そしてまた君は呟く〈7〉

《赤で繋がれた光と闇の主従》

 天球が、黄昏の色を抱いている。天に向かって高く聳えるは、四方が階段状になった台座。夜闇の色をしたその頂きには、月の輝きを放つ玉座が据えられていた。

 その椅子に人の姿はない。代わりに、座面の上にぽつり、踵の高いガラスの靴が一足置かれている。靴の浅いフロント部分を、花を模した真っ赤なリボン飾りが、静かの海のごときこの場所に、せめてもの華やかさを添えていた。

 玉座からは、階段から遠巻きに立つ私の足元まで敷かれた、リボンと同色の絨毯。目が眩むほどの赤に、途中、黒い染みがある。

 ふと、甘い鳴き声がした。絨毯の染みが、文字通り『頭をもたげ』る。私が大きく目をしばたかせた次の瞬間、そこには小さな黒猫の背があった。絨毯の鮮やかさに水を差していた染みは見当たらない。

 そっと猫の横へ回り込む。私の様子など猫は一向に気にしていないようだった。

 艶のある上品な毛並み。金の双眸は段上の靴へと注がれている。やや痩せぎすな体には、足が三本しかなかった。左の前足が根本からぷっつりと失われているのだ。ただ、血は流れておらず、また欠損部分はすっかり毛で覆われてしまっている。

 なぁお、なぁお。訴えかけているのは、視線の先にか。『彼女』は月の上で、いまだ眠ったままだ。

 

 夜の帳がおりた。天頂からは月光がさらさらと降り注ぎ、ガラスの靴に煌めきを与えている。

 あれからというもの、黒猫は鳴きもせず、またその場からじっと動かなかった。私も同様に動くことができなかった。そこに私の意思は一切介入していない。時の流るるは、光と闇にだけ許された特権であるように思われた。

 どれだけの間立ち尽くしていたか。不意に弾けた微かな水音が、静寂の均衡を破った。黒猫が鼻頭を高くあげ、玉座の真上に視線を移す。私の目も続く。きらり、空から銀色の光が落ちてくる。それは恐らく、月の雫であろう。月が抱えきれなくなった太陽の一部を、涙と共に大地へと流しているのだ。

 銀の涙は、初夏の高原のごとき清涼なる芳香を連れ、靴先をしっとりと濡らす。折り重なった透明と、とろりとした銀色が混じり合い、月光を絡めとる。複雑に屈折させられて生じた細やかなプリズムが、この僅かな空間に無限の星空を創り出していた。

 

 黒猫が高らかに鳴く。喉を反らせ、天を仰ぎながら。空気が震え、ぴん、と張りつめる。

 こつり。乾いた音。段上からのものだ。見やれば、丁度右の靴が僅かに浮き上がり、その踵を地面に軽く打ち付けるところであった。その動きに、左の靴も続く。軽やかで優雅な律動。振り払われた地上の星空が霧散する。名残惜しげに光の尾を描きながら。

 消滅してゆく星々の裏で、揺れる赤く細い影。ガラスの靴を唯一彩っていたリボンである。 花を模したそれが、するり、端からほどけていく。二本のリボンは、螺旋状に絡み、しかし互いの肌を触れあわせることなく、階段を下り始めた。それを迎え入れるように、黒猫が恭しく頭垂れる。

 猫の目前で、リボンは事切れたように落下。それから、地を這う。行き着いた先は、失われている右前足だ。リボンは存在しないそれに巻き付いた。ぐるぐると幻を包み込んでいく。やがて黒猫は、赤い前足を手に入れた。

 途端、顔を上げる。

 弾かれるように疾走。

 静かの海に繋がる階段を駆け上がる。

 音もなく、黒い風と化す。

 月光を浴びて放たれるビロードの艶めき。

 最上段に辿り着くなり、黒と赤の足で踏み切り、跳躍。

 銀の玉座で待つ彼女の隣に、猫は座り込んだ。そして、金の双眸を伏せると、右のガラスの靴、その爪先にゆっくりと口づける。

 猫の触れた部分が、淡く発光した。同時に、猫の体から色が失われていく。口元、鼻先、頭部、耳、背中から足へ、最後に尾が――透明になっていく。

 口づけは、生涯の従属を約束するものだったのだろうか。その体から艶やかな黒の毛並みを想像することは、もはやかなわない。その場には、右前足に巻かれたリボンの赤色だけが残された。

 月光を浴びて穏やかに煌めくガラスの猫は、ガラスの靴に静かに寄り添っている。

 彼女らを包む優しい銀の光は、きっといつか金へと変わるだろう。そうして悠久の輝きを、彼女らは放ち続けるのだ。

       
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