そしてまた君は呟く〈4〉

《彼だけに見える愛しき景色》

 くすくすと、膝をくすぐられるような感触。足元に視線を落とす。長く細い草の群が、私をからかうように、膝頭に触れては離れる。肌を撫でるのは、涼やかな風。私の鼻先を、頬を、唇を、するりと掠めては去っていく。胸の内には残るのは、心地よさばかりだ。

 草原を形作る柔らかな色の広がり。頭上には雲ひとつない澄んだ空。地平線の端で、浅緑は淡い青と密接に触れ合っているが、けれどそのふたつは、決して交わることはない。

 かつ、と乾いた音がした。風が奏でたでも、草が囁いたでもないその音は、どうやら私の背後で鳴ったようだ。

 ゆっくりと振り返る。そこにも、並行する草原と空が続く。空の中心には鎮座するのは目映い金。だが、在るのはそればかりではない。

 風にそよぐ草原の中で、不思議と風を寄せ付けていない一角があった。その部分が、太陽の光を受け、ちらちらと揺らめく輝きを放っている。どうやら、そこには透明な硝子箱のようなものが置かれているらしかった。それに護られた草原の一部は、まるで時間が止まったかのようである。

 硝子箱のそばには、イーゼルが置かれていた。載せられているのは、広げられたスケッチブック。その白い部分に、黒い線が走る。木炭で描かれたものだ。しかし、肝心のそれを握る誰かの手は、私には視えない。ただ、本来なら手首があるであろうその部分には、飾りの金釦が縫いつけられた黒い袖と、その内側から眩しいほど白いシャツの袖が覗いていた。何も袖だけがあるわけではない。学生服の上下が、まるでそこに人が座っているかのような形で存在しているのだ。学生服と同色の制帽がその上の、頭のあたりに浮かんでいるが、しかしやはり制帽の下に頭は視えない。視えこそしないが、学生服を身に着けているくらいだから、姿なきこの存在は、きっと少年なのだろう。木製の背もたれのない椅子に掛け、透明な少年は、スケッチブックの上にしきりに木炭を走らせていた。

 私は、彼のそばに寄ろうとした。足を一歩踏み出すと、草の群が、ざあ、と一斉に左右に避け、少年の元まで一筋の道ができた。先程まで私にすり寄るようなそぶりをみせていたのに、しかしそれでも踏まれるのだけは嫌だと思ったのか。勝手な想像をして、私は思わず苦笑した。そして、よそよそしい態度の草の間を通り、少年のそばへと向かう。

 少年の元まであと少し、というところで、額が何かに衝突した。じん、と痺れるように痛む額を手のひらでさすりながら、私は周囲を確認する。けれど、同じ丈の草が生えているばかりで、例えば木のような、私が衝突するような高さのものは何もない。首を捻りながらも、前へ進む。しかし、一歩踏み出そうとしても、足が視えない何かにぶつかって、叶わない。どうやら、目の前には、透明な壁があるらしい。視えない壁に、おそるおそる手のひらを当てると、背筋がびりびりと震えるほどに冷たかった。

 私の接近などお構いなしに、或いは、私の存在にまだ気付いていないのか、少年は視えない指先で摘んだ木炭で、スケッチブックに線を引いていた。制帽がうつむき加減に傾いている。

 複数の丸が幾重にもなり、白い画面があっという間に埋まってしまった。すると彼は、スケッチブックからその絵を剥ぎ取り、足元にひらりと落とした。そうしてから顔を上げ、次いで、彼の正面にある硝子箱の中へと視線を移す。手にした木炭を、まっすぐ立て、腕を前へと伸ばし、その先には、硝子箱をしっかりと捉えている。

 彼は、いくつも続けてスケッチをした。硝子箱の中を凝視しては、スケッチブックの上で木炭を踊らせる。それは荒々しく、素早いステップ。かつかつかつ。音を立てて刻まれていく、舞踏の虚像。或いはその残滓。

