や海はない。ただ、灰色のビルの隙間にガスで黄ばんだ空が覗き、膜が張ったようにぼやけた太陽が、この部屋へ辛うじて光を届けている。
 ――私は、海へ行きたかった。波のさざめきと、海と空が交わる青の終着点が酷く恋しかった。
 空気の取入れのため開け放した窓には、そんな光景が目に入らないように簾をかけている。空気の取入れとはいうが、しかし窓は他になく、それに変わるような穴もないため、私がいる六畳間とそこに繋がるリビングの空気は淀んだままである。さらに室内でマメシバを飼っているため、そこに獣臭さが加わり、初めてこの部屋を訪れる者があれば思わず眉を顰めるであろう、何ともいえず陰鬱で、鈍重に停滞した悪臭が、ここには漂っていた。
 ぞぞぞぞ。新聞に鋏を入れる。紙を裁つその微細な感触が腕に伝わった。机の上に、切り抜いた四角いものが、はらりと落ちる。そこには既に、山のように、同様の切り抜きが重なっている。私はこれらの記事を、まとめねばならなかった。そしてそれを急がねばならなかった。どうしても、そうしなければならないのである。
 簾が、すうと揺れた。空気が流れたのである。背後の方で、がちりとノブが回る音がした。玄関のドアノブだ。私は、作業が中断されることが好きではない。だから常に、鍵は開けたままだった。ここへ訪れるのは、出版社の担当編集者ぐらいのものだったし、さらにこうして、玄関を開ければすぐ目に入る場所に私がいるのだから、空き巣に入られる心配もない。現に十五年間、そんな輩に出くわしたことは、私はなかった。
「ああ、まる。来客だ」
 かけていた老眼鏡を鼻の方へ少しずらし、足元で丸くなっていた愛犬に、私は話しかけた。くん、と鼻を鳴らして、まるが玄関へと歩いていく気配がした。眼鏡を元の位置に戻す。手元がはっきりとよく見えた。私は新聞を切り抜いていく。
 ずよ、ずよ、ずよ。鋏を動かす。
 ぞぞぞぞぞ。紙が裁たれる。
 はらり。それらが山を成す。
 その内の一片には概ねこういった内容が記されている。
 ――『山中に遺体・不明の男性と判明』K県警では、男性の息子を重要参考人とし、話を聞いている―― 
 これが最後の切り抜きであった。私は築かれた山のそばに鋏を置いた。わん、と、まるが、ひと吠えした。まるは、人懐こい性格で、飼い始めて三年経つが、来客に向かって吠えたことなどなかった。
「まる。まる。あまり吠えてはいけないよ。ご近所に迷惑だ」
 言いながら、一番上の引き出しから大学ノートを取り出す。そして二番目の引き出しからは液体のりを。簾がぐう、と大きくうねった。机上の紙片が舞いそうになり、慌てて手で押さえる。
「すみませんが、ドアを締めてもらえますか。切り抜きが飛んでしまいますのでね」
 声をかけると、背後で、ぎいと音がした。風の流れがぴたりと止まる。ほう、と息をつくと同時に、肩をすくめた。ドアの丁番に、また油を差さねばならないようだ。住み始めた当時から既に築年数がかさんでいた物件のため、こればかりは致し方ない。
「ありがとうございます。まあ、上がってください。そこのソファに、適当にどうぞ。ああ、でも原稿ならもう――」
 押さえたせいで、数枚の切り抜きが皺になってしまった。それを丁寧に指で伸ばす。
 皺のついた記事には、おおよそこうある。
 ――『戦慄の猟奇殺人事件』S県に住む女性が、恋人の男性に殺害された。自宅アパートで首だけを数十ヶ所刺され倒れていたのを、通報により駆けつけた警察が発見。同じ部屋にいた恋人の男性が犯行を自供した――
 ノートを開く。その切り抜きの裏にのりをつけ、貼り付ける。紙片の端から、のりが溢れた。どうやらのりが多すぎたらしい。爪の先で削るように拭う。余分なそれは、机の端に適当に塗りつけた。
「なあ、分かってるんだろう。……白々しい芝居は、やめにしないか」
『彼』は呆れの色濃い声色で言った。ソファが沈む。「ああ」と私の口から感嘆の溜息が漏れた。低く、感情の滲まない、淡々とした物言いのそれは、確かに久方ぶりに耳にする『彼』の声だった。私の背後にいるのは、担当編集者などではなかった。私はこの訪問者が誰であるか、知らないはずがなく、また、今日ここへ来る人物は、必ず『彼』でなくてはならなかった。
「やあ、君か。久しぶりだね。十年ぶりになるかな」
 振り返らずに、しかし揶揄するように、笑ってみせる。微かな衣擦れの気配。彼が肩を落とした音。
「……相変わらずだな、お前は」
 彼は、私の大学時代からの友人である。学部は違ったが、同じサークルの幽霊会員だった。そのサークルは、登山愛好会という、名の通り登山をすることを活動主軸にしていた。
