モノクロームの色彩
かつてこの世界にも、光と闇があった。世界が、そして男がまだ白でも黒でもなかった頃のことだ。
上方から光が差していた。そこから伸びる光の化身のような白い階段が、男の足元では灰色に変わる。男は遠くの白を時折ちらと上目で見ながら、灰色の階段を昇った。そして男が過ぎ去った後の階段は、黒く色を変えていき、やがて闇に融け、見えなくなる。
そんな世界で、男は踏みしめた段数を数え、鼻唄すらもらしながら階段を昇っていた。時には焦らすように緩急をつけることもあった。またある時には、数段飛ばしで跳躍するように昇った。階段を高く昇っていくにつれ、男の気分も高揚した。
そんな男が昇る灰色の階段に、それは頻繁に現れた。白だ。
灰色に穴を開けるように現れた白に、光に満ちた純白の頂点のような清廉さを感じることは、男にはできなかった。むしろそれが汚点であるようにすら思えた。
「こんな白、僕はいらない」
吐き捨て、釜の中で煮えたぎるような妄執に憑かれたかの如く、白を何度も踏みしめ、躙り潰した。その度に白はたちどころに消滅した。白が消えるその様は、男の心に優越感と支配欲をもたらすには十分だった。
白が現れ、踏みにじる。それを繰り返すうちに白は徐々に姿を見せなくなっていった。
「どうだ、僕の力を思い知っただろう」
ある時、白を消し去った後、男はそう呟いた。歓喜に震える声が灰色の階段へと落ちる。
するとそこから波紋が広がった。硬質な踏面がどろどろと溶け、うねり、渦を巻いていく。
渦の中心からぼこぼこと涌き出してきたのは、黒だった。
「ひいっ……」
小さく悲鳴をあげ、男は慌てて階段を下った。しかし慣れない行動に足はすぐに縺れ、倒れる。そのまま十数段ほど滑り落ちて、したたか全身を打ち付けた。
男は倒れたまま背後を振り返った。膨張した黒が、その空虚なる口をぽっかりと開けていた。飲み込まれる瞬間、見えるはずもない黒く鋭い牙が、男には見えた気がした。
そして痛みで目を覚ました男の目に飛び込んできたのは、黒のみに支配された世界。
闇だ、と男は感じた。慌てて光を探して階段を駆け上がる。しかしすぐに見えない階段に躓き、倒れた。
「あ……」
男の目の前に、白が現れた。漆黒の世界で、階段の一部分が確かに白く色を変えていた。何度も男が踏み潰した、あの白だ。黒い階段に突如として姿を現したそれは、光を放っているように眩しく美しかった。
欲しい。白が欲しい。
男は初めて心底から白を求めた。しかし手を伸ばしたところで、手に入るはずもない。男を打ちのめすように、白にかざした手は黒く染まっていた。
(これが、僕の……体?)
黒に塗りつぶされた世界と自身をようやく認識した男を嘲笑うかのように、白は静かに姿を消した。
* * *
ぱちん。
記憶の綱が音をたてて切れた。
「っはあ――!」
男の喉からずるりと何かが溢れ、びちゃりと粘着質な音と共にこぼれ落ちた。苦しさに喘ぎ、肩で息をする。
「痛っ」
次いで男の全身を激しい痛みが襲った。硬い地面の上で、丸めた体を強く両手で抱き、必死に耐える。
頭の中がぐらぐらと揺れていた。しかし意識に淀みはなく、むしろ清澄ですらあった。
男ははっと目を開き、慌てて体を起こした。両手で地面に触れる。荒い呼吸を整えながら、硬い地面をまさぐった。段差のない様子から、階段の下にいるのだろうと想像した。先程までここで黒を吐き出していた沼は、枯れてしまったのか、この場所にはもう存在していないようだった。それを確認して、男はようやく深く安堵の溜息をついた。
枯れた沼の硬い底部に尻をつけたまま、周囲を見渡した。男の目に、もう黒の姿は見えなかった。
(檻、か……)
そう男は声に出したつもりだったが、背後に居座る静寂はそれを許さなかった。男の声が、自身の耳に届くことはなかった。可笑しくなって、くっくと笑う。それすらも、音にならない。仕方ないな、と男は思った。今、静寂は男を後ろから抱き締め、その口を細い手で塞いでいるのだから。
「言葉にしないで」
「ひとりは嫌よ」
――迫る別れに、静寂が、泣いているように感じられた。
(いいよ。しばらく、このままで)
