そしてまた君は呟く〈6〉

《モノクロの遊戯に興じる黄金の天秤》

 暖かな硬さだ。足面につぶさに感じられるのは。

 硬質なそれを一面埋め尽くすのは、正方形の白、或いは無限に続く黒い格子。剥き出しの足指で白と黒の境界に触れてみるが、少しの凹凸もない全くの平面であった。

 地の果ては見えぬ。また、天についても同様だ。 むしろ、色を擁さぬ空は、その存在すら不確かである。

 視覚的には明瞭でいて、しかし極めて不確定なモノクロームを背景にして、世界の中心に、それは鎮座していた。

 高く聳える黄金柱。 根本はどっしりと重く地面を捉え、少し上辺りは左右に突き出している。上部に向かうほどに先細っていて、おおよその全体像としては、逆さまの十字架だ。最上部はぷっくりと膨らんでいる。部分的に膨張したそこを、真横に貫く、これもまた黄金の棒。左右均等の長さに据えられたものの両端からは、目映い鎖が三本ずつ垂れ、同色の皿を揺らしている。地に影は落ちない。

 在りもしない光によって生み出される輝きは、黄金というのに少しの嫌味も感じさせない。むしろ、無垢故の安堵を、私はその秤に対して覚えた。

「はじめまして」

 反響、そして残響。温度のある声だ。調子は明朗である。眼前の黄金から発せられているわけではないようだった。

「はじめまして。君は?」

「ゲームをしましょう」

 私の曖昧な問いに『彼』は答えない。

「ゲーム?」

「互いに一言ずつ会話をするのです。そして、天秤の皿を下げていく」

 ちら、と左右を見回す。重石になりそうなものはひとつも落ちていない。

「……ルールはそれだけ?」

 彼の言葉が理解できたわけではない。だがそれでも、ここではその理解不能な言葉こそが唯一の真実であることを、私は十分に承知していた。

「いえ」

 瞬間、天秤の輝きが失せる。鈍く色褪せた表面は、錆びた鉄の様相を現していた。目を瞬かせる。変わらぬ黄金の煌めきが、またそこにあった。

「『触れずとも傾く天秤を支配している法則をあなたが暴く』のが、このゲーム唯一のルールです」

 有無を言わせぬ響きを、その声は纏っていた。私は天秤を見上げた。僅かに反った喉元が無意識に鳴る。掴み所のないつるりと滑らかな山の中腹に立たされている気分だった。それに併せて足元にいまだ感じるこの温かさは、余計にも私を困惑させた。

 ふ、と耳元で、微笑に伴われる吐息を感じる。振り返るが、そこには白の(或いは黒の)世界が広がっているだけであった。

「さあ、始めましょう。……あなたの先攻です」

 こつ。乾いた音がひとつ。天秤からぶら下がる二枚の皿が、均衡を崩した。

 

 モノクロームが生み出す緊張を、今にも破裂させんとばかりに膨張せしめているのは、黄金の天秤、その皿が抱くもの。

「……普段も誰かとこうしてゲームを?」

「いいえ」

 こつ。

「では、これは初めてのゲームということだね」

「そうなりますね」

 こつ。

「ゲームが好きなんだ」

「好き、というほどでは」

 こつ。

「では何故このようなことを」

「単なる暇潰しに過ぎませんよ」

 こつ。

 彼が言葉を重ねるごとに 、乾いた音が響く。突如として空中から涌いて出た、手のひら大の黒い円盤形の石が、向かって左の天秤の皿に落とされているのだ。既に天秤は大きく傾き、今にも皿の底が地面に触れそうだった。右の皿は空っぽのままだ。

 彼の発言の後、黒い石は現れる。つまり、彼の言葉の中にこそ、法則を見つけるためのヒントが隠されているに違いない。

 だが、会話を振り返ってみても、彼が特段変わったことを口にしているとも思えなかった。

 彼の言葉にあって、私の言葉にないもの。それが一体何であるか、私はまだ掴みかねていた。

「…………か」

「え?」

「考え事ですか」

「いや」

 こつ。

「……石が」

「あ……?」

 彼の声が、微かに曇った。天秤を見上げる。右の皿の底が透けていた。その中に、ぽつり、ひとつ白い石。

 天秤の、一方的な不均衡に変化はない。しかし、私の鼻は、辺りに漂い始めたほのかな土の匂いを確かに感じ取っていた。それは規則正しく並ぶ床の正方形(或いは格子模様)、黄金によって限界まで高められた空気の緊張、そこに生じた僅かな歪みが引き起こしつつある、崩壊の芳香であると思われた。

 私の言葉によって石が落ち、彼の言葉ではそうならなかった。一気に状況が逆転したのだ。何をきっかけに?

 黄金の逆十字を、それが抱える白と黒の均衡を、私は凝視した。

(あなたの先攻です)

 思い起こされる、最初に落ちた石の音。――あの時、既にゲームは始まっていたのだ。

「さあ、ゲームは終わりだよ。答え合わせをしてくれないか」

 応じる声はない。天秤が微かに揺れている。悲しみにか、或いは歓喜にか。

 彼は、もはや全てを理解しているのだろうか。

「君は、……君は『嘘をついた』んだ」

 噛み締めるように、私は口にした。

 ぴし、と、天秤の表面がひび割れる。

 鎖を吊るしていた棒が、ずるりと抜け落ちた。皿、鎖、棒、それら天秤の一部だったものは、それぞれ地面に触れる直前、霧散。残された幾つかの黒い石と、ひとつの白い石が、天秤の根本に散らばった。

 崩壊は止まらない。黄金が剥がれ落ち、静かに山を成していく。そこから欠片を拾い上げる。暖かな土の匂いが鼻をくすぐった。

 黄金の衣の下から現れたのは、銀の体。ぎらりと光る、鋭利な切っ先。それは、ささやかな罪すら裁くつるぎだ。

「正解!」

 弾む声は、黄金以上の輝きを放っていた。

 私はゲームの勝者であり、彼もまた、勝者なのであった。

       
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