そしてまた君は呟く〈1〉

《玻璃の樹木たる少女は微笑む》

 闇の中心に、重厚な木製扉が据え付けられていた。闇と扉とを繋いでいるのは、扉の左端にあるふたつの蝶番だ。そしてそれは、銀色をした細身の針で留められていた。針の後端には、針の細さに不釣り合いなほど大きな球体の装飾。その球体は透明であるが、不思議と虹色に輝いていた。

 ぎぎ、と扉が軋む。否、軋んだのは、むしろ闇の方だったかもしれない。悲痛な叫びをあげながら、緩やかな動きで扉が外側に(或いは内側に)開いていく。完全に開ききった扉から、視えない闇のアーチをくぐり抜け、その内部へ(外部へ)と進んだ。

 そこには、ただひたすらに闇が広がっていた。周囲を見回す。はたして周囲というものが、ここにあるのかは分からなかったが。

「まぁるい、まんまる」

 ふと、声が聞こえた。ふんわりと柔らかく、羽のように軽い声だ。それは、少女のもののようだった。

 声の主を求めて、再び周囲を視線で探る。

「きみは、まあるいの、好き?」

 闇の中心に、突然光が射した。ぽっかりと、完全なる円形に照らされたそこにあるのは、木の床。そしてその中央で、少女はこちらに背を向けていた。

 少女の長い髪は闇に融ける黒。しかしそのしっとりと濡れた艶やかさをもって、闇とは明らかに一線を画していた。透明感のある肌は、惜しげもなく晒され、背にはりついた長い黒髪の直線が、体を形作る曲線をより際立たせている。

 その下に浮き出している一対の肩胛骨は、まるで未成熟の翼だ。両翼の間の薄い皮膚を、点々と押し上げる脊椎。その上部から左右に伸び、弯曲している骨の牢獄。その内側に、一輪の百合が俯きがちに咲いているのが、肌を通してうっすらと透けて見える。彼女の体は、玻璃でできているのかもしれない。

 するんと両膝を折り、膝から下は体の外側に逃す。そんな崩した格好で、彼女は木の床の上に座っていた。

「答えてくれないの? ……いじわるだね」

 冗談めかして言い、彼女は笑う。くすくすくす。白い百合が体を震わせる音。

 ここには、ただ闇と、彼女だけがあった。彼女の頭上から光が降り注いではいるが、そちらを見やっても、ただただ暗澹たる世界が広がるばかりだ。

 彼女は、上体をゆっくりと左右に揺らしている。背にはりついた髪の束が離れ、そしてまた元の場所に吸い寄せられる。

 そこに『手』を伸ばしたい。不意に『私』はそんな衝動に駆られた。

「ねえ、いじわるなきみ」

 彼女が『私』を呼んだ。そう、間違いなく、彼女が呼んだのは『私』であったのだ。私は、彼女の背後にぽつりと立っていた。

「きみは、これをどう思う?」

「『これ』……?」

 私は首を傾げる。彼女が示すものがわからなかった。何せこの闇の中に在るのは、彼女と私だけだったから。

「そう、『これ』だよ」

 彼女が、右腕を伸ばし、指先で木の床を指し示した。細い腕の向こうに、闇が透けている。彼女の姿は、まるで玻璃の樹木だ。私は思わず息を飲んだ。

 指の先には、光と闇の境界。それはぐるりと、彼女を囲っている。

「円」

 私は一言口に出した。

「うん。円」

 言って彼女は腕を下ろす。枝を裁たれた樹木は、途端に美しき彫像の印象を表した。その内に抱かれた白い百合の花が、ゆっくりと頭をもたげだす。

「歪みのない、綺麗な円だと」

「……きみも、そう思うんだ」

 私の言葉に、彼女の声に鈍色が混じる。軽やかさも柔らかさもなく、曇り空のように、ただ重く低い。

「みんな、そう言うの。綺麗な円だ、完璧な円だ――ってね」

 彼女の中に咲いた百合が、天を仰いでいる。その中心から、虹色にきらめく水滴が、ひとしずく、落ちた。それは床に触れ、ぱん、と弾ける。そして七色のかけらとなって飛散し、静かに闇に融けていく。
その刹那的な美が、視界を通して、私の胸を深く刺した。

「それが、不服?」

 ずくずくと、胸が痛んでいる。けれど、努めて穏やかな口調で、私は尋ねた。

 彼女は首を左右に小さく振った。濡れた長い髪が僅かに揺れる。その毛先から、先ほど百合がこぼした雫に似たものが、きらりきらりと輝きながら散る。それに合わせるように、花弁も揺れた。

「中には、円が視えない人もいるから。円どころか、私もね。だから、視えるだけ、ましなのかも」

 そう言葉を連ねる彼女の声は、いまだ重い。私は、彼女が羽ばたく音を再び聞きたかった。からかうように耳元を撫でていく、柔らかくて軽い、羽に似たその声を。

「……あなたが望む円の形が、もっと別にある?」

 私の問いに、彼女を取り巻く時間が、ぴた、と止まった気配がした。透けた彼女の体が、人らしい肌の色を、じわりと取り戻していく。未成熟な両翼が、骨の牢獄が、その姿を徐々に隠さんとするその瞬間、私は、牢獄に護られた白い百合が、その花弁をたたみ、螺旋状に捻り、そしてつぼみへと還っていくのを、確かに視た。

 白い肌に、血が通う。彼女が大きく頷くと、いつのまにか乾いていた長い髪が、さらさらと音をたてて揺れた。そして座ったまま、彼女は、ゆっくりと首だけを捻る。杏型の大きな目が、私を捉えて細められた。小さな薄桃色の唇が、微笑を湛える。

「そう。だって円はゆがん――が、――で、すてき――の」

 彼女は、軽やかで柔らかな声を一層弾ませて、言った。言葉の合間に、布を裂く音に似た、酷いノイズが混じる。そのせいで、私は彼女の言葉をうまく聞き取ることができなかった。

 唐突に、ぐ、と体を後ろに引かれる感覚があった。

 彼女の姿が、一気に遠ざかる。
私は思わず、彼女に向かって手を伸ばしていた。

 けれどその手は届かない。

 彼女との距離がどんどん遠くなる。

 開いた扉が視界に入った。

 それが、ぎいと軋む。

 扉が閉じていく。

 闇の外と内が、完全に遮断される間際、少女は私に向けて、小さく手を振っていた。

       
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