年神さまにおねがい

 今年の夏、妻と離婚した。役所に届けを出したのは、丁度結婚十年目の記念日のことだった。

 原因は明らかに僕にあった。毎日、毎日、仕事のことだけを考え、家庭のことなど省みたこともなかったのだ。ただ、妻と、そしてたったひとりの娘に、金銭的に不自由な暮らしはさせたくないと思ってのことだった。

 不景気なこの時代、会社から首を切られないよう自らの身を守るためには、会社内で『その他大勢』という立場から抜け出るほかない。

 社内では周囲に細かく気を配るように努めてきたし、あまり好きではない飲み会にも積極的に参加した。誰より早く出社し、そして誰より遅く退社する。代休無しで休日出勤することもしばしばあった。その甲斐あって、僕は社内ではある程度の地位と評判を手に入れた。これで、ようやく安定した生活を手に入れたと、ひとり喜んでいた矢先のことだ。妻が、離婚を切り出してきたのは。

 そうして、妻は出て行った。僕のもとに娘を残して。他に男がいるのかどうかなんて、僕には分かるはずもなかった。最後にまともに彼女と話をしたのは、いつのことだったか。それすらも思い出せないのだから。

 僕は彼女を責めることはできない。できるはずも、ない。

 三人で住んでいた賃貸マンションを引き払い、僕は娘を連れ、実家へと移り住んだ。娘の世話は、母が焼いてくれるというので、ありがたく親の好意に甘えることにした。

 もう、間違えてはいけない。

 僕の心の中は、その想いでいっぱいだった。

 妻のため、娘のためと、がむしゃらに働き続けたことは、結果として間違いだったのだ。安月給でも、いつ首を切られるとも分からない平社員であっても、定時に出社し、定時に帰宅し、休日は家族サービスをする。そんな穏やかな家庭を、妻は望んでいたのだろう。僕はそれを汲み取ることも出来なかった。自分の考えがすべて正しいと思っていた。そんなこと、あるはずないのに。

 だから、実家に戻ってからは、出来るだけ休日出勤は避け、娘と過ごす時間を作った。娘はそれを随分と喜んでくれ、急に母親がいなくなって寂しいだろうに、意外にも気丈な振る舞いを見せていた。
「わたし、ママがいなくてもへいきよ。おじいちゃんも、おばあちゃんも、パパもいるもん」
 せめて娘が、僕を責めないでくれる。そのことだけが、唯一の救いだった。

「クリスマス、何か欲しいものはあるかい?」

 十二月に入ってすぐ、居間でテレビを観ていた娘に、僕は尋ねた。
「サンタに頼んでおくよ」と付け加える。

「うーん」

 すぐに何か、キャラクターグッズなどの名前があがると思ったのだが、娘は困ったように首を捻る。

「欲しいもの、ないの?」

 娘の隣に腰を下ろして、その頭を撫でる。娘は俯き、何事か言いにくそうに口をもごもごとさせていた。何か、高価なものでもねだりたいのだろうか。

「なんでもいいんだよ」

 僕がゆっくりとそう言ってやると、娘はおずおずと顔を上げた。母が結ったふたつの三つ編みが揺れる。

「わたし」
「うん?」
「とし」
「え?」
「としがほしい。たくさん」

『としがほしい』? おもちゃではなく?

 僕は予想外の答えに混乱した。

 そもそも『とし』って……

「としって、あれかい、一歳、二歳の、あの歳かい?」

 確認の意味を込めて、僕は娘に問いかけた。すると娘は、力強く頷いてみせる。

「なんでもいいって言ったけど、歳は、プレゼントできるものじゃあないんだよ」

 ああ、なんでもいい、なんて言ってしまうんじゃなかった。こどもがねだるものは、せいぜいおもちゃぐらいのものだろうと思った僕がバカだったのだ。離婚なんてものを経験しても、自分の愚かな部分は、ひとつも改善してはいないではないか。あまりの進歩のなさに悲しくなり、小さく肩を落とした。

「……でも、おばあちゃんが、もらえるって」

 勝手に落ち込む僕をよそに、娘は頬をぷうと膨らませて、不服そうにもらす。

「ええ、おばあちゃんが? 誰が、くれるって?」
 娘の言葉に驚き、思わず聞き返した。

 母は、真面目なひとだ。嘘なんて、教えるはずもないのだが……。

「としがみさまが、としをくれるって、言ってた」

 その答えに、ああ、と納得と安堵の息がこぼれる。なるほど。そういうことだったか。

「あのね、年神様は、お正月にだけ、来るんだよ」

 今は皆、誕生日を迎えてひとつ歳をとる満年齢を用いるが、かつては、正月に年神様を家に迎え入れ、一年分の新たな魂を頂くことで歳を重ねる数え年で年齢を数えていた。恐らく母は、そのことを娘に教えたのだろう。

