掌編
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すべてを悪い夢にしてしまいたかった。 『――悪い。それだけは、無理だ』 しかし彼の声は確かに耳の奥にこびりついていて、その残響が僕の胸を鋭く何度も切りつけている。 鈍重な足取りで、一体どこをどう…
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つけっぱなしのテレビで流れているのは、年末の忙しない商店街の様子。しかし、それを伝えるレポーターの声はほとんど聞こえてこない。限界までボリュームを絞っているためだ。 そもそもこの部屋で、まともにテ…
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無様に横たわる僕の心を救ったのは、穏やかな春の陽射しだった。 まだ幼かった頃に走り回った田園風景。思春期の甘酸っぱい秘め事を心に宿したまま過ごした校舎。期待に胸を膨らませて降り立ったターミナル駅。…
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『純文学』という言葉が嫌いだ。芸術的価値のある作品こそが至高かつ純粋なる文学の形なのだと云いたげな、高尚ぶった響きが鼻持ちならない。 そもそも、私自身物書きであり、書いているものは『純文学』にあたる…
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目が眩むような夕暮れ色に包まれて目を覚ます。ぼんやりとだが、はっきりとした意識がある。〈それ〉に形があるのかと問われれば否だが、形がないことは決して存在しないということではない。形の有無は些細な問題…
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《星は光と光の狭間で輝く》 目映い。何百何千といった細かく鋭い光の筋が瞳孔を射抜き、脳を灼く。反射的に腕で顔を覆う。同時に閉じられた瞼は、しかし私の視界に闇をもたらしはしない。 私は、両腕をまっす…
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《昏き森は甘い死の香りで誘う》 この森は、光を喰い、闇を吐いて生きている。 頭上を覆う幾重もの暗緑。にもかかわらず、葉擦れは一切ない。沈黙の森の内にある唯一の音は、重く冷たい金属音。私の両腕を拘束…
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《赤で繋がれた光と闇の主従》 天球が、黄昏の色を抱いている。天に向かって高く聳えるは、四方が階段状になった台座。夜闇の色をしたその頂きには、月の輝きを放つ玉座が据えられていた。 その椅子に人の姿は…
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《モノクロの遊戯に興じる黄金の天秤》 暖かな硬さだ。足面につぶさに感じられるのは。 硬質なそれを一面埋め尽くすのは、正方形の白、或いは無限に続く黒い格子。剥き出しの足指で白と黒の境界に触れてみるが…
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《白と黒の世界でペンは踊る》 木製の軸に差し込まれた、先端ほど幅細く尖り、やや湾曲した金属板。その中心に小さく楕円の穴があけられており、そこから金属の先端部分を真半分に割るように、切れ目が走っている…