そしてまた君は呟く〈2〉

《可憐な白い花の愛する箱庭》

 鈍色の空から大粒の雨が無数に落ちていた。それらひとつひとつが、大地に触れ、また草木に触れ、そこから慎ましやかで優しげな生命の香りを引き出し、辺りに充満させている。

 ここには赤い屋根の小さな家と、僅かばかりの林があるだけだった。その家の軒下に、私は立っている。暖かく湿った空気が、肌を撫でる。右手には大きな青い傘。何も履いていない足に、濡れた土がべっとりと付着していた。

 ――りぃん、りぃん――

 雨を打ち消すように、力強くそれは鳴る。音の出どころは、ほっそりとした林の木々の根本に広がる草花の群れの中のようだった。

 私は鈴の音に誘われるように、ふらりと足を踏み出した。ぬるぬるとした粘度のある土の感触は、私に対する拒絶のようであり、同時に誘惑のようでもある。

 私の首筋に雨粒がひとつ落ちた。

「こんにちは。生憎の雨ね」

 それは涼やかで、しかし飾り気のない声だった。その響きは、先ほど私を誘った鈴の音に、どことなく通ずるものがある。

 声を追って、視線を下げる。そうして捉えた足元の草の中に、白い花が一輪咲いていた。その花は、薄く小さな花弁を五つほどつけ、中心には、放射状に広がった雄しべと、まっすぐ伸びた雌しべがひしめき合っている。野苺だ。まだ白い花が残っているというのに、しかしその根元には、真っ赤に熟れた小さな球をいくつもぎゅっと丸めたような形状の果実がなっていた。

「こんにちは」

 私は花の前にしゃがみ込んで、『彼女』に挨拶を返した。風もないのに花が揺れる。葉と葉が擦れ合い、しゃらり、しゃらり、と爽やかな音が、私の耳をくすぐった。

「ここでは、綺麗な花びらが雨に濡れてしまうし、土で汚れてしまいますね」

 私は続けてそう口に出していた。

「そうね……」

 彼女は少し困ったように言う。花が僅かに俯いた。

「でも、仕方ないわ。私はここから動くことができないのだもの」

「――すみません、出過ぎたことを」

 苦笑を帯びた彼女の言葉に、後悔の念が過る。私が謝罪をすると、一際大きな雨粒が、私の頬を打った。じわりと痛みが滲み、そしてまたじわりと引いていく。私はゆっくりと天を仰いだ。額に、唇に、鼻頭に、雨が打ちつけた。

 視線を花へと戻す。大粒の雨は花を痛めつけることはなく、ひたすらに優しく、その体を濡らしていた。雨が馴染んだその葉、その花弁、その果実は、瑞々しさを際立たせている。

 花の周辺の地面に落ちた水滴は、土を跳ねさせることがない。その場に小さな湖ができていて、波紋も描かずに雨粒はそこに落ち、そして湖の一部となっていく。

「気にかけてくれただけで、充分よ」

「……そう、ですか」

 私は彼女に向かって微笑した。少しぎこちないものになってしまったかもしれない。私が右手に握った青い傘は、誰のために雨を遮るのだろう。雨の降り届くはずもない胸の内が痛む。

「私はね、ここが好きなの。望んでこの場所にいるのよ」

 鈴の音が聞こえた。弾むような、そのリズム。雨が私の肌を叩く。風が吹いた。林の中では木々のざわめき。それはまるで波のように私に押し寄せる。

 ――りぃん。たん。りぃん。とん。りぃん。ざぁぁん、ざぁあん――

 赤い実。熟れたこのひとつの果実。

『望んでこの場所にいるのよ』

 これが、この存在こそが、彼女にそう言わしめているのではないか。

「ここに、雪は降らないのですか」

 私は思わず彼女に尋ねていた。

「雪は嫌」

 私の問いには直接答えず、彼女はきっぱりとした口調で言った。

 野苺の白い花弁の端が、大地に引かれるように、僅かに垂れる。その中心で、雌しべと雄しべが、ゆらゆらと芯を触れ合わせた。

 互いに手を取り合い、雨と風の睦言を背景にしての舞踏。ぷっくりと丸く柔らかな水滴のドレス。緩やかな曲線を描いた花弁の導きによって剥ぎ取られるそれは、小さな湖へ沈んでいく。そのうちにまた新たな装いが、天からもたらされるだろう。

 それは透明で丸みを帯びた、或いは、白く冷たく羽のように軽い――。

「雪は、嫌よ」

 私の目の前に透明な球が浮かんでいた。それはあまりに巨大な雨粒。ふよふよと、微細に揺れている。

 私はそれに、そっと指を伸ばした。しかし、触れる前に、ぱぁん、と弾ける。

弾けた雨粒のかけらは、一瞬、真っ白な雪の姿を現したが、すぐに暖かな風に吹かれて消えてしまった。

「でも、雪の季節が終われば、春が来るわ」

 彼女の声と共に、鈴が鳴る。凛とした音が広がった。力強いその響きは、赤い屋根の家と、草の群れと、林だけのこの世界の端、そして恐らくその端をも越えていく。その余韻が、彼女の周囲にだけ残り、小さな湖の水面を、白い花弁の上で舞踏に勤しむふたりを、青々とした葉を、塾した赤い実を、細やかに震わせた。

 私はその場にゆっくりと立ち上がった。傘の柄を握る手だけが、氷のように冷えていた。静かに、彼女に背を向ける。

「お願いがあるのだけど」

 裸足で一歩、土の上に踏み出した私の背中に声がかかる。歩みを止め、しかし黙って、私は次の言葉を待った。

「家の窓を、開けてくれる? 私の大切なものが、そこに入っているのよ」

 赤い屋根に、私は目を向けた。屋根は雨を受け、集め、大地へと流している。その下に、ふたつの木枠。そこには硝子が嵌まっている。擦り硝子なのか、中を窺うことはできない。

「それと――青い傘」

 家に向かって再び歩きだそうとした私を、彼女の一言が留めた。無意識に右手に力が込められていた。

「ありがとう。家の窓枠に、かけておいて」

 汚したくないから。そう口にした彼女が、微笑を浮かべた気配を、背中に感じた。

 濡れた土を踏む。

 土が跳ねる。

 私の足を汚す。

 それを雨が洗い流していく。

 窓に手をかけた。ゆっくりと横に引く。

 僅かに開いたその隙間から溢れ出したのは音楽だ。色で言うなれば、それは熟れた果実と同じ赤。そして野苺の花の白が混じる。そこに鈴の音が、水滴のように落ち、波紋となって広がり、裾が王冠のような形に跳ねる。

 風がそよと吹いた。乾いた風だ。いつの間にか雨が止んでいる。太陽が射し、家の壁に、私の黒い影が映った。背後では、きっと白い花が穏やかに揺れている。

 私は彼女に言われた通り、窓枠に青い傘の柄をかけた。

 右手は既に、温もりを取り戻している。

       
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