願いは、ラムネ色の夢

 湿気を孕み限界まで熱膨張を繰り返した空気の感触は、静かで穏やかかつ、圧倒的な暴力だ。見えないいくつもの手で荷重をかけてくるそれは、被制圧者の抵抗心すら、ぐずぐずと浸食するように、音も無く崩していく。

 美月は、そんな不可視の力によって、ベッドの上に拘束されていた。夏休みの始めにクリーニングに出して一週間で戻ってきたセーラー服の、薄手の白い布地が、汗で濡れた彼女の肌にべたべたと貼りつく。しかし、彼女の表情は、それにすら無関心を現していた。ゆっくりと上下する胸の前で結ばれた赤いスカーフ。土の上に引き揚げられた水草のようにくったりとしてはいるが、しかし腐臭は伴われない。

 クリーム色の壁紙が張られた天井を、美月はぼうっと眺めている。頭のすぐ上、網戸を引いた窓の外からは、未だ高い陽が射し込んでいる。鋭い光線と螺旋状に絡まって聞こえてくる、じいいいい、という、単調な蝉の鳴き声。時折それが止むと、美月は決まって、死んだのかな、と思う。蝉の短い命を思えば、それまで聞こえてきた鳴き声が、断末魔の悲鳴か、或いは自らの人生を声高に誇っているかにも感じられた。だが、そうやって美月の脳裏に蝉の死が過った次の瞬間には、大概同じように蝉が鳴き始めるのだ。だからといって、それが先程まで鳴いていたものと同一個体であるかなど、美月には確認しようがないことなので、僅かに興った彼女の関心も、すぐにクリーム色一色で塗りたくられて消えてしまう。

 美月が横たわっているベッドの、反対側の壁際には、もうひとつベッドが置かれている。入口ドアの両脇にも、同じように勉強机が二つ。しかし、もう一方のベッドの主の姿は、室内にはない。

 ふと、美月は首を傾げた。目の前にある見えない空気が、微妙に色を変えたように思えたからだ。目に映るクリーム色が、薄い透明な膜、或いは水を通したように、僅かに歪んでいた。その様は、川の本流に支流が灌ぐ、曖昧な境界に似ている。風はない。頭上に結ばれているカーテンは、ぴたりと静止したままだ。蝉は変わらず鳴いている。ただ、室内の空気の流れだけが変化したようだった。

 ――ちりん、と清く高らかな音。

「……お姉ちゃん?」

 透明感のあるその音は、青く澄んだビー玉のように空気中を走り、そうして、美月の全身を押さえつけていた、不可視の拘束を弾いた。ベッドの上に半身を起こし、部屋のドアを見やる。だが、そこに彼女が求めた姉の姿はない。それを確認すると、大きな溜息が零れた。

 姉に、帰ってきて欲しい。初めは、そうした切実な心持でベッドの上に寝そべっていた彼女だった。だが、時間が経つにつれ、外気に浸食されていく室内で、彼女もまた、熱に冒されてしまった。その為、死に向かう蝉の声だけが陰となって、彼女の心を掴み得たのだろう。

 部屋からはみ出さんばかりの熱気は、いつしかすっかり収縮していた。陽光も、白より幾分か橙味を帯びている。窓の外から、小さな子供の笑い声。自転車のブレーキ音。次いで、ちりん、とひとつベルが鳴る。

 ああ、この音だったのか。美月は合点して、同時に落胆する。自転車のベルの音は、姉がバッグに付けていた、キーホルダーの鈴の音に似ていたのだ。

 肩を竦めた彼女の背に、もうひとつ、ベル。

「やめてよ、紛らわしい」

 乾いた喉から捻りだされた苦言を、嘲笑うように、また、ベル。蝉は飽きもせずに鳴いている。

 汗で首に貼りついた髪を、乱暴に払う。湿り気によって幾つも細い束を作っているそれに、空気を孕む隙はない。纏まった毛先が肩を打つ小さな音が、美月の耳朶を叩いた。ぱらぱら、という軽薄な感触に、からかわれている気分にでもなったのか、彼女の眉間に皺が寄る。

 顔を顰めたまま、ベッドから両足を下ろす。毛の短いベージュのカーペットが僅かに沈んだ。裸足の足、その十指の僅かな隙間を、カーペットが埋めた。その感触も、彼女の感情を逆なでた。

 美月は夏になる度に思うのだ。部屋の床をフローリング張りにして貰えばよかった、と。だが、それを口にすると、姉に窘められるのが常だった。「フローリングは、冬が寒いじゃない」と穏やかな笑顔で言い返されると、そうか、と納得してしまう。だが、姉は不在だ。

 暑いから、些細なことが気になってしまうんだ。美月は、足裏の感触から気を逸らすように、そう自分に言い聞かせる。喉の渇きを潤せば、気も多少は落ち着くだろうと、彼女はドアノブに手をかける。