背に流れる悲しみを感じながら、男は天を仰ぐ。相も変わらぬ黒々とした空間がそこには広がっていた。僅かに懐かしさを覚える。足を組み、ゆったりと瞼を落とす。瞼の裏の黒は、静かに男を迎え入れた。
男は想った。この世界のことだ。
男は、世界の全てが黒く変わってしまったと思っていた。けれどそれは思い込みに過ぎなかった。男を取り巻く世界のたった一部分のみが、黒い壁で覆われてしまっただけのことなのだ。
男は黒に飲まれ、そして染まってしまった。――男が、諦めてしまったからだ。遠すぎる光を。眩ゆすぎる白を。そこに、黒は付け込んだのだ。闇に融ける黒へと、男を染め上げた。
(僕は、羨ましかった。光が、白が欲しかった。でも、足を速めただけじゃあ、届かなかった)
そして羨望は、嫉妬へ。――男は、白を消した。最後に現れた小さな白すら、踏み躙った。
(目の前に現れる白は、光から贈られた憐れみだと思い込んで……。だから僕は、情けなくって、悔しかった)
黒に染まりながらも、男は階段を昇った。昇ることしか、男には残されていなかった。それはもう、本能と呼ぶほかない。そして男は、高い段差にぶつかった。
(目指すものがないことが、あんなにも苦しいなんて、知らなかった)
そして男は、その手を離した。
(楽になりたかったんだ。全部、忘れて――)
閉じた瞼の縁から、温かな雫が一粒こぼれた。
(僕は、逃げていた……。何もかもから)
男の意識の内に風が吹き抜けた。そして雨が降り注ぐ。全てを洗い流し、清らかな空気で意識は包まれる。
男は想った。階段のことだ。
階段は、本当は黒に染まっていないのかもしれない。黒い壁に光を阻まれ、その姿がすっかり闇に覆われていただけなのではないだろうか。推測ではあるが、限りなく事実に近いはずだと思われた。
男がかつて昇っていた階段は、灰色だった。恐らくそれが、階段が持つ本来の色なのだろう。白でも、黒でもない。どちらにも染まれない。けれど、闇に融けることも、光を冠することもできる。それが、男の昇ってきた階段の真の姿だ。
(随分と長い間、僕は階段を昇ってきた気がしていた)
けれど、男は自身の目で確かに見た。黒の壁に覆われた狭い檻の中にあったのは、長い長い階段の、僅か一部分。その短い階段の端にすら、男は達していなかったのだ。広い世界の、何分の一か、何十分の一か。たったそれだけ踏破したところで、世界の全てを理解した気になっていた。黒い檻の中で階段を昇りつづける様は、まさに慢心の塊であった。
(こんな愚かな僕が、白を、光を掴めるはずなんてなかったんだ)
男の黒い頬を、撫でるように伝うものが、もう一粒。
清浄なる意識の中で、ぞわぞわと芽吹きの音がする。硬い地面を押し上げる何かが、そこにあった。
男は想った。かつて見た、光輝く階段の頂点のことだ。今は目にすることが出来ない、記憶の中のその頂。
檻の中からいくら伸ばそうと、黒い壁に阻まれ、男の手は決して届くことがないだろう。
この壁の向こうで、今も頂点は輝いているだろうか。もし、壁の向こうに美しく輝く光があるのなら――。
(僕はまた、憧れてもいいだろうか)
白に、光に、再び焦がれたい。
(真っ黒になった僕に、それを掴む資格はないかもしれないけれど)
両頬を、涙が濡らした。
「ああ、僕は……僕は……!」
わななく唇から言葉がこぼれる。先程まで口を塞いでいた静かな細い指先は、溢れ出る雫を拭っていた。やさしい指先だ。慈愛すら感じさせる。
意識の内で地表がむくりと膨らむ。そしてそこから、黒が溢れた。うねうねと苦しみのたうちながら地面から抜け出し、垂直に長く伸びる。長大な黒は一本から二本、その途中からさらに一、二本という具合に分かれていく。何度かそれを繰り返して、静止した。黒い木がそこに聳えていた。
自らの意識の中に宿った漆黒の巨木を認識し、男は瞼を開いた。
背後に佇んでいた静寂は、いつのまにか消えていた。男がこぼした涙を道連れにして。その残り香だけが、ふわりと男を包み込んでいた。
