モノクロームの色彩

 黒一色に塗りつぶされたこの世界で、ひとりの男が昇っている。――階段を。

 男の足元には、見えない階段が伸びていた。否、本当は見えていて、しかしただ階段自体が、世界と同じ黒に染まっているだけかもしれない。

 この階段がどれほどの長さで、その終わりがいつおとずれるのかを知るすべを、男は持ち合わせていなかった。昇り続ける理由はないが、だからといって足を止める理由も見当たらない。だからひたすら足を進め続けているにすぎず、男に対して、階段を昇ることを強制する者がいるわけではなかった。この世界で、彼は常にひとりだからだ。

 一体いつから階段を昇っているのか、はっきりと記憶はしていない。ほんの一瞬ほど前からのようにも思える。しかし初めて階段に足をかけたのは随分前のことだったような気もしていた。

 至極曖昧な感覚。黒い世界に融けた男は、意識、そしてその姿形すらも鮮明ではない。

 曖昧模糊たる存在の男ではあるが、意思はある。意思があることは明瞭だが、しかしながらその意識の流れは、鈍色のどろりとした粘液のようであった。

 * * *

 男はぐっと息をとめ、目には見えない右足を恐る恐るあげた。それをゆっくりと、わずかに前進させて下ろす。すると右足は左足よりも少し高い場所に硬質な何かを感じ取った。そこで軽く息を吐く。鼻からすうと息を吸い、再びとめる。それから右足裏で丁寧に擦るようにして、その場所の形状を確認する。

 凹凸はないか。

 奥行きは。

 幅は。

 傾きは。

 念入りにそこを探ってから、今度はぐっと歯を食いしばって、意を決した様子で体ごと左足を一歩進めた。すぐに体は安定し、そこでようやく男は大きく息を吐き出して、さらに何度か深呼吸をした。見えない背中にだらりと汗の伝う感覚だけが、いやに現実的だった。

 男は狭い踏面の上で慎重に体を反転させ、ゆっくりと上体を落とした。足元を手で探り、両足で踏みしめていた場所に尻を落ち着ける。居場所を失った両足を前方へと投げ出すと、下った階段に沿うように斜め下へと伸びた。

 下方に息づく黒は、上方で揺れるそれとは明らかに様子が違う。頭上の黒は、男に対していつだって無関心だ。時折一瞥をくれては、ふいとそっぽを向いてしまう。男がそれに追い付こうと足を早めれば、するりと身を翻して逃げていくのだ。

 それに比べ、足元に広がる黒は常に貪欲に男を求めていた。男を自身の内へと誘うように蠢いているのだ。ありもしない手で手招きをしながら、男の耳許に口を寄せ「落ちてこい」と声無く囁く。いつだって、そうだ。当然今この瞬間も、例外ではない。

 耳朶に感じる生温かな黒の誘惑に、ぞわりと身震いがする。男はたまらず瞼を閉じた。瞼の裏に宿る意思のない黒だけが、男の心にひとときの安らぎをもたらす。

 安堵の息を吐き、再び瞼を開けた時には、男を暗渠へと誘う化物は既に消え失せていた。

 しばらく心身を休めてから、男は再び階段を昇り始めた。

 ほとんど平坦といってもいいほどの階段が続く。けれどそれでも慎重に足を進める。段差の高さを足で確認し、鈍足ではあるが一歩ずつ確実に、そして着実に、先へ上へと男は進んでいく。

(上? 本当に僕は上へ昇っているのか?) 

 男の胸に不安が過る。視線を足元から階段の先であろう方向へ移す。しかしそこにはただ黒暗暗とした空間があるだけだ。疑問に対する答えは当然のように存在していない。

「ちくしょう……」

 男が悪態をつく。

(こんな階段、何の意味もありはしないのに)

 幻影じみた確かな現実を再認識し、男の胸の内にそんな思いが過る。

 それに追い討ちをかけるように、何かが男の右足を阻んだ。次の段差にかけようとした足が、前へと進んでいかないのだ。

 少し足を高く上げ、再び試みる。しかし、同様の結果に終わった。

「またかよ、くそ」

 そう吐き捨て、ゆっくりと右手を突き出す。

 少しばかり腰を低くして、伸ばした五指で階段の蹴上部分に下からそろりと触れる。膝と同じ辺りからついとなぞり始めたそれは、すぐに股下の高さを越えた。さらには腰を、胸を越え、そのうちに段差はせいぜい男と頭ひとつ分ほどしか違わない高さだということが分かった。