 刹那、――ちりん、と、また音。先程の自転車のベルとは違う、純度の高い氷を思わせる透明な音色だ。それが、美月には耳のすぐそばで鳴らされたように感じられた。

「お姉ちゃん? お姉ちゃんなの? 帰って来たの?」

 姉の姿を求めて室内を見回すが、クローゼットもなく、ベッド下にも空間がないため、当然姉が隠れていようはずもない。それでも、美月は部屋中にくまなく視線を走らせる。カーテンの裏、窓の外、ふたつのベッドの上、机の下――。

「……ぁ」

 美月が自分の机に目をやった時だった。彼女の目についたのは、十五センチ四方ほどの、小さな包み。淡く上品な黄色い紙で包装されたその上に十字に巻かれた赤いリボンは、上面の中央で、花のように成型されている。そばには、小さなカードが添えられていた。彼女自身、この包みに覚えはない。

 机に寄り、恐る恐るカードを手に取る。

 ――美月へ 陽向より――

 白地をピンクのハートマークで縁取ったカードには、すらりと整った筆跡で、そうある。陽向とは、この部屋のもうひとりの主の名だった。

 美月は、送り主を確認するやいなや、反射的にそのリボンに手をかけた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん――」

 まるで包みの中に、姉の姿を求めているかの如き呟きは、もしかすれば無意識のものであったかもしれない。乱雑にリボンを解き、引き裂くように包装紙を剥がしていく。その下から現れた白い紙箱の蓋を、指先でこじ開ける。その中から、彼女が求めたものの代わりに現れたのは、一個の風鈴だった。クリーム色の壁は、すっかり茜色に染まっている。

 ガラスでできたその風鈴は、涼しげなラムネ色をしていた。立体的な楕円の下側、きゅっと窄んだ縁は、ゆったりと波打っている。中心を上下に糸が貫き、そこから本体と同じくガラス製の細長い舌、そして生き生きとした緑色の水草と、今にも弾けてしまいそうな水泡が描かれた短冊が下がっている。ガラスの内側にあしらわれているのは、ぷっくりとまん丸い腹をした、赤い金魚の絵。優美なその尾は、幾重にもなったフリルだ。美月は、まるで満々と水を湛えた金魚鉢を眺めている気分になった。手の中で、それを少し回転させてやれば、光の反射の加減で、実際に金魚が泳いでいるようにも見えたのだ。

 ラムネ色に射す茜。そこに照り返しの黄金が混じる。複雑な色味の舞踏会場で、赤いドレスの女王が舞う。豊満なその肉体を惜しげもなく晒し、ふんだんにフリルをあしらったドレスの裾を、大胆にもひらりと翻し、見る者を誘惑する。ドレスと同じ赤の唇が、意味ありげに動く。こちらへいらっしゃい、と、声無き声が聞こえてくるようだ。しかしその仕草や装いとは裏腹に、闇色の瞳はどこまでも虚ろである。この狭い場所で、死の瞬間まで続くたったひとりきりの舞踏。彼女の内にあるのは、諦念か、或いは終焉の渇望か。彼女を照らす茜色の光は、徐々にその色を濃くし、そのうちに、清々しいラムネ色を喰らうかの如き深い群青を連れてくる。

 美月が風鈴に夢中になっている間に、窓の外はすっかり暗くなっていた。太陽の代わりに、弱弱しい月明かりが部屋を淡く照らしている。網戸の細かい網目をかいくぐって、涼やかな風が部屋に流れ込んだ。

 その風が、風鈴から垂れ下がった短冊を、微かに揺らした。しかし風鈴は音を鳴らさない。彼女の手の中にあるからだ。美月はふと、先程聞いた音を思い出す。ちりん、と高らかな音色。この風鈴を吊るせば、あの音が聞こえてくるような気がした。

 風鈴を手にしたまま、つい、と薄暗い窓辺に目を移す。風鈴を吊るすには、糸を掛ける場所が必要だ。壁に釘を打つわけにもいかないし、そもそも釘などここにはない。どうしたものかと思案した美月だったが、釘の代用品をすぐに思いつく。カーテンレールだ。レールの端に、カーテンのフックを掛ける為の固定リングがある。ここならば、と彼女は思った。風鈴の糸の上部は輪になっているが、短い為、これだけでは風鈴をレールに吊るせない。だから彼女は、先程解いたリボンを使うことにした。リボンをリングに通し、さらにそこに風鈴の糸を通す。そうして長さを調節してやる――その段になって、美月は不意に、短冊のデザインに違和感を覚え、手を止めた。描かれた水草と水泡が、やけに上下左右の縁に寄っているのだ。中央に、故意に空白を作っているようにも見える。

