静謐遠く
黒霧漂う地平線。そこから広がる空は、群青、茜色を挟み、突き抜ける青、そして目映い金色を同時に湛えている。
大地を覆う温かな土の上に走る濃緑。それは溜まった雨水が腐り果てた末に生じた色だ。双方の色が混じり合い、凝縮され、ぐにゃりと大地を歪ませ、小さな隆起や陥没が起こる。そこからやがて草木が芽生え、広大な草原と森林が生み出された。
草原を二分する川の流れは、光を反射し金銀に輝いている。煌めきは水中でひとかたまりになり、やがて魚となって優雅に泳ぎ出す。
川の畔には柔らかな黄色や紅色、涼やかな青色の花々が綻ぶ。みな、空からぽつりぽつりと滲み落ちた色である。
◆ ◆ ◇
大地を踏みしめる無数の足音、擦れ合う金属の響き、さざめきあう草花。そこに水の流れがささやかに加わって、すべての音をひとつにまとめあげ、大草原を満たしていく。
音の主のひとつは、争うためだけに生まれてきたヒトの兵士だ。川を挟んで二隊、それぞれ何十列にも連なり、波状陣形を成している。
双方の兵士たちは、一糸乱れぬ動作で腰に携えた剣を抜き、構えた。そして一斉に雄叫びをあげる。
空気震わす幾重の咆哮に色はない。かわりに、兵士が身に纏った鎧や剣、或いは瞳や髪、皮膚といった部分のあらゆる色が、自らの領域をさらに広めんと欲して、興奮に揺らいでいた。
色彩の兵士が駆け、大地が唸った。川辺に咲く可憐な花々は、冷たい踵によって蹂躙されていく。
潰された小さな花弁や葉茎から、とろりと色が抜け落ちた。花はすぐに形を崩し、それを構成していた色は、大地に、或いは兵士の踵へと乗り移っていく。
草原のあちらこちらで、刃と刃が交わる。キィン、と高く鳴り、火花が散る。その金色は宙を舞い、やがて群青の空に上り詰めていき、星となった。
鋭い切っ先が兵士の腕を切り裂く。傷口から噴き出すのは極めて濃い赤。生命の色だ。
上空を、双頭の赤い烏が一羽きりで飛んでいる。滴る血液の色は、弧を描くようにして、みなこの烏へと引き寄せられていく。一筋は羽ばたく翼に。一筋は尖った爪に。また一筋はギラリと光る眼に。
赤と赤は、互いの存在を確認しあうように、大きく腕を伸ばし、指先を触れ合わせ、舌で体温を分かちながら、ねっとりと絡みつく。そうするうちに、二つの赤の境界は失われていった。
鮮やかな世界を嘲るように、烏はカアと鳴く。左の頭は異様に小さい。一部は醜く潰れ、上下の嘴は噛み合っておらず、ギイギイと軋むような声をあげている。
烏に自らの生命を吸い上げられた兵士からは瞬く間に色が失われ、身体は末端からはらりはらりと崩れ落ちていく。あとには何も残らない。ただ、滴らんばかりに赤々と艶めいた二つの頭が、歓喜の雄叫びをあげるだけである。
ふと、銀が宙を舞った。一本の剣だ。中程から折れたその刃が、陽光を得て白く輝いた。それを合図に、兵士たちは沈黙した。否、兵士だけではない。川、草木、地上にある殆どのものが、その動きを止めたのだ。ただ赤烏のみ、上空を大きく旋回している。
烏がケケ、と短く笑う。同時に、空中に色の飛沫が舞い上がった。金、銀、濃淡様々な赤・青・緑、くすんだ、或いは褪せた茶色──無数の色が細かな粒となり、ひしめき合う。兵士や草木など、地上で息づくものを構成していた色たちだ。
一帯に、ぞう、と広がる静寂。兵士、兵士が纏う鎧や剣、柔らかな草花、聳える木々、尾びれを翻し泳ぐ魚、水流の煌めき──鮮やかな彩りは、いまや悉く失われていた。かわりに世界に残されたのは、白だ。
等しく白く染まったものたちの間に、既に境界はない。兵士は魚であり、木々は鎧であり、草花は兵士だ。何色にも染まっていない景色は、この世界の原始風景である。
「来たか」
しわがれた声は、旋回する烏の嘴から漏れたものだ。
赤い視線の先、彩色の失せた大地の中心に、それはいつの間にか佇んでいた。
地まで届く白く長い髪、白い肌、ひき結んだ唇、そして切れ長の双眸に闇を湛えたヒト。周辺を塗りつぶしている白とは決して溶け合うことのない、一線を画した目映い白さだ。薄布を纏っただけのその胸元、そして下腹には、肉感を伴わない突出がある。
「まったく、懲りない」
歪んだ嘴が、キシキシと囃したてるような音を紡いだ。
「母なる白よ、聞け」
烏の言葉が色のない大地に降り注ぐと、地面にぽつりぽつりと生命色の斑点が滲んだ。そこに空から彩りの雨滴が落ちると、ふつふつと泡がたち、あるところからは芽吹き、またあるところからは水が湧き出る。そして別のところでは、新たなる色彩の兵士が生まれ出んとしていた。
「もし世界を原始色に戻すことができたとて、また同じことが繰り返されるだけだ。おとなしく我らを受け入れよ」
白は、色を取り戻しつつある大地の中心に佇んだまま、上空を鋭く睨んだ。二つの極小の闇の中には、吸い込まれることなく、はっきりと赤が映っている。
おもむろに右手が頭上に広げられた。途端、破裂音。手のひらの前面に、濃密な霧状の球体が浮かぶ。