「クリスマスには、もらえないの?」

 娘は残念そうに声を落している。かなり期待していたようで、それが表情からもひしと伝わってくる。可哀想なことをしてしまったかもしれない。けれど、だからといって間違いを教えるわけにもいかないだろう。

「そうだよ。だから、サンタさんには、別のものをお願いしようね」

 僕が言うと、娘は再び俯き、しばらく黙りこんだ後、

「でも、いらない」

 そう、ぽつりともらした。

 結局、クリスマスのプレゼントはなしになった。

 ツリーを飾り、小さなケーキとチキンだけを買ってきて、ささやかにクリスマスパーティをしたのだが、娘は終始楽しくなさそうだった。ぐっと何かを我慢しているようだったのだ。

 その様子が心配で、その原因を娘から聞き出そうとあれこれ(大好きなアニメの映画を観に行こうと誘ってみたり、普段は買わないようなお菓子を買ってきてみたり)手を尽くしたのだが、僕の誘いに娘が乗ってくることはなかった。具合でも悪いのかと思ったが、訊けばそれは違うという。決定的な手の打ちようがないまま、クリスマス以降、大晦日までの数日間は、そんなことを繰り返しているうちに過ぎていった。

 大晦日になると、娘は、これまでの様子が嘘のように元気になった。僕と父と一緒に大掃除をこなしたり、母のおせち作りを手伝ったりもしたのだ。

 理由は分からなかったが、それでも娘が元気になってくれればそれでいいと、僕はすっかり安心していた。

 夜になり、いつもより少し豪華な食事を済ませ、年越しそばまで腹に収めると、娘はすぐに「もう寝る」と言い出した。娘が好きなアニメももう終わってしまったし、それに今日一日よく動いたのだから疲れが出たのだろうと、僕は娘を寝床へ連れていった。

「ねえ、パパ」

 娘の部屋で布団を整えてやっていると、娘が声をかけてきた。

「ん?」

 振り返った僕に、娘は何かを差し出した。それは娘の好きなアニメキャラクターが描かれた封筒だった。宛名の部分に『としがみさまへ』とある。

「あのね、としがみさまがきたら、このおてがみをわたしてほしいの」

 私の手にその手紙を載せながら、娘は言った。運動会や学芸会などで見せるより、もっと必死な表情を浮かべている。

 娘の勢いに押され、事態をよく飲み込めないまま、僕は頷いていた。

 娘はそれを見ると安心したのか、嬉しそうに笑って、すぐに布団に潜り込んだ。

「おやすみ」

 電灯を消し、そう言い残すと、僕は部屋から出た。手の中には、たった今預ったばかりの手紙。

 封筒に、封はされていなかった。

 勝手に見てはいけないと思いつつも、中に指を差し入れる。かさりと乾いた感触。中からは、折り畳まれた一枚の便箋が出てきた。それを、音を立てないように広げる。

としがみさまへ
としがみさま、おねがいします。わたしに、としをください。
ママがいなくてもがまんします。だから、たくさんとしをください。
クリスマスプレゼントもがまんしました。そのぶんも、たくさんとしをください。
ほかにもたくさんがまんしました。だから、おねがいです。
わたしは、はやくおとなになりたいです。
はやくおとなになって、はたらいて、パパにらくをさせてあげたいです。
だから、としがみさま、わたしにたくさんたくさんとしをください。
これはわたしのいっしょうのおねがいです。

 短い文章。拙い字で、しかし一生懸命書いたことが見て取れる手紙だった。

 廊下に立ち尽くしたまま、手紙を読みながら僕は泣いていた。だらだらと際限なくこぼれる涙で、頬はもうぐちゃぐちゃだ。口に手の甲を押し当て、嗚咽がこぼれそうになるのを堪える。

 やっぱり、娘は寂しかったのだ。当然だ。まだ八歳だというのに、母親が急にいなくなって、寂しくないわけがない。クリスマスプレゼントだって、本当は欲しい物がたくさんあっただろうに。それなのに。

(ごめん。情けない父親で、ごめん……)

 そんな娘の心すら、僕は理解できていなかった。その上、逆に娘から、気遣われているなんて。

 嬉しかった。悔しかった。悲しかった。切なかった。

 色んな感情がごちゃまぜになって、どうしていいか分からなかった。

 遠くで、除夜の鐘が鳴っているのが聞こえる。

「ゆっくり、大人になればいいんだよ」

 明日の朝、そう言って、娘を抱き締めよう。

 年神様に頂く、新たな一年分の魂いっぱい、娘を愛そう。これから毎年、ずっと。

 ああ、あと少しで、新年が訪れる。

 僕は冷えた廊下でひとり、娘の書いた手紙を胸に、静かにその時を待った。

(了)

 

 

       
« »

サイトトップ > 小説 > その他 > 単発/読切 > 年神さまにおねがい