【試読】死んだ 彼女は 摩周湖で

2021年06月25日

 僕の手を握る彼女はへどろ色をしていた。
 彼女だけではない。彼女の背後に建つぼろアパート、ところどころひび割れたブロック塀、その上をゆったりと歩く野良猫、雲ひとつない空、そうして彼女にひかれる僕の手。目に映るすべてが、停滞した流れによって川底に堆積した汚泥を塗りたくったように汚らしい色で塗り替えられていた。
 ふんだんにフリルがあしらわれたワンピースを身につけ、にっこりと笑む彼女の歪んだ歯列の向こうからは、どぶ川の臭いがする。
 僕と彼女のすぐ前方には大きな水たまり。映り込む空だけが、世界の中で眩いほどに青い。
「摩周湖って大きな水たまりなんだって」
 彼女の声は音とならなかった。代わりに口からはごぼりといくつかの気泡がこぼれ、空中を上昇していく。音を纏わない言葉は僕の頭に直接送り込まれた。耳道から粘度の高い何かが溢れだす。
 そうなんだ。
 短い返答もまた音にならず、代わりに僕はへどろを吐いた。
「見に行きたいな、一緒に」
 僕の手を握る力が強くなる。
 僕は何も言えなかった。
 不意に、彼女が手を離した。そして短い跳躍。
 青い空を映した水が散る。彼女の細い足首を汚す、かつての空の模造品は、既に薄汚い色に変っていた。
「あーあ」
 それは声ではなくノイズだ。へどろ色をした世界は、ノイズを合図に霧散する。
 白い光の明滅、そうしてあらゆる色彩の乱舞。
 深い青、鮮やかな緑、静かな灰色。
 そこからぼうっと浮かび上がるのは、仰向けに倒れた彼女。周辺に広がる赤、赤、赤――。
「どうして殺したの?」
 紛れもない彼女の声が、すべての色を黒で上塗りをしていく。
 気づけば僕はひとりきりで闇の底にいた。

『摩周湖の湖畔で、女性の遺体が見つかりました』

「――っは、」
 無意識に上半身を起こしていた。酷い動悸がしている。寝汗で湿ったシャツの胸元を掻き抱く手は震えていた。乾いた喉が張りついて呼吸が苦しい。目の前は白くぼやけている。覚醒が不十分なのかもしれない。それでもカーテンの隙間から薄ら日が差し込んでいることや、部屋の隅に置かれたテレビの電源が入っていることは分かった。
 動悸が落ち着くまで、暫くかかった。その間に、徐々に明瞭になっていった視界で、周囲を確認する。狭い部屋だ。脱ぎ散らかされた衣服があちらこちらに点在するフローリング。中心に据えられたテーブルには、空のペットボトルやコンビニ弁当のゴミ、端の方で落ちそうなスマートフォン、さらには複数の薬袋が乱雑に散らばる。つけっぱなしのテレビからは新しくオープンしたカフェを紹介する男性の声。常夜灯の橙色が、天井をぽつりと虚しく照らしている。
 動悸がおさまっても、手の震えは変わらなかった。とにかく立ち上がろうとベッドから両足を下ろしたが、そのまま床に崩れ落ちる。力がうまく入らない。見れば足も小刻みに震えていた。
 足が立たないのであれば、這ってでも――這ってでも?
 奇妙な思考に首を捻る。這いつくばってまでこの場所から移動する必要性がない。震えがおさまってから、ゆっくり立ち上がればいい……はずだ。頭ではそう理解している。
 身体が重い。震える両腕の力だけでは、ナメクジ程度の速度でしか進むことができない。
 ……僕の身体は這っていた。冷たいフローリングの床を。
 どこに向かって? それすらもわからないまま。
 そんな必要はない! しかし身体は僕の意思を解さない。
 身体と精神の剥離に、どぱ、と涙が溢れた。濡れたフローリングは余計にも僕の行く手を阻む。僕はただ芋虫のようにその場に蠢くだけだった。
 ぺりりりり。控えめな電子音。テーブルの上からだ。同時に起こった細かな振動がそれを僕の前に落下させた。
『着信中』
 ゼロハチゼロと続く数字。そして、
「アキ、目が覚めたのか」
「……ト……オル?」
 唐突に玄関のドアが開き、スマートフォンとビニール袋を片手に足早に駆け寄ってくる青年の姿が目に入る。乾いた咽喉が、辛うじて意味のある音を発した。トオル……そう、彼は透だ。僕の友人男。
「何で泣いて――」
「透!」
 しゃがれた声音が悲痛な響きでもって彼を呼んだ。歩み寄ってきた透の腕を縋りつくように掴む。手はもう震えてはいない。
 ど、と鈍い音。視線で追う。彼の持っていたものがするりと床に落ちていた。ビニール袋の中からペットボトルが二本転がり出た。そのうち一本の中身はミネラルウォーターらしい。水色のラベルには深い青の湖が描かれている。
 湖のほとり、砂地であろう灰色の上に、彼女は倒れていた。
 長い髪を枝のように広げ、見開いた目で僕を見ていた。僕も彼女を見ていた。僕らは見つめ合っていた。
 彼女の感触が蘇る。頬の、手の、首の、張り詰めた肌の質感。心臓の脈動を、僕のではっきりと感じ取った、その記憶。
「透」
 肺が、喉が、舌が、恐ろしい言葉を紡ごうとしている。
 僕はそれを止めることができない。
 涙で汚れた顔が、勝手に微笑を作り出す。
「……僕、彼女を殺したよ」
 しゃがれた告白を、目の前の彼は顔色一つ変えずに聞いていた。

