そしてまた君は呟く〈3〉

 

《淫らな妖精は甘い蜜を纏う》

 もし一面に広がるこの色が、一般的に云われる『肌色』だとすれば、私たちの肌とはなんと淫猥な色をしているのだろうか。

 両足が踝まで、ふぬり、と埋まる。柔らかく、そして生温かく、その表面はややしっとりと湿っていて、ゼリー状のぬるま湯に包まれているかのような気分にさせられる。

 体が傾く。足元が不安定で、まっすぐ立っていることができない。両手でバランスを取りながら、私は辛うじて倒れることを免れている。

 私は体に、何も身につけていなかった。一糸纏わぬ姿でいるというのに、不思議と羞恥心は湧かない。地面も、天も、私の体と同じ肌色を晒しているからかもしれない。この世界は、自身を余すことなく、私に見せつけていた。

 私は、肌色のドームの中心に立っていた。ドームの内壁には、クレヨンを用いたような、加えて拙いタッチで、いくつもの大きな赤い花が描かれている。一見、子供が描いたようにも思えるが、その偽物の花々からは、どこか毒々しい印象が漂っていた。

 その花には、どれも細い正中線がある。左右対称ではない絵の花の、しかし確かにその中心を通るその線は、よくよく目を凝らせば、ただの線ではなく、切れ込みであることが判る。

 絵であるはずの花が一輪、揺れた。否、蠕いたという方が正しいか。さらに正確に表現すれば、花ではなく、花が描かれている肌色の壁が。

 ずぬ、ずぬぬ。

 濡れそぼった狭い場所を何かがかき分ける音がした。さらに、粘度の高い液体の中で気泡が弾ける音が、そこに混じる。それらの音のまとまりが、私の耳を打つ。本能的な期待が、自然と胸の内に宿る。期待は私の胸を内側から、狂おしいほどに圧迫した。

 周辺がややぷっくりと盛り上がったかと思うと、切れ込みがぱっくりと口を開く。縦向きの唇のように広がった、その左唇と右唇の間で、粘液が糸を引いている。細く伸びたそれがぷつりと切れると同時に、その奥、肌の下にある、赤のようでピンク、そこに白が混じり、そしてやや黄を帯びて見える、そんな複雑な色をした、肉としか呼べないその場所から、この世界を支配する色彩以上に淫靡な肌色が這い出してきた。

 まずは肉と肉を割るように現れた指先、それに続いて手、腕、そして頭と同時に両肩が。それらは、ほんのりと赤らみ上気している。さらに、肉から分泌される粘液で、ぬめぬめとした、その形状にあるまじき異様な光沢を帯びていた。項垂れた頭部からは、長い黒髪が地面に向かって伸びているが、それもまたぬめり気を纏っており、ひとかたまりの束になっていた。

 ゆっくりとした動きながら、両肩が出れば後は早かった。すらりとした足が、肉を跨ぐような仕草で、そこから抜き出される。両脚の鼠径部、その中心には頭髪と同じ黒の下生え。上気した肌色の大地をさらに印象付けるささやかなその草原は、熱に溺れたような目眩を誘う。

 臍が、くびれた腰が、そして豊かな質量を持つふたつの乳房が、肉の中から現れる。そして空中で膝をぐっと抱え込むように体を縮ませたかと思うと、手足を伸ばし、背を逸し、項垂れていた頭を振り起こした。束になった髪を包んでいた粘液が、一瞬で幾つもの粒となって周囲に飛散する。そのいくつかは、私の頬に、腹に、太股に付着。そして肌の上で、発熱し、すぐに消滅した。

 肉の中から現れた女の全身が露になる。私は改めてその裸体に対峙し、そして息を飲んだ。背には、大きな羽があった。蝶のような羽だ。黒い複雑な紋様が描かれ、その隙間を埋めるのは物憂げな濃い青。彼女は私を視界に捉え、頬を緩めた。淫靡な姿に似合わぬ、少女のような微笑だった。

 蝶は肌色の世界を飛ぶ。花から花へと、優美に。しかし時折、私の表情を伺いながら、両脚をすり合わせたり、下生えの奥に指を忍ばせるふりをしてみせる。その様は、さすがに優美とは言い難く、清澄なる存在である妖精じみた彼女は、この時ばかりは、ひとりの淫らな女と化すのである。

