監視

 真っ白な部屋で、それを監視することが、ここでの僕の仕事だった。

 それとは、目の前に置かれた巨大な強化プラスチック製の箱に収容された被験体だ。今日の被験体は、茶色く汚れたぼろ布のような衣服を身に着け、一見すると人間の女のようだが、手元の資料によると、これは人間でも女でもないらしい。人間に似て非なる別の何かなのだそうだ。

 被験体というからには、何かの実験を行っているのだろうが、それが一体どういったものなのか、僕は知らない。ただそれを監視するだけ。それだけが、僕の仕事なのだ。

『体力に自信のない方、内向的な方でもOK。日給十万円、日払い。適正を認められた場合は正規雇用あり』

 今年の春に二流企業に就職し、営業部に配属された。人見知りで口下手な僕には、客先に出向くことすら苦痛で仕方なく、それを会社側も察知したのか、たった数ヶ月で自主退職を促された。何とか事務方で使ってもらえないだろうかと粘ってはみたが、当然却下。その場で薄っぺらい紙切れに『自己都合により』と記入させられ、名前を書いて判を押した。会社を後にして、今後のことを考え溜息をついていた僕のもとに、この怪しげなチラシは舞い込んできた。

 日給十万円。怪しすぎる。地面に転がっていたそのチラシを拾い上げ、訝しげに眺めた。しかも煽り文句からみて、肉体労働でもセールスの仕事でもないようだ。こんなうまい話、あるはずがない。そもそもこのチラシの体裁があまりにも不自然なのだ。真っ白な用紙に淡々と二行にわけて印字されているだけのレイアウトだった。きっと悪戯だろう。僕はチラシを地面に落とした。

「こんにちは」

 背後から声がした。多くの人が行き交う街中で、何故かその声が僕自身に向けられたものだとわかった。強い風が吹いた。それに煽られ、チラシが空中へ舞い上がる。

 振り返ると、この場に似つかわしくない男が立っていた。男は、絵に描いたような科学者のいでたちだった。白衣を身に着けていたのだ。その下には、さらに真っ白なYシャツが覗き、グレーのネクタイがきっちりと締められている。細く角ばった、縁のない眼鏡の下では、鋭い目が僕に視線を送っていた。明らかに異質な存在にもかかわらず、街行く人々は一人たりとも男を見ていない。まるで彼の姿を見ているのが、僕だけのようにも思えた。

「ええと……僕に何か用でしょうか」

 恐る恐る尋ねる。すると男は、白衣の内側に手を差し入れ、そこから白い紙切れを取りだした。ぴらりと広げられたそれは、先ほど僕が拾ったチラシと同じものだ。

「こちらに見覚えが?」

「はあ、まあ」

 逆に訊かれ、僕は生返事をしながら小さく頷いた。きっと、この男が先ほどのチラシをバラまいたのだろう。ならば彼はこの怪しげな仕事の関係者ということになる。――既に服装からして、十分胡散臭いのだが――関わってはいけない。本能が、そう告げていた。

「でも僕、こういうの、興味ないんで……」

 すいません、と言うやいなや、くるりと踵を返す。逃げよう。僕は足を駅へと向かわせる。足早に数メートル直進。男に追われていないことを確認するために、歩きながら首を捻る。捻ろうと、した。その瞬間、両脇をがっちりと掴まれていた。僕の左右両側に、これもまた映画でしか見たことのないような、黒いスーツに黒い帽子、そしてお約束のようにサングラスかけた屈強な男が一人ずつ立っている。彼らがその太い腕で、僕を拘束していたのだ。一体、いつの間に。接近してきたことにも気が付かなかった。

 狼狽える僕の前に、再び白衣の男が現れた。そしてチラシを差し出し、

「確実に興味を持って頂ける方だけに、このチラシをお送りしておりますので」

 淡々と、そう言った。口元だけが僅かに笑みを浮かべている。眼鏡の奥からの冷たい視線は、まるで鋭利な刃物のようだった。

 気付いたときには、僕は真っ白な部屋の中でパイプ椅子に座らされていた。

 どうやってここに連れてこられたのかは覚えていない。むしろ、記憶がないといったほうが正しい。屈強な男に拘束された後から、僕の記憶はぷっつりと途切れていた。

 足元に書類のようなものが挟まれたバインダーが置かれていた。バインダーを拾いあげる。挟まれた一枚の白い紙には、文字がびっしりと印刷されていた。見出しだけが、他より少し大きめの字で記してある。

 一、はじめに

 あなたは、当研究所の監視役に任命されました。監視といっても、難しい仕事ではありません。後述する注意事項だけを守って頂ければ、身の安全は保証致します。

 二、監視役とは

 監視役といっても、難しい仕事ではありません。あなたは、この部屋で起こる実験を、座って、ただ見ているだけでよいのです。レポートを書くなどの報告は必要ありません。ただ、見続ける。これがあなたの仕事です。

 三、業務の流れ

 まず、室内スピーカーで、実験の開始をお知らせします。それからは、目の前に現れるものを、ひたすら監視し続けてください。実験の終了時間は決まっておりません。被験体の状況次第で、こちらが判断し、再びスピーカーを通してお伝えします。そこで業務は終了となります。

 四、注意事項

 以下のことに注意してください。これらを守られなかった場合、あなたに身の危険が及ぶことになったとしても、当研究所は責任を持ちません。くれぐれも、お気を付けください。

