願いは、ラムネ色の夢

 瞼を開いた瞬間、目が眩んだ。夜の闇は消え失せ、代わりにあったのは、ラムネ色の煌めきと揺らぎ。肺や心臓に、小さな砂山を載せられるほどの圧力。全身には、目に見えぬ冷たい真綿が纏わりついているよう。急激な温度差に、美月の背筋は震えた。

 自分が水中にいるのだと気付いたのは、声を出そうと開いた唇から、こぷり、と水泡が生まれ出でたからだ。思わず両手で口を押えるが、しかしどうしたことか、呼吸はできるようだった。

 水を含んだセーラー服とスカートが、肌に纏わりついている。そのせいか、酷く重くなった身体がゆっくりと沈んでいく気配。さらに、頭上の光がじわりと遠くなっていき、美月は慌てて足の甲で水を蹴った。同時に体の横で、手を前後に動かし、下向きの水流を作り出す。その際、足元に目がいった。細く淡い緑色が視界に映る。水草だ。短冊に描かれていたものと同じだ、と美月は思う。それは千切れて水中に漂っているわけでなく、しっかりと根を張っているようだから、見えないだけで底は確かにあるのだろう。

 安堵に、力が抜ける。底があるならば――理由は彼女にも知れないが――とにかく息は出来るのだから、海に沈んでしまうのと違い、死ぬことはないだろう。美月がそう考えているうちに、足の爪先に硬い感触。踵までしっかりと踏みしめてから、ようやく水底への到達を理解した。足裏を滑らせるように動かす。水底は、ガラスのように、艶があった。美月の腕を、女の指の如く細く分枝した水草の葉が、そっと撫でる。ぺっとりと肌を捉えるその淫らな指先は、先程の夢想を再び想起させた。そして、この指によって、水底に縫い付けられるのではという恐怖を、美月の心に植えつけた。呼吸は出来る。苦しくはない。だが、永遠に水の中に縛り付けられる自分の姿を想像すれば、自然、足は水草から離れていった。

 不意に、辺りが陰る。足元に目を移せば、丸っぽい影が落ちていた。美月は、頭上を仰ぎ見た。

 ラムネ色の中に、丸っこい赤が浮かんでいる。僅かに白が混じるそれは、金魚の腹だ。同じ色の薄地のフリルを何重にも束ねた尾ひれを、優雅に水に靡かせていた。

 あ、と漏れた声は、しかし音にはならなかった。そしてその声は、金魚に対して発せられたものではない。金魚の、ぷっくりと丸い体の、その向こう。彼女は確かに見た。水に融ける空色と、草色の淡いグラデーションが揺れたのを。漂う長い黒髪を。柔らかく微笑を浮かべるその口元を。ゆったりと垂れたその目を。そして、美月へと差し向けられたその手を。――金魚の体に隠れるように、姿を現したのは、紛れもなく美月の姉・陽向だった。

(お姉ちゃん!)

 美月は姉の名を呼んだ。声は幾つもの気泡となり、彼女の視界を歪める。陽向は、彼女の言わんとするところを、軽い頷きを以て肯定した。――少なくとも、美月はそう感じた。

 赤いドレスの女王の緩やかな舞踏が再開される。それに追従するように、陽向もまた、水中を泳ぎ始める。身に着けたノースリーブのワンピース。その空色の生地は、腰の辺りから膝丈の裾にかけて、徐々に草色へと変わっている。身体にぴったりと貼りつきながらも、両脚を前後させる度に大きく動くその草色は、底から見上げるとまるで人魚の尾ひれだ。人魚は、ちらと水底を見やって、そこで佇む人間の少女に向かって手招きをしてみせる。

 それを視認するなり、美月はぐっと両膝を折り曲げた。同時に、足先で水底を蹴る。ガラスの表面のようなそこで、僅かに滑る。腕を伸ばす。しかし舞踏会場に手は届かない。足の甲で水を蹴る。掌で、頭上の水を、下に向かって押し潰すように掻き捨てる。そうすると、彼女の指先は――ほんの少しずつではあるが、しかし確実に――赤、そして空色と草色へと近付いていく。

