SS
-
-
-
「また?」 立ち止まった俺の隣で、彼が呆れ混じりの溜息を吐いた。 足元には浅い水槽。屋台骨にくくりつけられた提灯の淡い橙色が、水面にちらちらと反射する。 きらめく水の中で、いくつもの黒や朱色のヒ…
-
-
-
山あいの集落は日暮れが早い。高い山が、地平線に沈むより先に太陽の光を遮ってしまうからだ。秋ともなれば、それはなおさら顕著になる。 狭い農道の周辺には、既に稲刈りを終えた田が広がる。刈田特有の、稲わ…
-
-
-
駅前に存在したのは、確かに日常の風景だった。 地下鉄を入谷で降り、地上に出たのは夕方五時。駅周辺を行き交う人々は、足早に各々の目的地へと急ぐ。 それらを尻目に、住宅の多いエリアを十分ほど歩けば、…
-
-
-
最近、凪は少し変わった。 これまで、恋人である楓を溺愛するあまり、髪一本から足の爪に至るまでを満遍なく愛でることはあった。しかし、今は楓の身体の一部分に異常な執着を抱くようになっていた。 きっか…
-
-
-
濡れたTシャツの白い布地が肌に張りつき、うっすらと皮膚の色が透けて見えた。女のような膨らみなどない、まっ平らな胸。しかしそこに、二つの尖りがはっきりと存在を主張している。 「凪、も、しつこい……って…
-
-
-
流川ながれかわがオーナーを勤めるコンビニの二階が、彼の住居だ。 人件費削減のための長時間労働を終え、疲れた体で二階に上がり、玄関を開けると、見計らったように奥から声がかかった。 「流川さ~ん、ねえ…
-
-
-
ベッドに押し倒した相手にキスをしながら、その耳に触れるのは、水無瀬の悪い癖だ。舌を絡ませ、唇を食み、わざといやらしい水音をたてながら、同時に指で耳朶の端を摘まみ擦り、耳介に沿って撫で上げれば、はした…
-
-
-
鳥羽千波ちなみの記憶は、幼馴染みである伊勢嶋史樹ふみきの花綻ぶような笑顔で始まっている。 『ちなちゃん、これ、もらってくれる?』 まだ小学生にもならなかった頃、史樹から突然差し出されたのは、ジュズ…
-
-
-
気もそぞろ、というのはこういうことをいうのだろう。海田は、手にした箸の先からテーブルの上へと転がり落ちた昆布巻きを、反対の手で口に放り込みながらそう感じていた。 クリスマスを過ぎた辺りから、自身の…
-
-
-
薄暗くなってきた冬の街中を、私は足早に歩いていた。 買い物をしようと思い立って家を出たのは昼すぎだったというのに、その買い物もろくに終わらせられないうちにこんな時間になってしまうなんて、思いもよら…