 似たようなことは、これまでも数度あった。同じ高さ同じ奥行きの単調な階段が続き、男の心に余裕が出てきた頃に、奥行きが足底半分ほどしかない踏面が並んでいたり、よじ昇らなければならないほどの段差が不意に現れたりする。その度に男は、舌打ちをしながらそれでもなんとか乗り越えてきた。しかし今回の段差は、男が経験したことのない高さだ。

 段差に両手をかける。体をわずかに上下に揺らし、すうはあとそれに呼吸を合わせていく。

 は、と一際力強く息を吐くと同時に、十指に力を込める。つま先で踏面を蹴り、男は上へと跳び上がった。

 体が頂点まで浮き上がった瞬間に、すかさず支えていた十指を両腕へと入れ替え、段の上面を広く捉える。

 段鼻に腹を強く押し当て、その三点で体を支えた。足は既に踏面からは離れた状態だ。

「っく……」

 男の腹が痛んだ。思いのほか鋭利な段鼻が、柔らかな男のそこにめり込んでいる。

 痛みから逃れたい一心で、左腕を擦るようにして僅かに前進させてみるが、逃れるどころかむしろ激しさを増し、さらに男を襲う。

「うあああ……、あ……あぁぁーっ!」

 喉が張り裂けんばかりの咆哮も、虚しく黒に融和していく。

 痛い!

 痛い!

 痛い!!

 粘液じみた男の思考が弾け、その断片が硬く鋭い刺へと姿を変えていく。それらが頭の中で、縦横無尽に飛び回る。

 眼窩の奥から飛び出さんばかりに暴れる刺からの刺激に堪えきれずに、男は思わず腕に込めた力を緩めた。

 ず、と体が滑る。

「あ」

 間の抜けた声が男の口から漏れた。

 するりと踏面を捉えていた両腕が浮いた。

 男を痛めつけていた段鼻からも、体は離れていく。

 しかしそれは、落下というにはあまりにもゆっくりとした速度だった。

(ああ、まいったな)

 男は、刺が抜け落ちたように思考した。

 背後から大きな腕に抱き寄せられる感覚。

 甘く、黒く、温く、どろどろとしていて、少しだけ優しげなものが、男の体を走り抜け、そして痺れさせていく。

(もういいか)

 心地のよい浮遊感に、瞼を閉じて身を任せた。

 ――おとずれたのは、痛みに心を脅かされることのない、穏やかな覚醒。ゆっくりと瞼を開き、男は辺りを見渡した。

「ここは……?」

 仰向けに横たわっていた体を上半身だけ起こし、周辺に手のひらを滑らせる。柔らかな黒が、男の下に広がっていた。触れる限り段差はない。自分の下で平坦に広がる黒を男は撫でた。

 ふと、黒に触れる両手に僅かに力を込めてみる。するとあっさりと男の手はそこに埋まってしまった。

「ううっ……」

 手を包み込むぬめりを帯びた感触に、思わず呻く。自然と背筋が震えた。そして瞬く間に両肩までが、黒の沼に飲み込まれる。

 前のめりに体が傾いていく。

 自身の荒い呼吸音だけが、耳に届く。

 沈む。音もなく。

 男の顔がゆっくりと黒の沼との距離を縮める。

 やがて唇が、そこを捉えた。

 それは漆黒との口付けだった。

 黒は複雑に形状を変え、男の唇を激しく求める。

 男の口腔に舌のように差し込まれた黒の断片から、ぬるりとした何かが送り込まれてくるのが分かる。 

(ああ、なんて、甘い)

 舌が蕩ける感覚は、まさに恍惚。男は迷うことなくそれを嚥下した。

 痺れを伴いながら喉へと落ち、体の内部を侵していく。不快感はなく、むしろ空白を埋められるような充足感が男を満たす。

(黒が、黒だけが、僕を守ってくれる)

 ぼろ、と男の背中が欠けた。そこから崩壊が始まり、体はやがて形を失った。かつて男だった黒い砕片は、残らず沼に融けていく。

(ああ、僕は今、幸せだ)

 意識のみの存在となった男は、沼の底から薄ぼんやりと世界を見た。

 頭上で、淀んだ黒が微笑みかけてくる。それはこれまで目にしてきた、どこか幻想じみた存在ではなく、確かな形を持って男の前に現れた。黒く長い二本の手が男へと差しのべられる。沼の底まで伸びたしなやかな十指で、揺れる男の意識をそっと撫でた。くすぐったいような、照れくさいような、けれど不思議と心は安らいでいく。守られるとは、こういう感覚なのだろう。