「――ニュースで云ってたんだ」
 透に促され、僕はベッドに腰掛けた。透は部屋に散らかったゴミを拾い、ビニール袋に詰めている。
「摩周湖で、彼女の死体が見つかったって」
 あらかたゴミを集め終え、キッチンスペースへと向かう彼の背中に向かって口にした。途端に全身がぶるりと震える。
「僕がやったんだ」
 そう、僕がやった。僕が、彼女を殺した。彼女の感触を覚えているのが、何よりの証拠だ。僕がやった。彼女を。僕が、僕が――
「彼女の名前は」
 思考を断ち切るように、透が尋ねてきた。は、と顔を上げる。彼の右手には青いカップ。差し出され、反射的に受けとる。僕の左手の中に収まったカップに、ペットボトルの水が注がれた。
「名前」
 彼の言葉を口に出して反芻すれば、頭の芯がぼうっと痺れたようになる。
「彼女は……彼女だよ。たぶん、僕の恋人だった」
「名前も知らないのに恋人なんだ?」
 目の前の透が、泣きそうに顔を歪めた。どうしてそんな表情をするのか、僕には判らない。ただ酷く胸が痛くて、僕の手は勝手に彼の手を掴んでいた。
「僕と彼女が、手を繋いでいたから」
 夢の中で、僕は彼女に手をひかれていた。……夢、いや、あれは現実のことだったような気もする。
「……なるほど。手を繋いでいたから恋人だ、と」
 透が僕の手を握り返してくる。そのまま彼は、僕の隣に掛けた。
「エリナ。この名前に聞き覚えは?」
 腹の底を撫でられるような違和感。ぞわぞわとして落ち着かない。
「ああ、エリナ。そう、彼女はエリナだ。僕の恋人。僕が殺した。摩周湖のほとりで」
 違和感を吐き出すように、するすると言葉が口から漏れ出た。こめかみの辺りが、金槌で殴られているかのように痛む。
「どうやって?」
 尋ねられる。ガン、ガン、と頭痛。
「首を絞めたのかも」
 僕は答える。酸っぱいものが胃からせりあがってくる気配。
「どうしてそう思ったの?」
 彼は訊いた。視界がぐるりと回る。身体が傾き、彼にもたれかかる。カップの水が溢れ、膝が少し濡れた。
「目につく傷がなかったから」
 喉が灼ける。思わず、手にしていたカップの中身を二、三口飲み下した。
 冷たい水が、カップの中で揺れる。青い水面に彼女が浮かんでいた。白いワンピースが広がり、たゆたう。彼女の口元が、にったりと笑みを作る。どぶ色に染まった歯が剥き出しになった。どろりと濁った目と視線が合う。
 瞬間、カップを取り落とし、その場に嘔吐していた。水と吐瀉物が、僕の足と床を汚す。
「か……ッは、ぁ――!」
「アキ、アキ……大丈夫? かわいそうに」
 そっと背中をさすられる。
「か、彼女が……」
 声が震えた。
「何もいないよ」
 透が、やけにはっきりした声で言い切る。
 思わず彼の顔を窺った。まっすぐに僕を見つめるその瞳に淀みはない。
「何もいないなんて嘘だ。彼女はいたんだ。青い水に浮いて僕を見てた……っ!」
 口にしながら恐ろしくなる。床を汚した吐瀉物の底から、へどろを吐きながら彼女が現れるような気がした。いや、むしろ既にそこに立っているのではないだろうか? 彼女が視ている。僕を。見るな、視るな。どうして、――
「アキ」
 耳元で、優しい声色。名前を呼ばれ、我に返る。いつのまにか、僕は透の腕の中にいた。彼の胸に片耳を押し付けるように、きつく抱き締められている。穏やかな鼓動を感じた。それは紛れもなく、彼自身のせいの証明だ。
「ゆっくりでいいよ。息を吸って、……吐いて。そう、上手」
 言葉通りに呼吸を繰り返す。彼の心臓のリズムがそれに重なる。せいせいが交わる感覚は、幸福で、そして甘美だ。

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