 突如、美月の鼻先を掠めるように、赤いドレスが翻る。その向こうから、手が伸ばされた。白く血の気のない指先が、美月の右手の五指に絡まる。その白い手は、水中にしては異常な力で、美月を一気に赤の先へと引き込んだ。

 瞬間、上昇に伴い視界が加速。尾を引くように残像が過ぎ去ると、次いで眩い光線が彼女の瞳を射た。反射的に眉を顰め、瞼をきつく瞑る。上昇が止まるやいなや、左の掌をくすぐられる。柔らかな草を撫でるのにも似た感覚だ。薄目を開けて左手の方に目をやった。触れていたのは、金魚の背びれだった。すぐに破れてしまいそうなほど薄いそれは、上から注ぐ光を受け、所々が黄金に輝いている。鮮烈な色合いに、美月の心臓は大きく跳ねた。不意に、彼女の右手を絡め取る指に、力が込められる。脈動の変化が伝わったせいなのか。しかし真実を確かめる術を、美月は知らない。ただ、視線は見えない糸に操られたかの如く、赤と黄金の羽から、自身の腕を伝い、身体の左右を結びつけるセーラー服のリボンを辿り、そうしてもう一方の自身の腕から、白い指先へ向かう。白い腕の先には、草薫る大地に回帰するための空色が待ち受けている。姉の陽向だ。浮かべているその表情は変わらず微笑。水中で乱反射する陽光の中に、そのまま融けてしまいそうな錯覚すら、実の妹に覚えさせる、その儚さ。美月は自身の胸の奥深い部分に、鋭い痛みを感じた。水面に一滴落とした黒い墨のように、それは徐々に広がっていく。

 美月の心情を知ってか知らずか、陽向は彼女の手を引いて、きらきらと輝く水中に泳ぎ出でた。美月はそれに一切の抵抗もせず従った。水が肌を絶えず撫でる。動きがあればこそ、水の冷たさがはっきりと感じられた。

 その間、金魚はじっと動かず、先程と同じ場にいて、虚ろな目でどこともいえぬ場所を見ていた。尾ひれだけは、細かくゆっくりと揺すられている。舞踏の合間に見せる、気だるげなその仕草。女王ともなればそれすら優雅だ。

 陽向と美月は、体を休める女王の周囲を、ぐるりと周回する。空色と草色のゆったりとしたグラデーションと、規律を纏った襞を有する紺色が、時折女王の体を掠めた。女王はそんな揶揄いに対して、豊満な体を僅かに捩るばかりだった。その様すら、水を通せば、たちまち淫靡な誘惑のサインへと変わるのだった。

 輝く水面近くを、流れの停滞する水底を、ふたりは泳いだ。陽向は時々、妹の表情を窺い見た。陽向の微笑は柔らかく優しげだ。同時に、まるで面のように変化がない。そのことが、美月の胸に陰を落としていた。

 遊泳を続けるうち、美月は息苦しさを感じ始めた。はじめは、軽い息切れ。暫くして、それは気道に小石が詰まったような感覚へ。そうなると、のんびりと泳いでいる余裕などなくなり、彼女は慌てて姉の手を振り払った。早急に水面に出て、呼吸をせねばならないと思ったのだ。

 苦しさに顔が歪む。それでも、何とか手足で水を掻き分けて、上昇を試みる。――が、彼女の右足に、何かが絡みついた。何かは、美月を底に向かって引っ張りこもうとしているようだった。

 残った左足と両手を必死に動かしながら、美月は自身の足元を確認する。途端、彼女の身体が強張った。引き攣った声の代わりに、細かな気泡が唇から無数に漏れる。気泡と入れ違いに、僅かな水が気管に入り込んだ。咳き込みそうになる口元に、思わず右手の甲を押し当てた。肺を、刺すような痛みが襲う。だが、痛みに勝る程のある感覚が、既に彼女を支配していた。恐怖だ。