 黒に融和した今、男の心中に畏れはもはやない。

(怖がる必要なんて、はじめからなかったんだ。鋭い牙も、大きな口も、黒は持っていなかった。持っていたのは、僕を抱きとめたこの大きな両腕だけだ)

 黒の内に抱かれながら、男はそう思った。

 ゆら、ゆら。

 黒の沼底で意識が揺れる。ひたすらに階段を昇り続けるだけでは決して味わえなかったであろう、悠々とした心持ちだ。

 ここに男を急き立てるものは、もう何もない。完全な静たる漆黒の世界。

 もう何の意味もない階段を昇らなくてもいい。

 永遠にこの沼の底に沈んでいたい。

 忘れたいんだ、何もかも。 

 ×××のことも、××のことも、全部、全部。

 全部……? 何を、僕は忘れたかったんだ……?

 ああ……、もう、いい。

 男の意識の端の僅かに尖った部分が、ぼろりと崩れた。崩れたそばから、黒と混ざりあっていく。

(僕はもう、なにもいらない)

 意識は薄く広がる。黒の隅々まで。

 そしてついに、男は黒となった。

 * * *

 世界は黒に包まれていた。そして黒は、世界を見ていた。

 黒に染まった世界の中心に、長く階段が伸びていた。

 黒は正面から階段を見ていた。真っ黒なそれをしばらく眺めているうちに、あるひとつの考えが浮かんだ。希薄な意識を集中させ、一所に集める。意識はすぐに小さな球形を成し、階段の上にぽとりと落ちた。そして浮遊。階段の表面に沿って飛ぶ。不揃いな踏面と蹴上に時折ぶつかりつつも、階段を探っていく。

 しかしすぐにそれを止めた。止めざるをえなかった。そこに壁があったからだ。広い壁だ。意識の進入を拒むように、それは立ち塞がっている。階段は、その先にも続いているようだった。

 意識体は、次に壁を辿った。

 上昇。壁は反り返っていた。それに沿って飛ぶ。階段が真下に見えた。弧を描き、意識はすとんと落ちる。それを蠕く黒が優しく受け止めた。落ちたのは、沼の上――階段の根元だ。どろどろと黒が涌き上がる沼から、それは生えている。そう、それは確かに生えていたのだ。

 黒は集めていた意識を、再度散乱させた。不鮮明ながらも広角的な映像が捉えられる。

 黒の沼から生える黒い階段。横から上から正面から下から、様々な角度から、黒はそれを見た。どの角度から眺めても、階段の向こうに広がるのは空虚な空間。それを挟んだ先には、壁。黒い壁。

 そのうちに、この空間が球状の壁の内にあるのだと黒は気付いた。そしてその壁が、自分自身であることにも。

 世界が黒に染まったわけではなかった。黒い壁の内に、階段は閉じ込められていたのだ。四方八方を壁で覆われたその姿は、まるで檻のようだった。

 黒はふるりと震えた。共鳴するように壁も微動する。 

 かつて、黒がまだ男の形を持ち、世界に光と闇、そして黒と白が存在していた頃、階段は長く高く伸びていた。否、今も光を纏った白い階段は、伸びているのかもしれない。狭い世界の内側しか見ていない、黒の知らぬところで。

 男が心の奥で望んだ、黒との融和。その結果生まれたのが、この極めて矮小な漆黒の檻。

 黒い壁の震えは止まらない。

 どこかがぴしりと軋んだ。

 狭く黒い球状の空間に、強い風が吹き抜ける。

 沼からぼこぼこと黒が涌く。その表面に広がった波紋は瞬く間に巨大になり、黒い津波が階段を遡上する。

 そしてすぐに壁に衝突し、飛沫があがる。その後、霧散。

 ぐにゃり、と壁が歪んだ。衝撃を受けた一部だけではない。壁全体、全ての黒が苦しみ悶えるように捩れる。

 その中で、階段だけは唯一不動だった。

 空気が抜けたように、黒は縮んだ。縮んだかと思えば今度は張り裂けるほどに脹れあがる。それが何度も繰り返された。

 そこに息づく黒の意識も、壁の変形に合わせて膨張しては収縮する。

 乱れた意識は、救いを求める手を伸ばす。伸ばした手は何にも触れることなく、そのままぐるりと自身を抱き締めた。

 自身の中に、ずぶりと手を埋める。意識の中心辺りに、長細い何かがあった。思わず掴み、引く。

 カチ、と微かな音がした。

 それが合図のように、意識は静止した。壁の動きも止まる。

 カタカタカタ。

 黒の無意識下で、回想が始まった。

 泥縄のような記憶を、黒は無意思で手繰る。

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