幻覚

 視覚とは、本当に見えているものだけを捉えているわけではない。これまでの経験を元に、脳が勝手に補足している場合もあるそうだ。さらに、思い込みによってありもしないものが見えてしまうこともあるのだという。後者はいわゆる幻覚というやつだ。

 だからきっと、いま私の目の前にいる頭が割れた男も、きっと幻覚なのだ。

「なぁああああ、みえてえええいるんだろぉおおお」

 男は地の底で這うような呻きにも似た声で、私に話しかけてくる。思わず溜息がこぼれた。これでもう何度目なのだ。こめかみあたりがずきりと痛む。

 詰所のデスクで書類に目を通していたところに、そいつは現れた。気付いたときには、既に私のすぐ横に、割れた頭があった。かがみこむようにして、私の顔を、男は覗き込んでいたのだ。その頭は割れ、白い頭蓋骨が覗いている。眼球はわずかに飛び出し、顔面はおろか全身血まみれ。身に着けているのは、ぼろぼろの布切れのような――私が勤めるこの研究所で、被験体が着せられているものによく似ていた――薄汚れた服だった。そんなものが、知らぬ間にそばにいたが、私は驚かなかった。こういう幻覚は、ここに勤めていればよくあることだったからだ。先日は首と両腕のない女、半年ほど前には体が右半分しかない男が現れた。それに比べると、頭がちょっと割れているだけなんて、大したこともない。だから私は、さして驚くこともなく、そのまま引き続き業務を続けたのだ。

「なあああぁああああ」

 私が男を無視していると、男が唸った。最初は、ただ唸っているだけだと思った。しかしすぐにそれが間違いであることに気付く。

「みえてるだろおォおおオ」

 ――見えてるだろ? 確かに男はそう言った。幻覚に話しかけられるのは、さすがに私も初めてだったので、これには少々驚かされた。

 男の口が確かに動き、言葉を発している。口腔内はねばつき、血液混じりの粘液が糸を引いていた。それを確認して、ようやく室内に鉄錆のような排泄物のような何とも言いがたい悪臭が漂っていることに私は気付いた。随分リアルな幻覚だと内心で思う。それでも私は、男の姿が見えていないふりを続けた。

 男が現れて、一時間もの時間が過ぎたことを、デスクに置いた時計が告げていた。あと三十分ほどで、施設内の巡回の時間になる。それまでに手元にある書類をチェックしておかなければならない。新しく運び込まれたもの、問題行動を起こしているもの、これから処理をしなければならないもの……頭に入れておかなければいけない項目は山ほどある。けれど、どうにも集中できない。この悪臭のせいだ。それに、視界の端にちらちらと頭の割れた男が映り込んで話しかけてくるものだから、苛立ちがつのり頭痛もしている。

 そもそも、この男が来なければ……。

「なあああぁああぁあアアァ、なあアァアアァアァああ」

 男が一際ねばついた声をあげた。

 その癪に触る声が耳に入るやいなや、

「アァアアアアああぁあああァああ」

 体は勝手に動いていた。男が絶叫する。私は怒りにまかせて、男の割れた頭に手を突っ込んでいた。その中に僅かに残った内容物を手先でかき混ぜ、掴み、引きちぎり、床に叩きつけてやった。ピンク色の、魚の白子に似たものが、リノリウムの床の上でべちゃりと潰れた。その上に、男は倒れた。ぴくぴくと数度体を痙攣させたが、すぐに動かなくなった。

 大きく肩で呼吸をする。たった十数秒ほどの出来事だというのに、息があがっていた。額からは滝のように汗が流れている。右手は血で染まり、ぬるぬるとして不快だった。身に着けていた白衣の袖も、うんざりするような赤い液体によってその色を変えていた。それを確認して、私はようやく、この男の存在が幻覚ではなかったことに気が付いた。

 白衣を脱ぎさり、汚れた手をそれで拭く。赤と白の斑模様になった白衣を、床に転がっている男に被せた。壁に設置してある内線の受話器を取る。短縮ボタンを押すと、電話はすぐに繋がった。

「……ああ、君か。詰所に転がっているものの処理を頼む。――そうだ。それが君の仕事だろう?」

 電話の相手は嫌そうな声で受け答えをしていたが、私は構わず一方的に受話器を置いた。彼も仕事だ。すぐにここへやって来るだろう。

 私は再びデスクについた。臭いはいまだに室内にこもっているが、私に話しかけてくる者はもう誰もいない。書類に目を落とし、チェックしながらペンを走らせる。業務の遅れを取り戻さなければいけない。

「幻覚のままでいればよかったものを」

 そう呟いて、床に転がる現実に最後の一瞥をくれてやった。

(了)

       
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