「きみも一緒に遊ぼうよ」

 壁面に描かれたひとつの花の、その中心に右足を差し入れたまま、彼女は言って、私を手招いた。

「い、いや、私は――」

 突然の誘いを、完全に拒絶しきれない。彼女のぬめった体の、突出した、或いは引き締まった、性を主張するその部分部分が、私の判断を鈍らせている。

「気持ちいいよ」

 彼女は目を細めた。そして、花の中に入れた片足を、踝が露になるほど抜き出したかと思うと、今度は膝頭まで肉の中へと埋める。

「ここは狭くて温かいんだ。とっても落ち着くよ」

 うっとりと蕩けたその目が宙を見た。彼女は舌でもって自身の唇を愛撫し、全身を小刻みに震わせた。すると、彼女の頭頂部から、じわ、と透明な液が溢れてくる。きらきらと輝き、ぬっとりとねばつくそれは蜜だ。

 溢れ出した蜜は、あっという間に彼女の体を包み込む。彼女はその厚い蜜の層の下で、目を開けた。細い喉が上下するのが、判る。蜜の内側から、蜜を飲み下しているのだ。横目で私に送られた視線は、彼女が啜る蜜のように、ねっとりと私の心にまとわりつく。

「その蜜は、甘いのですか」

 すっかり蜜を飲み干した彼女に、私は戦慄く唇で尋ねた。

 彼女が花の中から足を抜く。ぷちゅ。肉の扉が閉じる音。

「甘いよ。うーんと、甘いよ」

 ころころと笑う彼女は、大きな羽を羽ばたかせて飛ぶ。また別の花へ。私は、これ以上彼女にかける言葉が見付からなかった。むしろ、これ以上声をかけるべきではないと思った。ただ、無性に体が気怠く、熱を帯び、下半身がじわりと痺れていた。

 「なんだか、あついなあ」

 空中を飛んでいた彼女は、唐突にそう漏らした。そうして、私のすぐそばにある、地面に描かれた花の中心に降り立った。

 私に尻を向ける格好で、彼女はその場に四つんばいになる。広げられた両脚の間、秘められたその部分が、惜しげもなく、私の目下に晒された。私の両足が、足元の肌色に、ずぐり、ずぐり、沈んでいく。私は、体を捩ることもせず、ただ目の前にある彼女の体をあますことなく視た。

 彼女は、ぴたりと静止した。ややあって、彼女の背、両の羽の間に、ぴきぴきとひびが入る。それは徐々に広がり、彼女の頭へ、秘部へ、正中線上をまっすぐに走る。

 彼女の体は、ひびの部分から、ぱっくりと半分に割れた。けれど割れたのは、表面だけだ。その中から縮こまり濡れそぼった新たな羽が顔を出した。黒い紋様を際立たせるのは、突き抜けた鮮やかさの赤だ。  くしゃくしゃの羽は次第にぴんと広がっていき、やがて本来の形を取り戻した。同時に、殻を脱ぎ去るように、彼女は再誕を迎えた。

 しかし、そこから現れたのは、かつての彼女と同一のものではなかった。体を描くその線は細く、上気した肌の色こそ、彼女と同じだったが、そこにあるはずの性的な曲線は、その背後から確認できない。

 四つんばいの『彼女だったもの』は、ゆっくりと上体を逸した。『彼女の残骸』が、まだその背に張りついている。『彼女だったもの』が体を震わせれば、それはあっさりと剥がれ落ち、ばらばらに壊れ、肌色の地面に散った。

 湿った肌、長い黒髪、そしてくびれのない腰。全身を、媚びるようにくねらすその仕草。『彼女だったもの』は、しかし彼女と似通った淫らさを持ち合わせているようだった。

 私は、気付かぬうちに口をだらしなく開け、まるで犬のように、舌を突き出し、荒い呼吸を繰り返していた。私は『彼女だったもの』に手を伸ばそうとした。けれどできなかった。手は、いや、手どころか、私は腰の辺りまで、すっかり肉の地面に埋もれてしまっていたのだ。

『彼女だったもの』は、その地面に腰を降ろすと、緩やかな動きで上半身を捩った。晒されたその胸部に、豊かなふたつのふくらみはもうない。それをはっきりと確認すると、私の胸は、彼女の裸体を目にした時と同様か、或いはそれ以上の圧迫感にみまわれた。

(『彼』もまた、花の奥へと潜るのだろうか)

 私は、蜜にまみれた凹凸のないその体が、花の隙間、肌色の下、赤とピンクと白とほのかに黄が混じる、肉としか呼べないその場所に、何度も差し入れられ、そして抜き出されるのを想像する。

 私のそんな淫猥な妄想が、彼にも伝わったのだろうか。彼は、目を細め、上目で私を見、口端を僅かに吊り上げ、彼女よりもずっと妖艶な笑みを、私に向けてみせた。

       
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