 美月の足に絡みついていたのは、姉である陽向の白い指先だった。血の気のない白い顔の上から、先程まで浮かべていた穏やかな微笑は消えていた。もはや、虚、と呼ぶほかない表情から、美月は姉である陽向という存在を感じることはできなかった。別の見知らぬ女であるような気さえした。長い黒髪が藻のように不気味に広がっている。女の周囲に、金魚が媚態を露わに擦り寄ってくる。その丸い目玉は、死んだもののそれだった。その遥か下で、水底が、闇に包まれ始めている。

 美月は自身の足を掴む手を外そうと、もう一方の足でそれを蹴った。同時に両手で水を掻く。身体を動かす度に、水の中でぶよぶよとふやけた音と、不気味に肥大化したその残響が美月を急きたてる。既に水中での呼吸は叶わない。肺も、もう随分重い。幾つもの石で胸が埋め尽くされていくような気配に、彼女の焦燥は募るばかりだ。

 黒い髪の女が、唇を三日月のように歪める。その形は、極めて新月に近く、耳の辺りまで裂けていた。歯は抜け落ちているのか、唇の隙間からは闇が覗く。女の身体に纏わりついていた金魚の尾びれから、じわりと赤が溶け出していき、それがワンピースを血の色に染めた。瞳は色を失い、白く濁っていく。

 美月はもう、女を見ていられなかった。未だ遠い水面に視線を移し、そこへの到達を目指す。ひたすら水を掻きわける。足の骨が軋んだ。しかし痛みは感じない。水の冷たさももう判らない。感覚という感覚が麻痺をしているのかもしれない。

 それでも、彼女に出来るのはただ水を掻くことだけだ。

 ゆらり、水面に影が落ちた。それは人のようだった。

(――美月)

 頭上から唐突に降り注いだその声は、くぐもっていながらも、異様に膨れあがった音の合間を縫うように、水中の美月の元まで確かに届いた。

(手を……美月……)

 声が聞こえると共に、足を掴む力が、僅かに緩んだ。美月はすかさず、その手を振りほどくように足を前後に大きくばたつかせ、水面に向かう。同時に、声の方へと腕を伸ばした。

 その手首を掴まれる。一気に身体が、水中から引き揚げられていく。

 水から離れる瞬間、美月はふと、底を見た。赤いワンピースの女が、黒い髪を水に揺蕩わせて、濁った瞳でじっと美月を見つめている。空虚な瞳のその奥に、僅かに夜の闇が滲んだ。美月の指先が、大きく波打ったつるりとしたものに触れた。明転。視界は眩い白に包まれる。

「……つき、美月!」

 悲痛な叫びに呼応するように、美月はゆっくりと瞼を開けた。首筋に、掌に、足に、柔らかなカーペットの毛先の感触。ぼやけた視界の中央に、二重の円を描く蛍光灯。端には、美月の母親の顔がある。くしゃくしゃに歪めたその表情からは、どうやら泣いているらしいことが、明瞭でない意識下であっても窺えた。

「お、かあさん……? 私……」

 美月が声を発すると、母親は美月の身体に縋りついた。

 先程まで、水の中にいたはずだった。だが、肌に纏わりつく制服も、汗で湿ってはいるが、濡れているというほどではなかった。

 夢を見ていたのか、と美月は思う。それにしては、感覚があまりにリアルだとも。

 ――ちりん。

 涼やかなその音が、頭上で一つ、鳴り響く。美月は、視線でそれを追った。窓の外は暗い。カーテンレールの端に、赤い金魚が描かれた風鈴がぶら下がっている。

 美月はゆっくりと上半身を起こした。母親も、幾分落ち着きを取り戻したようで、カーペットに座り込んではいるが、手の甲で涙の残滓を拭っている。瞼は厚ぼったく腫れていた。

