そしてまた君は呟く〈8〉

《昏き森は甘い死の香りで誘う》

 この森は、光を喰い、闇を吐いて生きている。

 頭上を覆う幾重もの暗緑。にもかかわらず、葉擦れは一切ない。沈黙の森の内にある唯一の音は、重く冷たい金属音。私の両腕を拘束する鎖が発しているものだ。足裏が土を踏み、歩みを進めるに関しては、全くの無音であった。

 私は鎖を引かれ、それに導かれるように歩いている。黒衣の背中が先導してはいるが、鎖は先導者の手元に繋がる前に、空中でぷっつり切れ、空中に浮いたままだ。ただ鎖を引かれる感触だけがあって、それに逆らわないでいるだけなのである。

(どこへ行きますか)

 黒い背に向けた問いは、音にならぬまま消滅した。森に含蓄された闇が、或いは眼前の黒衣が、声を喰ったのだろうと思われた。昏き口内で音なきそれが咀嚼され、ひりひりと内腑を灼く。肌をくすぐる生温い微風が、生と死の狭間で揺らぐ命の匂いを運んできた。黒衣の先導者は、その足を止めはしない。

 

 暫く歩いても、森が終わる気配はなかった。かといって、深まりを感じることもない。ただ、変化はあった。鬱蒼と茂る木々に、ぽつぽつと彩りが加わったのだ。

 それは光の果実であった。暗緑からぶら下がる、赤や黄や紫といった、大小様々な光を放つ物体。具体的な形は光の加減で判らない。それらは時折、地面に転がっていた。熟れきったためか、淡くなった光はとろりと蕩け、脳を内側から侵すほどの濃密な甘い芳香を放ちつつ、地面との同化を果たさんとしていた。こうして光は再び喰われていくのだろう。

(一体どんな味で、どれだけ美味いものなのでしょうね)

 訊いたところで、誰も答えまい。嘲笑うかのように、果実がゆっくりと明滅する。

(死の)

 それは空気の振動を伴わず、頭の深い部分に直接注ぎ込まれてきた。明瞭に認識できるにもかかわらず、高低太細といった様相は全く捉えられない。ただ音が纏う意味だけが、私の脳に刻まれているようだった。概念として、それは間違いなく『声』であった。

(むせかえるほどの、死の味ですよ)

(死の)

 無意識かつ反射的に繰り返し、はっとする。これは、私の声では、ない。

 冷たい肌同士を擦りあわせ、自己愛撫に耽っていた鎖が、途端に口をつぐんだ。無機質な嬌声の先を歩いていたはずの先導者の姿がなかった。

 辺りに黒い霧が立ち込め始めた。森が闇を吐き出しているのかもしれない。導きを失った私は、その場から足を動かすことも叶わず、身体にきつく闇が絡み付くのを甘んじて受け入れるほかなかった。

 

 まぶたに触れる細かく鋭い刺激に目を覚ます。瞬間、眼球をひりと灼かれ、痛みに顔を背けた。慣れで痛覚が麻痺するのを待って、恐る恐る視線を戻していく。青空が目に映る。森が僅かに途切れているのだ。

 腕が軽い。鎖の拘束はすでに解かれていた。

 清澄なる空気が、す、と鼻に抜けた。水の匂いだ。眼前に、湧き出した清水によって作られた模倣品の空が揺れる。金や銀を帯びて波立つ水面は、所々森の影を抱いていた。

 葉が擦れあうことで、微細に振動する空気が、優しく耳朶を叩く。頬を掠めるのは、緩やかな時の流れだ。闇喰いの陰鬱な森の姿は、ここにはなかった。

(……死に)

 再びの声。やはり音を伴わない概念のみのものであるのに、しかしその響きは脳内に留まらず、高い空に抜けていくような広がりをみせた。

(死に触れなさい)

 泉の対岸に、黒衣の先導者が立っている。頭まで覆うその長衣によって、その表情を窺うことはできなかった。否、そこに顔などないのかもしれない。

(指で、舌で、喉で)

 声が呼び水となった。

 私の膝は、勝手に地面についていた。

 思考がぐずぐずと崩れ、形を失っていく。

 

 ――死に(触れ)なさい――

 

 言葉の一部が、水に溶かしたように膨張していた。

 水中に、ちらと煌めく赤が覗く。

 泉に両手を浸し、それを掬い出そうと試みる。

 水以外のものが手に触れた感覚はない。 しかし、赤に添えた両手を水中から引き上げれば、それと共に赤い物体も浮き上がってきた。

 濡れて艶めく宝石のごとき鮮やかな赤。収縮と膨張を繰り返すそれは、巨大な心臓であった。激しく脈動する様子は、死から遠くありながら、同時に最も近くもあった。

 泉の対岸で、黒衣に包まれた闇色の顔が、大きくひとつ頷く。

 脈打つ赤い宝石に、唇を寄せていくと、ぬっとりとした甘い匂いが鼻を抜け、咽喉に流れ込む。そして胃へ、口腔へと広がる。舌に張りつき、味蕾を緩く抉る匂いは、熟し、腐りかかった光の果実が放つそれだ。期待に胸が熱くなる。

 唇が赤に触れる、その刹那。

 静寂を裂く木々のざわめき。

 突風に砂塵が舞い上がった。

 闇の捕食が再び始まる。

 手のひらの上に浮かぶ心臓が、ぱつ、と弾け、赤い霧となり、たち消えた。場に残された僅かな光を纏いながら。

「如何ですか」

 声。その明瞭な響きは私の鼓膜をくすぐる。痺れをもたらす甘い響きは、脳をぐずぐずと溶かしていく。どろりとしたそれの味は、舌で確かめることをせずとも、霧散した心臓と、或いは腐敗した光の果実と同じであろうと思われた。

「――あなたの、死の味は」

 あとに残るのは、光が喰い尽くされた世界。

       
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