きっ、と正面を見据え、男はゆっくりと立ち上がった。そして数歩、前へと歩いた。すぐに足先が何かに当たる。慣れた様子で手のひらを前に突き出す。硬く平らな壁がそこにあった。そこに手を添えたまま、壁に沿うようにして男はさらに足を進める。右手伝いに行くと、再び正面に壁。直角に曲がっているのだ。角に沿って男も向きを変える。それを四度、繰り返した。四方を壁に囲まれた狭い空間だ。もはや黒には、僅かな力しか残されていないのだろう。それは男が、黒を我が物としてその意識下に治めた結果だ。
男は檻の中心に立ち、広げた手で力強く宙を薙いだ。そして、天に向かって高らかに声を張る。
「僕は知った! この黒は愚かな僕の心の淀みから生み出された、世界を覆うただのハリボテだ! 先の見えない不安と恐怖に満ちた黒だけの世界なんて、どこにもありはしない!」
残響が、うわんうわんと何度も壁にぶつかりながら、上へと昇っていく。
ふ、と地面が輝いた。
男の足元に、白い円が現れていた。
枯れた沼の底に張りついていた黒が、男の周辺からぞわぞわと逃げているのだ。
現れた白は、間違いなく階段の最下部だった。
円の縁からは細く白い無数の線が、勢いよく上へと伸びていく。
白の格子が男を護っているようにも見える。
細い白は空中で互いに交わり、捩れ合いながら、男の頭上で一本の太い柱となった。
勢いはそのままに、白い柱が遥か上方で何かとぶつかる。
恐らくそれは黒だ。檻を閉じる、黒の蓋だ。
鈍い振動と共に、ぐらりと体が揺らぐ。
男は重心を下げ、両足で踏ん張る。
白い柱と黒の接点が、めりめりと激しい音を立てる。
男は思わず目を伏せた。
蓋が柱によってこじ開けられ、ぽかんと開いた四角い空間から眩ゆい光が降り注ぐ。
白い柱は、黒に開いた隙間から光に満ちた外へと飛び出していき、すぐに霧散した。
それを見計らったかのように、男の下に残っていた白が四方八方に飛散し、黒い壁に音もなく張りついた。
光にようやく慣れた目で、男は飛び散った白を追う。右へ左へ、そして上へ、白の点は道標のように、壊れた檻の外へと続いている。
足元に広がる丸い白の上に、男の黒い影が落ちた。
目の前の壁に付着した白に、男は触れた。そこは他に比べ若干盛り上がっていて、手をかけることが出来そうだ。男は迷いなくそれを掴んだ。ぐっと力を込め、体を支えうる強度があるかを確認する。白は男を拒まなかった。内心ほっと息をつき、今度は膝ほどの高さにある白に足をかけた。体が少し浮き上がったところで、更に高い位置にあるでっぱりへと手を伸ばす。
そうやって、男は壁を昇っていく。時折滑り落ちることもあったが、その度に足や手の角度を調整し、進む方向を変え、必死に上を目指した。挫けそうになるたびに手足を止め、頭上から降り注ぐ希望の光を仰いだ。男は黒い壁の頂点を目指した。もう二度と諦めない。その一心で。
ようやく壁の最上部に到達し、その縁に手をかけた時には、男の体を汗が滝のように流れていた。白を握りつづけた手に、血の気はない。血の気がないことが、男に、はっきりと分かった。
「手が……!」
男は黒の縁にぶら下がったまま、思わず視線を自身の体に落した。手のひらだけでない。胸、腹、足――男の体は、本来あるべき色を取り戻していた。全身が震えた。落ちてしまわないように、更に指先に力を込める。口角を上げようとする頬の筋肉すら痙攣して、うまく表情を作れない。歓喜の雄叫びを必死で堪え、男は頭を振った。油断してはならぬと、自身に言い聞かせたのだ。
深く息を吐く。
両手で壁の縁をしっかりと確認する。
ぎ、と奥歯を噛みしめた。
壁を蹴る。
勢いを借り、腕の力で体を浮かせる。
刹那、昔のことを思い出す。黒い階段の途中、高い段差に挫折したあの時のことだ。もう随分遠い過去のように思える。
あの時は、緩めてしまった腕。
(絶対に、何があってもこの手は離さない)
浮き上がった体を、壁の縁に腹を当てて止めた。
僅かに痛みが走る。
これは必要な痛みなのだと、男は自身に言い聞かせた。
そして、見た。黒い檻の外の世界を。澄んだ瞳、そして淀みのない心で。
目の前に広がるのは男が想像していた光景ではなかった。