 硝子箱の中には、ただ草が在るのみだ。だから彼は、硝子箱によって切り取られた草原を描いているはずだった。少なくとも、私はそう思っていた。けれど、彼の足元に散らばる紙の上をよく見れば、ひとつとして同じ絵は描かれていなかった。丸の連続、折り重なった直線と曲線、木炭でただ塗り潰したように見えるもの――

「俺の絵を観にきたの」

 不意に声をかけられ、どきりとする。低く、けれど澄んだ声。少年のものだ、と直観する。私に尋ねたその少年は、変わらず透明な手を動かし、木炭で線を描いている。

「いえ、その……失礼ですが、何を描かれているのですか」

「――何、って?」

 反対に問うた私の声に、彼はぴたりと動きを止めた。そして、首だけでこちらに振り向き(顔は見えないが、制帽のつばがこちらを向いたので、恐らく私を見ているのだろう)、呆れたような苦笑いをこぼした。

「視えるだろ? この箱の中に在るもの」

 彼は言って、摘んだ木炭で硝子箱を指し示した。けれど、やはりそこに在るのは、世界から切り取られた風のない草原だけ。

 私は、何と返事をしてよいか分からず、半歩後ずさり、たじろいだ。私には、彼が描いているものが、どうしても視えなかった。どうにか、紙の上に表現されたものと似通ったものを硝子箱の中に見出そうと目を凝らすが、やはり見付からない。

 私がじっと黙っていると、

「俺の絵を観ても解からない?」

 イーゼルごと傾けて、描きかけのスケッチを私に向けた。

 それは足元に散らばるその他の絵と同様で、抽象的な絵だった。現在描いているものは、楕円と四角が組み合わさっているように、私には視える。これまで描いていた絵とは、まったく別物のようだ。

 丸、角、線、その複合体。タッチの荒々しさ。木炭を走らせる、その速度。私の脳裏に、確信にも似た疑問が浮かぶ。――彼は『硝子箱の中に在る何か』を、本当に『視て』いるのだろうか?

「……この箱の中には、本当は何もないのではありませんか」

 私は、視えもしない彼の目を見て言った。

 絵を構成しているそれぞれのパーツには、あまりにも共通性が少ない。同じものを視ているのであれば、どこかにその片鱗が現れるはずだ。けれど彼の絵に、それはない。線を描く速度も、何かをスケッチしているにしては、異様に速いように、私には思えた。彼が視ているのは、箱の中に在る視えない何かではなく、彼自身が硝子箱の中に映した幻影なのではないか。

 私の言葉に、彼は何も返さなかった。ただ、手にしていた木炭を、まっすぐ、そして高く放り投げた。空の青を背景に、細い黒が宙を舞う。そして、自然落下。受け止められることなく、木炭は草の中へと消えた。

 彼は静かに、椅子から立ち上がる。身に着けている学生服の袖や胸元に縫いつけられた金釦が、ぎらり、ぎらり、やけに輝いて見えた。ゆっくりと私のそばまで、彼がゆらゆらと歩み寄る。私は、透明な壁越しに、透明な少年と対峙した。私には視えない口元を、彼が微かに歪めた気配がした。

「はずれ」

 彼の肩がすくめられると同時に、ぐずずず、と低く唸るような地鳴りがした。刹那、足元に、ど、と、重鈍な振動を感じる。途端、土が舞い、草が散る。むせ返るほどの大地と緑の匂いが、私の嗅覚を鋭く刺激する。一瞬の間に、私と彼の間には、図太い鉄柵が生えていた。柵は、草原を四角く区切って、彼と硝子箱をその中に閉じ込めている。

 私は予期せぬ衝撃によろめき、その場に尻餅をついていた。地面についた手のひらに、指先に、再び、私をからかうような草の感触。

 本当に彼は、透明な何かを観ていたというのだろうか? あの狭い硝子箱の中に、無限に湧き出す様々な形を視ていたとでも? それとも私の答えは実は正解だったのではないか――しかしどちらにしろ、もはや真実は判らない。

「――俺の絵をよく観れば解かるのに」

 私を見下ろしながら、鉄柵越しに、彼は呟く。

 こぼされた言葉は、さらり、さらり、私の、そして彼の頬を撫でる、哀しいほど優しい風に、そっと拐われた。

       
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