鼻をかむ

 ひどい頭痛だった。一週間ほど前から、右側頭部が鈍く痛むのだ。同時に目の奥をぐじぐじとほじくられるような嫌な感じもしていた。それも右目だけだ。

 体の不調は、まず喉の違和感から始まった。次いで鼻水が出始めたところで、これは風邪だろうと与えられた感冒薬を服用した。二日ほど服用を続けたが、どういうことか症状は快方に向かう兆しをみせず、それどころか悪化すらしていた。その頃になって頭痛に見舞われるようになり、それ以来私はすっかり床に臥してしまうようになった。

 枕元にあるはずのものを手繰り寄せ、そこから柔らかな紙を数枚抜き取った。それを鼻に当て、左鼻を押さえながら、鼻から勢いよく空気を噴出する。鼻腔から透明な液がどろりと溢れたところを、ペーパーで受け止めた。鼻の穴の周辺がひりひりと痛む。もうこれ以上鼻をかみたくはないのに、それでも鼻水が垂れてくるので仕方なく処理せざるをえなかった。

 くらりと目眩がする。力みすぎたせいだ。体を横たえていてもなお、頭はぐるぐると回る。鼓動に合わせて頭痛がする。ぐるぐる。ずきん。ぐるぐる。ずきん。私の意思に関係なく刻まれる不愉快なリズムに揺られていると、まただらりと鼻が垂れてきた。

 ずず、と鼻をかみ、紙で受け止めたものを、私は何となく広げてみた。透明な液に赤いものが混じっていた。さすがにかみすぎたか。私は肩をすくめた。きっと細い血管が切れ、僅かながら出血してしまったのだろう。もう絶対に、鼻をかむもんか。

 けれどそう決めた時に限って無性に鼻が出るものだ。右の鼻が、早くもゆるゆると排出を始めた。えい、くそ、と私は再び枕元のティッシュ箱に手を伸ばしペーパーを引き出した。そして仰向けのまま鼻にそれを当て、天井に向かってこれ異常ないほどの力を込めて鼻をかんでやった。大量の粘液が白く柔らかい紙にへばりついたのが分かる。

 ふと、頭痛が治まっていることに気付く。もしかすると、鼻水が出過ぎていたせいで頭痛が起きていたのかもしれない。私は嬉しくなって、諸悪の根元を確認するため目線を鼻の方へと向けた。

「ん……?」

 何かがおかしい。私は首を傾げた。ティッシュが変色している。それもピンク色に。体を起こし、さらによく観察する。広げられたティッシュの上には、崩した豆腐に似たピンク色の塊が複数付着していた。魚の白子のようにも見える。それをしげしげと眺めた後、

「あ」

 これは脳味噌だと気付いた。脳味噌。脳味噌である。これは私の脳味噌なのだ。鼻をかんだだけで簡単に出てくるなんて、とんだ貧弱な脳味噌だ。私はすっかり呆れてしまった。右手で拳を作り、先程まで痛んでいた右側頭部を小突く。頭の中で、ぬちゃりと粘着質な音がして、それが何とも不快だった。

 そもそもこのポンコツの脳味噌が、しつこい頭痛を引き起こしていたのだ。こんなに簡単に出てくるようなものなら、早いうちに取り出しておいた方がいいんじゃないだろうか。そうだ、そうしたほうがいい。脳味噌くらいなくたって、私は平気さ。だってほら、今もこうして生きているんだ。

 しかしそれ以上鼻をかんでも脳味噌は出てこなかった。これには私も頭を抱えた。何とかして、頭の中から脳味噌を取り出さなくては。

 散々唸った後、私は仕方なく布団を抜け出した。この部屋には窓がない。コンクリートに囲まれ、出入り口は鉄製の重い扉のみだ。外から鍵をかけられているため、自分だけの力では出ることは出来ない。最も、今はここから出たいとは思わない。何せ、私は脳味噌の取り出し作業で忙しくそれどころではないのだ。

 私は鉄扉の前に行き、そこに正座した。まず手で触れ、硬さを確かめる。――よし。これなら問題ないだろう。

 ゴン。

 頭を扉に打ちつけると、重い音がした。脳味噌が入っているせいだ。脳味噌さえなくなれば、頭をぶつけても軽やかな音が響くというのに、今の音ときたら本当に酷いものだ。

 さらに強く。

 もっと強く。

 私は扉に頭を打ちつけ続ける。急がなくては。扉の向こうで私を見張っている奴らに気付かれる前にやり遂げなければならない。奴らは私をここに閉じ込め、長い間監視をしていたのだ。もしや、風邪のような症状は、毎朝与えられていた残飯じみた食事に怪しげな薬を盛られていたせいかもしれない。きっとそうだ。奴らが私の、私を、私、わたし、ワタシ?

 私とは誰だ?

 私とはどこにいる?

 冷たい床の上?

 違う。

 肋骨に守られた牢獄の中に?

 違う。

 頭蓋に収まった脳味噌そのものが私だ。この体は私ではない。私が操る人形にすぎないのだ。

 そうだ。私は自分自身の本来の姿をようやく思い出すことができた。頬を温かい雫が伝う。脳味噌にもっとも近い器官が、私の歓喜に反応して涙を流していた。

 しかしそれが分かってしまったからには、尚更急ぐ必要性が出てしまった。私の本体が脳味噌だと奴らに知れたら、真っ先に始末されるに決まっている。奴らに気付かれないうちにこの殻から抜け出して――抜け出して、どうする?

『何の音だ?』

『直ちに調べろ』

 異変に気付いたのか、扉の向こうから奴らの声がした。反射的にぶるりとふるえる。私はすかさず頭を激しく扉に打ち付けた。早く、早く早く! とにかく脳味噌を取り出すのだ! 私を! 本当の私自身を汚らしい骨の牢獄から解き放つのだ! 急げ! 急ぐんだ――!

 そして私の五感が消滅するその瞬間、扉の向こうでかちゃりと鍵の回る音がした。

(了)

       
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