 ・声を出さないようにする。

 ・椅子から立ち上がらない。

 ・対象から目を離さない。

 以上。

 五、最後に

 この部屋の様子は、監視カメラと収音マイクでチェックされています。非常事態に際しては係の者がそちらに向かう手はずになっていますのでご安心ください。

 この業務で適正を見出された方は、正規のスタッフとして、今後当研究所で業務にあたって頂きます。

 ――何なのだ、これは。

 これがチラシに書かれていた『体力に自信のない方や内向的な方でもOKな、日給十万円で日払いの仕事』なのだろうか。ただ見ているだけの仕事とは書かれているが、具体的には何を見るのだろうか。被験体を使い、何らかの実験をするということだから、動物実験かもしれない。しかし注意事項を守らなければ、身の危険が及ぶだなんて。つまりは一歩間違えれば命が危ないということではないのか。声を出したり、椅子から立ち上がったりという日常的な動作を行えば、死んでしまう危険性があるなんて……。

 恐怖で背筋がぶるりと震えた。

 こんな仕事、やりたいなんて一言も言っていないのに。なんという理不尽だ。それに、部屋には監視カメラが仕掛けられているという。ならば最初から、カメラを使って監視すればいいのではないだろうか。

 奇妙な業務に対して内心で愚痴を言いながらも、僕は椅子を立ったり声を出したりすることが出来なかった。こんな書類を読んでしまったら、恐ろしくて出来るはずもない。部屋のどこかに設置してある収音マイクに向かって辞退の声をあげることすら、はばかられるほどだ。諦めていまはこの業務にあたり、日当だけ貰ってさっさと帰らせてもらったほうが得策だろう。

 心の中でそう決めると、同時にブザーのような音が室内に響いた。突然鳴り始めた大きな音に、体がびくつく。

『手元のプリントを裏返してください。次の合図と同時に実験を開始します』

 スピーカーから聞こえてきたのは、男とも女ともつかないざらついた声だった。機械を通して声を変えているのかもしれない。僕は指示に従い、プリントをめくった。裏側には表とは違い、比較的大きめの印字がなされている。

 今回の被験体

 二○四号(二○○三年入所 問題行動:特になし)

 ・人間のようですが、人間ではありません。

 ・男のようですが、男ではありません。

 ・気性は比較的大人しい。

 その記述は、全く意味の分からないものだった。紙面に書かれているような生き物が、本当に存在するのだろうか。頭いっぱいに疑問符が浮かぶ。

 そしてその記述の下には、赤い字でこう書かれていた。

 ・自傷癖が激しい。

 僕は首を捻った。

 この一文だけ、何故わざわざ色を変えてあるのだろう。いや、そもそも、自傷行動が問題行動として挙がっていないことの方がおかしい気がする。これ以上の問題行動があるのだろうか。

 そう考えたところで、再びブザーが鳴る。

 とうとう実験が始まってしまったのだ。

 正面にあった白い壁が、するすると天井へと収納されていく。どうやら、壁というよりただの仕切りだったようだ。仕切りが取り払われた部屋は倍ほどの広さになった。

「……っ」

 声が出そうになり、僕は慌てて口元を手で抑えた。

 仕切りの反対側には、大きく透明なケースが置かれていた。僕の座っている位置からケースの外壁までは2メートルほど。そしてその中には、何かが横たわっている。ただ横たわっているのではない。胴体部分が、大きく切り裂かれている。そして中からは、腸と思しきものが、でろりと床にこぼれていた。当然その周囲には血溜りが出来ている。臭いはしない。ケースによって遮られているのだろう。

 これが、被験体だというのか。

 どこをどう見ても、それは人間としか思えなかった。しかも、死んでいる。

 急激に込み上げる吐き気を、ぐっと抑え込む。口元まで溢れ出しかけていたものが、再び胃へと戻っていく。胃液で喉がひりひりと痛んだ。独特のすっぱさが舌の上に広がった。

 死体だ。人間の死体が、たった数メートル先に転がっている。いまだ身内の死にすら直面したことのない僕にとって、それは初めて目にする死体だった。

 部屋の中は静まり返っている。僕が音を立てない限り、この部屋は無音だ。なにせ、この部屋にいるのは、僕とこの死体だけだからだ。

 何度も目を逸そうとしたが、注意事項にあった『対象から目を逸さない』という項目が頭をちらつき、結局僕は吐き気を堪えながらしばらくその死体を見続けた。

 そのうちに、嘔吐もつかなくなった。おそらく慣れてきたのだろう。少しずつ、頭が働くようになってきたのがわかる。

(監視の仕事っていっても、対象が死体じゃあなあ……)

 膝の上にバインダーを置き、胸の前で腕を組む。視線の先では、死体が当然のように同じ場所に横たわっている。

 動かないものを監視して得られるものがあるのか。それは僕には予想すらつかない。けれど賃金を払ってまで監視をさせるということは、この実験にそれだけの価値があるのだろう。

 ふと、路上で拾ったチラシのことを思い出す。

『体力に自信のない方、内向的な方でもOK』

 確かに、この仕事内容なら人と会うこともないし、じっと座っているだけなら体力もいらない。僕はようやく、あのチラシの内容が嘘ではないと納得できた。途端に日給十万円という言葉が現実味を帯び、妄想が頭を駆け巡る。――十万円貰ったら、何をしよう。豪華な食事でも食べに行こうか。いつもはいけないような高い焼肉? 高級なホテルのレストランでフレンチ? でも会社をクビになってしまったのだから、しばらくはこれを元手に生活しないといけないかもしれない。いや、臨時収入なんだから、ぱぁっと使ってしまってもいいじゃないか。

 いつの間にか僕はまぶたを閉じ、夢想に耽っていた。だから、それに気付くことが出来なかった。

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