 ――ちりん。

 まただ。美月ははっと顔を上げた。風鈴は自身の手の中にあるから、鳴るはずがない。今度こそ、姉が帰宅したのかもしれない。そう思い、風鈴を片手に、慌てて網戸を開けた。しかし、見下ろした先の路地には、誰の姿もない。それを確認するなり、美月の肩が落ちる。空耳だったのだろう、彼女はそう自分に言い聞かせた。

 路地を挟んだ向こうには、低い住宅が続く。それと庇との間に僅かほど窺える群青の夜空に、小さな光が無数に瞬いている。儚げな光を繋ぎとめるように空に敷かれているのは、淡い光雲の帯。

 水草と水泡に囲まれた空白の意味するところは、この狭い星の海に眠っていた。美月の視界の端で、風鈴から垂れ下がる短冊が、小さく揺れた。

 常夜灯のみを点した部屋。開け放した窓。風はない。風鈴は頑なに口を閉ざしたまま、カーテンレールに吊るされている。そこから下がる短冊の空白は、切実なる黒で埋められた。

 美月は、カーペットの上に膝をきつく抱えて座り、水草と水泡に挟まれた黒い文字を、じっと眺めている。時間の流れすら、もはや彼女の中には存在していなかったかもしれない。その心持はもはや、無と形容するほかない。ただし、無はいずれ有を生む。それは美月に対しても例外ではなかった。彼女は、短冊を見つめるうちに、いつしか自分自身が水の中で揺蕩っている錯覚に陥っていた。

 ラムネ色の、波打った縁。そこに、ぴん、と背筋を伸ばしたまま、立つ。とん、縁をつま先で蹴る。とぷん、水に飛び込む。紺色のスカートの規則正しいプリーツが、円を描くように広がる。衿が立つ。身体はゆっくりとラムネ色の深淵へと沈んでいく。赤いスカーフは光を求めて上を目指そうとするが、それは決して叶わない。水底から、こぷりこぷり、水泡が湧き上がる。肌に触れる。ぽっ、と破裂。ろろろろろ、水流が耳孔をくじる。緑色をした痩身の娼婦が、水底で淫靡な微笑を浮かべ、複雑に枝分かれした奇怪な指先を、ねっとりといやらしく動かした。その指が、美月の足首を絡めとる。その感触に身を委ねながら、ふと、頭上を見やれば、鮮やかな赤のドレスを身に纏った女が、死んだ瞳で恍惚の笑みを口元に浮かべ――

 ――ちりん。

 涼やかな音が耳を掠め、美月ははっと我に返った。首筋や額が酷く汗ばんでいた。風鈴の短冊が、大きく翻っている。その度に、舌が揺れ、波打った縁に軽く接触。ちりん、ちりんと、軽やかな音色を紡ぎだす。美月の頬を、風鈴の音に誘われた涼風がふわりと撫でた。

 常夜灯のオレンジ色と、窓の外から届く街灯の青白さが、ラムネ色と重なっている。風鈴の内側から見る世界は、はたして夜か、真昼か、或いは夕暮れか。どこか終末じみた緊張感を、風鈴の音色が穏やかに解す。美月の身体から、不要な力が抜け落ちる。薄らと、唇が開いた。

「あ……、きん、ぎょ……?」

 彼女は思わずそう漏らし、驚愕に目を見開いた。

 長四角の中に収められた、水草と水泡の合間を、赤いそれは確かに泳いでいた。艶やかな尾を振り、丸みを帯びた体を右へ左へ、ゆったりと動き回っている。美月が記した黒い文字を、下からなぞる様に、短冊の中の金魚は泳いだ。そうして、短冊の上端に達すると、さも当然のように、空中に泳ぎ出た。次いで、短冊に書かれた文字が小刻みに震える。そうであったかと思えば、文字は紙の上から、ぺり、と剥がれ、列を成して、金魚の後を追い始めた。金魚は空中でも、変わらぬように尾を振り、口をぱくぱくと開け閉めしながら、窓の方を目がけて泳ぐ。それに、美月の願いが連れられていく。窓の外へと飛び出した赤い金魚と黒い文字は、遠くに輝く光の帯へ向かっていくようだ。金魚の姿は、そのうちに、夜の闇に融けるように消えてしまった。その光景に、美月はすっかり言葉を失い、ただ茫然とそれを眺めることしかできなかった。

 ――ちりん、ちりんちりん。

 風鈴の音色が連なる。室内に、山からの湧水のようにひんやりとした空気が流れ込んできた。

 ――ちりん、ちりん。

 水草と水泡だけが残された短冊、そして風鈴へと、美月は視線を移した。混沌とした終末の色の中で、赤い金魚が、その尾を、優雅に揺らす。

 ――ちりん。

 残響が、耳の奥に貼りついた。ひとつ、瞬き。

1頁 2頁

       
»

サイトトップ > 小説 > 幻想 > 単発/読切 > 願いは、ラムネ色の夢