「あなたが急にいなくなったから、本当に心配したのよ。あちこち探しまわったのだけど、まさか家に帰っていたなんて……どうしてひとりで出て行ったりしたの。あなたにまで何かあったら――」

「お姉ちゃん」

「え……?」

「ここで、お姉ちゃんが帰ってくるのを待ってたの」

 美月の言葉に、母親は顔を強張らせている。

「お母さん、お姉ちゃんはまだ帰って来ないの?」

 娘に尋ねられ、母親は項垂れた。そうして、彼女の問いに、

「美月……。お姉ちゃん……陽向は――――もう、死んだのよ。ここには、二度と帰って来ないの」

 そう、静かに答えたのだった。

 ――空色から草色へ。その淡いグラデーションが翻る。赤いシュシュで緩く束ねられた、腰ほどまである黒髪が大きく揺れた。

 陽炎立つアスファルトの上に架けられた白い平面的な梯子。眼前を、車が右へ左へ、通り過ぎていく。

『金魚が泳いでいるみたい』

 姉が纏った色合いの鮮やかさに、美月が思わず口にすると、隣に立つ彼女の姉は、目を細めて柔らかい微笑を浮かべた。

『家に帰ったら、あなたの机の上にも、金魚がいるわよ』

『どういうこと?』

『今日、美月の誕生日でしょう』

『えっ、それって、もしかしてプレゼントってこと?』

『そうよ。雑貨屋さんで見つけたの。美月が気に入りそうだと思って』

『えーっ、どんなのだろう。気になるよ。ね、早く帰ろっ』

 歩行者信号が青に変わる。逸る気持ちが美月に姉の手を引かせた。足早に道路を横断する。

『美月っ!』

 姉の声。

 キーホルダーの鈴の音。

 ブレーキ音。 

 次いで背中に衝撃。

 瞬間、身体を捩じって背後を視界の端に捉えたのは白い車体。

 アスファルトの上に前のめりに倒れ込む。

 皮膚が灼け、爛れ、或いは裂ける気配。

 夏の太陽のせいか、意識の混濁か。白く霞んでいく視界の、少し離れた辺りの路上に、白い乗用車が停まっている。その前輪のそばに、赤黒く汚れた、空色と草色。

 悲鳴、絶叫、咆哮。恐怖と混乱が場を支配していた。

『お姉ちゃ……』

 美月は姉であろうものに向かって、手を伸ばそうとした――

 風鈴が高らかに鳴った。緩やかに吹き込んだ夜風が部屋を満たす。

 俯き、ぐずぐずと鼻をすする母親が身に着けた、真っ黒なワンピース。その膝頭は濡れていた。首元に連なる小粒の真珠の群れが、しっとりとした光沢を放っている。ぱさぱさと乾いた短い髪からは、憔悴と、ほのかに線香の匂いが漂う。

「昼間、お葬式、した。お姉ちゃんの」

 母親の姿を、ぼうっと眺めながら、美月は淡々と漏らした。

 白、黄、紫――荘厳な菊花の海の中で、額縁に収められた姉の笑顔を、美月は思い出していた。

「私のせいで、お姉ちゃん、死んじゃったんだ」

「……あなたのせいじゃ――」

 母親の言葉は嗚咽に飲まれて消えた。

 ――ちりん、ちりん。

 背後で、風鈴の音。

 上体を捻って、滲んだ視界でそれを捉える。

 ラムネ色の中を泳ぐ赤い金魚。風に揺れる短冊の淡い緑の水草、湧き上がる水泡。その中心に書かれていたはずの文字は、もう跡形も残っていない。

『お姉ちゃんが帰ってきますように』

 彼女が短冊に込めた切なる願いは、赤い金魚に連れられて、星の海へと沈んだのだろう。

 美月の両頬を、温かいものが伝う。姉が自身に贈ってくれた風鈴を仰ぎ見ながら、美月は、姉が死んでから初めて、声をあげて泣いた。

 軽やかな風鈴の音色が、彼女の泣き声を、優しく包みこんでいる。

(了)

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