そしてまた君は呟く〈5〉

《白と黒の世界でペンは踊る》

 木製の軸に差し込まれた、先端ほど幅細く尖り、やや湾曲した金属板。その中心に小さく楕円の穴があけられており、そこから金属の先端部分を真半分に割るように、切れ目が走っている。それはペンだ。くるり、くるり。ペンが世界の中心で踊っている。

 

 この世界に色はない。ただただ白く、そして清らかだ。ペンは、そんな白を背景に舞う。軸を揺らし、純白の大地を、ふた分かれになったその先端部分で確かに捉えながら。

 それは孤独な舞踏だった。けれどそこに、陰鬱な寂寥感は伴われていない。金属製の細い踵によって刻まれるリズム。木肌の素朴なその体には、まるで飾り気などないが、足運びの軽さや、跳ねるように揺れる軸からは、楽しげで清爽な空気を感じられる。

 その足元で、一転、世界に反するような黒が、じわ、と滲み、白い世界をあっけなく汚した。するとペンは、つう、とその身を滑らせるように動き、黒の泉のほとりへと向かっていった。そして、その周辺をぐるりと一回りすると、自身の金属でできた部分を、その泉に浸す。再び白い大地に足をつけたペンの先は、中程まで、やや粘度のある黒い液体で覆われていた。

 白い世界で、黒を纏ったペンが走り出す。その軌跡が、線でもって描かれる。のびのびとした曲線が、途中、くるりと丸を作り、続いて長い直線を生み出されていった。

 ふと、ペンが飛んだ。軸が小刻みに動き、何もない空中に、幾つもの線をひいている。

 ペン先が宙を捉える。無の上に描かれていく有。弧状の線に、直線が組み合わさる。単なる線に過ぎなかったそれらが、やがて厚みを帯び、木の質感を現した。縦横に組み合わさった、木の土台。その上に張られた何枚もの板。それらは上から見れば真直な道のようであり、真横から見れば弧状に反った造りになっている。

 ペンは空中から、白い大地に降り立った。そうして、今度は木製の土台の足元に、緩やかな曲線を、並行に二本引く。その縁には、小さく歪な丸が敷き詰められる。二本の線の間には、幾つものうねる波線。先ほどまで単なる平行線にしか過ぎなかったものは、今では川となってそこに存在した。川を跨ぐように、弧状の木橋がある。

 そしてペンは、川のそばに、線ではあるが、線ではないものを描き始めた。

『ザァ』

 文字だ。文字の縁取りのみが描かれ、その内側には白地を残してある。その様からは、透明感すら感じられる。また、字を形作る各々の線の端ほど細く崩され、形も斜体がかっており、やや縦長で、流れるような印象があった。

 ペンがそれを描き終わると、文字と同じ音をたて、川が流れ始めた。ペンは川のほとりで、その流れを眺めるように静止した。暫くそうした後、またふらりと身を翻し、川のほとりに短い線を引いていく。それは背の低い草の群だ。草原のところどころに描かれている小さな丸は、花の蕾だろう。やがて綻ぶであろうその蕾は、一体どんな色の花弁を広げるのだろうか。白と黒のこの世界で、それを知るのは、唯一このペンだけである。

 

 ペンが走るその様子を、私はどことも言えぬ場所から、ただ眺めているだけだった。だが、いつの間にか、私は橋の中央に立っている。ペンの働きによって、ようやく私は、この世界に姿を持ったのかもしれない。

 私は両手のひらを、顔の前に掲げた。指の一本一本、手相や指紋までも描き込まれた精巧なデッサンたる私。勿論色はない。濃淡だけがある黒い線で描かれた存在。そうでなければ、この世界を眺める資格がないのだ。

 両手を降ろし、私は再びーー今度は私自身の確かなる視線でもってーー世界を視た。

 白と黒。細い線、太い線。掠れた線、滲んだ線。様々な線が交差し、幾重にも重ねられていく。ペンはひたすらに走る。脇目もふらず。ただ、理想の世界を創りだすために。

 草原の中に、ぽつり、ぽつりと家が見える。そのそばには、大きな木がそびえている。天を突き上げるほどの巨木だ。四方八方に枝を伸ばし、そこにつけた葉を『さやさや』と揺らしている。

 家々から、長い道が伸びていく。ぐるり、木の根元を迂回し、それは橋へと繋がろうとしているようだ。

 私は、道が伸びてくる方向へと歩いた。足元の木板を踏みしめると、その周辺に『コツコツ』と、角ばった、白抜きの文字が現れる。それに気付き足を止めると、その文字も消えた。私の頬は、自然と緩む。私は、文字の音を伴いながら、橋を下った。

 私が橋を下りきると、丁度橋のたもとで、ペンが私を待っていた。木製の軸。その先にはめられているのは、いまだ黒を纏ったままのペン先。

『素敵な世界ですね』

 私はペンに向かってそう言った。けれど、私の口から声は出なかった。ただ、私の顔のそばに、私の発した言葉が文字となって浮かんだ。描かれた文字ではなく、印字されたような、味気のないものだった。

 私のこの言葉が、ペンに伝わったかは判らない。けれどペンは、その体を、くるりと一回転させ、小さく跳ねた。その様子が、無性に可愛らしく、私の胸を打った。

 

 目の前で、ペンがふわりと宙に浮かぶ。高く舞い上がり、尖端を天に向けた。そして小刻みに軸を動かして線を描き、重ねていく。それを繰り返す内に、周囲が段々と薄暗くなってくる。

 白一色だったこの世界にも、ついに夜が訪れるのだ。静かな夜が。全てが眠る夜が。私も、この世界の夜に抱かれて眠ることができたら、どれほど素晴らしいことか。

 信仰にも似た闇への陶酔が、心の内に宿る。しかしその信仰に心身を捧げる直前、私は、足元に湧き出し、揺らぐものの存在に気が付いた。

 影。他ならぬ、私自身の影だ。長く伸びた道の上に、私を象った黒が浮かんでいる。

 ゆっくりと振り返る。背後には、黒い線で描かれた闇。その中心に、大きな丸い月が、白く柔らかい光を放ちながら、輝いている。

 白と黒、その完全なる調和。鮮やかな色彩などなくとも、この世界は、充分過ぎるほどに美しかった。

       
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