そしてまた君は呟く〈0―2〉

《電脳の空と海に沈む》

 眼前に広がる鮮やかで透んだ青。その中へ飛び込み、奥へ、奥へと進んでいく。肌に感じるのは流れる水の冷たさ。私は水の中を飛んだ。手を動かさずとも、足をばたつかせずとも『奥へ行きたい』と望みさえすれば、私の体は自然に、青の奥を目指す。落ちるようでいて、昇っていくようでもある。上も下も、右も左もない。ただ肌を包む冷たさが心地よかった。

 その青の先には、また新たな青がある。同じようでいて、違う青。それに向かって手を伸ばせば、温かさを指先に感じることができた。その温度を逃さぬように、ぐっと手を握り締める。そして、大きく口を開いた。歯を剥き出しにし、舌を伸ばした。手のひらの中に閉じ込められた温もりを、私は飲み込みたかった。

 けれど舌先にのせる瞬間、それは、ぱし、と弾け飛ぶ。次の瞬間、泡と化し、私を包む冷たい水の中へと溶けた。

 開けた口から、体内へと、水が流れ込んで行く。粘膜に触れた水は、ちりちりと、火で炙るような痛みを私にもたらした。口腔内を、食道を、胃を、気管を、水が灼く。そして肺が痛みで満たされた時、私は今、海の中にいるのだと気付いた。

『メニューを選択してください』

 合成音声が耳朶を打つ。私は背筋をふるりと震わせると同時に、はっと我に返った。辺りを見回すが、そこには眩いばかりの、スカイブルーがあるだけだった。

 ひとつ、溜息を吐く。どうやら、少しの間眠っていたようだ。ビジュアライザの使用は、かなりの疲労を伴うらしい。

 いや、むしろ使用するという行為よりも、映し出された映像自体が、実感として私に酷いストレスを与えていた。

(こんなことが、あり得るのか?)

 軽く首を捻る。

 過去にも私は、ビジュアライザを使用したことがある。その際出力されたのは、定点カメラ越しに世界を眺めたような、極めて客観的な映像だった。また、音声は出力されず、勿論人の声などもってのほかだ。

 けれど、今回はどうだ。

 私は映し出された世界の中に立っていた。そこには光があり、闇があり、風が吹き、雨が降り、また、それらに付随する音が、確かに存在した。しかも、温度や感触までが、この私の皮膚に、いまだ焼き付いている。

 これは『アプリに発生したバグだ』と、簡単に片付けてしまえるようなことではない。明らかな異常だった。

 ――アプリの使用をやめるべきなのだろうか。

 ふと、そんな考えが頭を過った。過去に、ビジュアライザのような思考感知型のアプリに不具合が発生し、使用者が死亡するという例があったからだ。しかし、ビジュアライザだけに関していえば、医療機関での利用実績が物語っているように、不具合や、それに伴う死傷者などは発表されていない。勿論、実際には存在する不具合に伴う事故が、隠蔽されているといった可能性もあるが――

『バグではありません』

 画面の中央に、ゆらりと黒い影が現れた。ナビゲーターだ。私の思考を読み取ったかのように、彼は抑揚のない音声でそう言った。

(では、この現象はなんだというんだ)

 叫びたくなる衝動を、ぐっと胸の内で抑える。

 私は確かに視たのだ。

 暗闇の中の玻璃の少女を。透けたその体の中、骨の牢獄に守られた白い百合を。小さな家の傍らにある草むらの中で咲く野苺の花を。その赤い実。そして、弾け連なる音の冠までもを。紛れもなく、この目で。

(けれど、そのどれもに、私は触れることはできなかった)

 幻想の中に在りながら、自由な体、そして感覚すらも持ち合わせていたというのに、それら幻想世界の中心を、私はただ、視ていることしかできなかったのだ。

 ぞろり。頭蓋の下、右脳と左脳の間をかき分けられ、何者かがそこに舌を這わせるような不快感。反射的に背筋が震える。

『バグではありません』

 私の様子などそしらぬ顔で、彼は繰り返す。

 私はひとつ、唾を飲み下す。けれどそれも形だけ。喉が鳴りはしたが、私の口腔内は、酷く乾いていた。

 この異常を見過ごした先に、何があるかは、まだ判らない。けれど『バグではない』と言い張る彼を叱りつけて、機嫌を損ねるべきではない。少なくとも、今は。

 何故なら、既に映像化した二人のユーザー以外に、新たに三人、私にリプライを送ってきたユーザーがいるからだ。

『おねがいできますか』

 私へ送られてきた、三件のツイート。それらを構成する一文字一文字を思い起こせば、私の口元は自然と緩む。

 私はナビゲーターに指示し、リプライを送ってきたユーザーの内、ひとりのツイート一覧を画面に表示した。

 上から下へ。新から旧へ。たったひとり分とはいえ、タイムラインの全貌はやはり滝を彷彿とさせる。だがその動きは今、極めて緩慢だ。凍りかけた滝のようなものかもしれない。熱を帯びれば、たちまちその氷は溶けてしまうのだから。

 画面上の氷瀑に一通り目を通し、私は呟く。

「起動、ビジュアライザ」

 視界に広がっていたスカイブルーは、たちまち無機質な闇に沈む。

       
« »

サイトトップ > 小説 > 幻想 > そしてまた君は呟く > そしてまた君は呟く〈0―2〉