細く長い五指が球を包む。そしてすぐ、烏に向かって、弾くように開放。
鋭い風切り音。赤を喰わんがため、球が飛ぶ。
瞬間、赤い突風が巻き起こる。烏の羽ばたきが起こしたものだ。霧の球は渦巻く赤に飲まれ、消失。
ひとつ、カア、と鳴き声。小頭が歪んだ嘴で、ギイ、と続けた。
この間、白は眉ひとつ動かさない。彼に(彼女に)表情はなかった。それは、白が白であるが故当然のことであり、また白が白で在り続けるために必要なことでもあった。
白が駆け出す。踏みしめた場所は色を奪われる。芽吹きかけていた草花や、地中から這いださんとしていた兵士は、再び無へと還されていった。
「母が子を殺すか」
滑空。鋭い爪が、白い右肩を捉えた。衝撃に足が止まる。深く抉れたそこから、血液が噴き出すことはない。ただ、傷を与えた爪から乗り移った僅かな赤が淡く滲み、純白の柔肌を侵し始めていた。白髪の下、薄らと薄紅に染まった肩は、一見綻んだ花で飾ったかのようだ。
侵食箇所を、白はちらと横目に確認し、左の手で右肩を掴む。右腕は、いとも簡単に外れた。そして変わらぬ無表情でかつて身体の一部だったものを一瞥すると、名残惜しげもなく放り捨てる。
地面に転がった白の上、薄紅の花はほどなく満開となった。
「いつまでそうやって身を削り続けるつもりだ」
荒々しい羽ばたき。烏から幾枚かの羽が抜け落ち、赤い疾風と化して白に迫る。
ヴォン。白が伸ばした左手の前に、真円の盾が現れた。
襲い来る風が牙を剥き、盾を飲み込む。
刹那、爆ぜた。
空間の瞬間的な膨張。かざした手が弾かれ、白は後ろへと飛び退く。
薄紅色の花吹雪が舞い、互いの視界を奪った。それは盾を喰った風の名残だ。
花弁の波が割れる。同時に何かが空を切る。薄紅の中心に、赤。
白が目を見開く。反射的に片腕で顔を覆う。
ド、と湿った鈍い音。白の手首を、赤い嘴が貫いた。
僅かに表情を歪めた白を見やって、小頭の烏がゲタゲタと笑う。
白が大きく腕を振り払う。その勢いを借りて、烏は再び空中へと舞い戻った。
無惨に穿たれ、ぽっかりと開いた穴の縁から、再び始まる赤の蹂躙。細い枝状に進行していく侵食を、白はもはや止めようとはしない。烏も、それを承知のようだった。
「我らの内に在れ、母よ!」
嘴から放たれる咆哮は、烏のそれではない。烏を支配する赤の、大地を彩る濃淡様々な緑・黄・茶・青、光を与える金・銀──世界を取り巻くすべての色たちの叫びである。
発せられた言葉が色を纏う。
両足が地面を蹴った。退避のための跳躍。だがそれはかなわない。地表に残された僅かな色たちが、大地を隆起させ、またその葉を伸ばし、白の動きを封ずるべく両足を拘束しているのだ。
複雑に混じり合う色彩の螺旋が、唯一無二であるはじまりの色を包み込む。闇を湛えた瞳が、微かに滲んだ。
真っ白な光の炸裂、明滅。刹那の静寂。そして光の内側から流れ出す、極彩色の洪水。その光景は遠い昔、世界に彩りが生まれた瞬間に似ていた。
空間の、大地の、あらゆる生命の脈動音が、地の果てにまで轟いている。
色彩の洪水がひいた後、彼は(彼女は)しばらくその場に立ち尽くしていた。そのうちに、ゆるりと吹き始めた微風に促されるように、ふらりと歩き出した。
もはや白い部分など残されていない背を、烏は追わない。かわりに高く飛び上がる。雲すら突き抜ける飛翔だ。
低く唸るような鳴き声が空気を細かく震わせる。空に敷かれた色たちは、誘われるように彩りの涙をこぼした。
空からの滴は、彼にも(彼女にも)降り注いだ。彩りを一粒ずつ身に受けるたびに、その足取りは重くなっていく。
烏は遙か上空を優雅に飛びながら傍観するのみだ。カア、と鳴く声が、地平の果てに漂う黒霧を微かに揺らした。
色に蝕まれた身体がぐらりと傾き、青々とした草の上に倒れ込んだ。柔らかな緑が餞の如く、自らの色を白へと優しく注ぎ込む。多くの色が混じり合った身体は、もうそれ以上変化の余地がない。かつて白だったものは、ただ静かに、その場に横たわっているだけだ。
川のせせらぎが、兵士たちの雄叫びが、草木のさざめきが、風によって運ばれ、倒れた身体を撫でる。すると、最期の色に染まった身体は、端からさらさらと崩れ、細かな粒子となって、ふわり、飛んでいく。向かう先には、地平を覆う黒霧。
ゆったりとした羽ばたきで葬列の先頭にたつ赤い烏は、もう鳴きはしなかった。
◇ ◇ ◆
「終わったか」
数多の色による鮮烈な舞踏は、美しくはあるが少しばかり退屈だ。時にはこうした刺激があるのも好い。
しかし、刺激と呼べるものも、世界がはじまってから終わりを迎えるまでの長い時間の中の、ほんの一瞬の出来事に過ぎないのだ。そのことだけは、少しばかり寂しくも思う。
――生命力に満ち溢れた彩色豊かな世界が黒で覆い尽くされる瞬間まで、私は眺め続ける。この、延々と続けられる色彩の遊技を。
そうしてすべてが黒に包まれた時、私は初めて、この美しく愛しい世界と、静謐なる口付けを交わすことができるのである。
(了)