闇より出で、黒から灰色、そして白へとその色を変え、やがて光に吸い込まれていく階段と、男だけが存在する世界。結局、そんなものは、なかった。ただ、自分自身が目をそらしていただけ――。黒と白だけではない、鮮やかな色彩に満ちあふれた広い世界が、男にそれを自然と実感させた。
世界には、様々な色の無数の階段が縦横無尽に伸びていた。曲がっているものもあれば、まっすぐなものもある。色や形状は違えど、それらは等しく光へと続いている。その階段を、男が、女が、あるいは男と女が並んで昇っていた。
複数人で昇っている階段すらある。その階段を下り方向に目で追い、そこでようやく男は納得した。複数の階段が徐々に距離を詰めながら並行していき、そしてぶつかって一本の大きな階段になっていたのだ。色も、一人で階段を昇っていた時よりも、優しく穏やかで柔らかなものに変わっていた。
その彩り豊かな世界の端、男の丁度真下に小さな黒い半球で包まれた空間があった。黒となった男が惑っていた、あの場所だ。そこを突き破るように、階段が伸びていた。どこまでも長く、光に向かって続いている。
ああ、やはり。
男の予想通りに、黒い壁の向こうには、変わらず階段が存在していた。男がふたたび昇りたいと望んだ階段が。
「よかった」
男はぽつりと呟いた。安堵したのだ。そこに、本当に階段があったことに。遥かに続くこの階段の存在を目の当たりにすることで、男は自身が再び階段に足をかけることを許されたのだと感じた。けれど同時に、理解もしていた。「三度目はない」と。
唇を噛みしめる。決意の言葉を、そのままぐっと飲み込んだ。
それと同時に、ぱん、と乾いた音がした。半球状の黒が弾けたのだ。小さくバラバラになった黒の欠片は、しばらく辺りを漂ったあと、他の色たちに飲み込まれるように静かに消えた。男が何の感慨も抱かせぬほど一瞬の出来事だった。呆気にとられていると、今度は男の手元がぐらりと揺らいだ。黒の檻がぎぎぎぎと軋んでいる。そしてまた男が手立てを講じるより早く、薄っぺらな檻は男を乗せたまま、ぱたぱたと地面に向かって折り畳まれていった。
落ちた。そう思った。しかし気付いた時には、男はぺたりと地面に座り込んでいた。そして男の眼前には、色のない階段が待ち構えていた。白でもなく、黒でもなく、そして灰色でもない階段だった。色はないのだが、けれどそれは確かに男の目の前にある。不思議な感覚だった。何しろ、ないのに、あるのだから。
男はゆっくりと立ち上がった。しばらく階段を眺めた後、意を決して一段目の踏面に足をかける。すると男の足が触れた部分だけに、ふわりと色をがついた。色がついたことは目に見えて分かるのだが、それが何色かは判断がつかない。白のようでいて黒のようでもある。そして光のように輝かしくあり、闇のようにざらついていた。男は定まらぬ色合いをじっと見つめ、そして大きく頷いた。
そして次の段をしっかりと確実に、力強く踏みしめた。
* * *
鮮やかな色たちに囲まれて、男は昇っている。――白でも黒でも灰色でもない、不確かな色の階段を。
男の昇る階段は踏面も蹴上も不揃いだ。時折足をとられることもある。男はその度にそっと瞼を閉じ、その裏に息づく黒い巨木を眺めた。木は何を言うわけでもなく、じっと男を見下ろしているだけだ。けれどその光景は、男を心の底から奮い立たせるのだ。そして現実へと戻ってきた男は、再度階段へと挑んでいく。確固たる自分自身の強い意思で、階段を昇り、その頂に辿り着きたいという望みには一点の曇りもなく、ひたすらに純粋な想いだった。
男の昇る階段の横に、すらりと細く美しい空色の階段が寄り沿ってくる。ふわりと懐かしい香りがした。それはかつて、男を包み込んだ優しき静寂の残り香に似ていた。
「あの……」
りん、と響く涼やかな声。男は呼ばれるままに振り返る。空色の階段の上に、一人の女が立っていた。
男の立つ踏面から、さざめきが聞こえる。鮮烈な、色のさざめきだ。
「……きみは」
「わたし、ずっと、あなたを――」
頬を染め、はにかむような笑顔を浮かべて女は口にした。
男だけの階段が、ゆっくりと、確かに、その色を変えていく。
(了)
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