 ――サークルの新入生歓迎会で私たちは出会った。もう二十年以上前の話だ。しかし、あの時ふたりの間で随分と会話が盛り上がったことは、今でもよく覚えている。何しろ、登山愛好会に入会しているにも関わらず、私たちは山が好きではなかったのだ。私と彼が興味もないサークルに入ったのは、互いに『山に登れば海が見えると思った』という理由からだった。そこがまた、彼と私の、重大な共通点であった。
 歓迎会の席で、山の話題に花咲かせる先輩や同級生たちに気付かれないように、私たちは隅の方で、海について語っていた。
 そうして、そのうちにふたりしてこっそりと会を抜けだし、列車に乗って海を観に行った。真っ暗な海で、何千、何万回と打ち寄せる波の音。手のひらに感じた細やかな砂の感触。私たちは夜が明けるまで、砂浜で時間を過ごした。
 明け方、背後から昇った太陽で、黄金色に輝く海を観て、私は言った。
『やっぱり、山に登って観るより、砂浜で観る海の方が綺麗だね』
 私の言葉に、ふたりで顔を見合わせて、小さく笑った。永遠に続けば良いと感じた、しかし極めて刹那的な時間だった――
 私と彼は、その時以来の、無二の親友である。
「君こそ。十年経っても二十年経っても変わらないみたいで、嬉しいよ。それに、少し安心もした」
 セピア色の回想。打ち壊すのは、干上がったような私の声。新聞の切り抜きのモノクローム。彼の小さな舌打ちが聞こえる。
「そうだろうよ」
 憎々しげに、しかしやや苦笑混じりに、彼は吐き捨てた。まるが、彼に向かってまた吠えた。
「だめだよ、まる」
 私の静かな叱責に、まるが、きゅうん、と悲しげに鳴く。
「犬を飼い始めたんだな」
「ああ。君がぱったりここへ来なくなってしまったからね。……悪いけど、今ちょっと手が離せないんだ。冷蔵庫から適当に出して飲んでいいから、ゆっくりしていてよ」
 ノートの最初の一枚が、びっちりと新聞の切り抜きで埋まった。ページを捲る。真新しい紙の匂いがした。同じ幅で引かれた薄い橙色の罫線。その端と端を繋ぐことができたなら、どれほど私は幸福だろう。
「確か、君用のコップが――」
 手を止めて、ふと思案する。彼がこの部屋に来るのは十年ぶりだ。この部屋には、彼専用のコップが確かにあったはずだが、その置き場所がどこだか、私はすっかり忘れてしまっていた。
「台所の上の戸棚の右側奥」
 私が首を捻っていると、彼がぽつりと言った。ああ、と私は声を漏らす。
「そうだったかな」
「この部屋のことは、お前より分かっているさ」
「十年ぶりなのに」
 彼が急に得意気な口調になるものだから、私は思わず苦笑した。
「十年ぶりでも、だ」
 彼は、ふふん、と鼻を鳴らす。ぎゅう、とソファが一旦縮み込み、その後、ぎぎ、とスプリングが軋んだ。このソファも、もう随分古い。愛犬のためにと敷き詰めたコルクマットの上を、滑るような足音。そして戸棚が開かれる。玄関の脇にほんの気持ち程度に設けられた狭いキッチンスペースの、天井から伸びた吊り戸棚だ。私は背が低いため、踏台を使わないと物を入れることができないこの収納は、ほとんど使わない。そのため、恐らくこの戸棚の中は、彼が最後にこの部屋を訪れた十年前のまま、時が止まっていただろう。
「ほら、あった」
 彼が楽しそうに声を弾ませた。彼も、この戸棚の中に閉じ込められていた、十年という時間に気が付いたのかもしれない。
 蛇口が、きゅ、と鳴く。そして流水音。コップは大層埃をかぶっていただろう。
 ぱたたたた。ステンレスの流しを叩く水。私は背後から聞こえる音の波に身を預けるように目を閉じた。
 記憶の中の彼の、長く細い、決して力仕事などせず、荒れた箇所などないその十指。それらが舞踏のように華麗に交差する。からめとられる陶製のそれは、今にも雨を落としそうな空の色に似ていたと思う。透明な薄い膜がそれにまとわりつく。その上を乱暴に愛撫するように、彼の指が滑り、擦り、時折掻く。そういえば、コップには模様が入っていたはずだった。一体何色だっただろう。思い出せなくなったそれが、鮮やかな赤であれば良いのだが。
 きゅ。蛇口が閉まる。たん、たん。水滴が垂れた。再び、摺足での移動。密閉空間に空気が流入する際の、何とも間抜けな音が聞こえた。そしてガラス同士が軽く擦れ合う。よ、と彼が小さく声を出した。その掛け声に、何だか少し可笑しくなる。私はゆっくりと瞼を開けた。簾の隙間から、やや黄ばんだ感のある日光が机の上に射し込み、一センチほどの細長い模様を、いくつも描いている。
「コーヒーを貰うよ」
 彼は言った。その言葉で、来客用のボトルコーヒーが冷蔵庫にあったことを思い出す。
「ああ」
 そう答える前に、コップに液体が満たされる気配を、背中で感じた。

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