赤い目覚め

 触れることのできないその赤を、私は美しいとさえ感じた。その感覚は、まさに赤い目覚めであっただろう。

 三角錐を逆さにし、そこから角という角を奪い去り、上向きになった底の部分を発展途上の少女の胸部のように僅かに膨らませた形のそれは、私の目には、一見精巧な臘細工のように映った。夜に生きる女の唇のように異様な程艶めいた赤い色が、そういう思いを起こさせたに違いない。そして、表面にある幾つもの窪みに宿っているであろう、触れずとも明白なほのかな硬さは、その対比によって、赤い唇の感触を、視覚を通じて私の脳髄へと直接伝えた。

 その艶かしい体躯とは裏腹に、少女を想起させる部分だけは、淡い萌黄色の星型の帽子のようなもので覆われていた。星型といえど、尖端部分は妙な具合に間延びしていて、そこがいかにも滑稽である。そしてどこか幼げで、私の庇護欲を無性に駆り立てる程の清純さがあり、それはいっそ頼りなくも思われた。しかし、だからこそ私はその赤を美しいと思い、むしろ愛しささえ覚えるに至ったのだ。

『あなたも、ひとつどう』

 彼女は私に、そう云った。そこに、雲雀のように清浄なる声音は伴われない。淡々と抑揚のない文字のみで、その言葉は綴られている。これだけの短い一文を、途中、読点でひとつ区切ったところが、いかにも彼女らしく感じられ、内容を明確に理解しないままに、私はついその文章を二三度読み返した。

 その短い文章は、彼女から送られてきた電子メールの中で、苺の写真に添えられていた。数時間程前にも彼女からメールが届いていたが、そういえばそこに今日は苺狩りに行くのだという旨が記されていたのを、私は今更思い出し、そうなってようやく、このたった九文字が意味するところを理解した。

 メールが届いたのが朝早かったものだから、一応は確認したものの、それに対して私は返事はしていなかった。何しろ、今でさえまだ布団の中でうとうととしていたところだったのだ。しかし、毎週土曜日の午前中は、殆んどこういう生活を送っているし、それは彼女もよく知っていることだったから、一通目のメールに対して返信していないことに、私は罪悪感をかけら程も抱いていなかった。

『美味しそうだね』

 布団を被ったまま俯せに転がり、手だけを外に出して携帯電話のキーを操作する。そして私も、彼女に倣って短い文章を送った。いくら欲したところで、所詮本物が手に入るわけでもないから、返信の内容がいかにも素っ気なくなるのは仕方のないことだ。

 メールが正しく送信されるのを確認してから、携帯電話を畳の上に放る。枕元の目覚まし時計が午前十一時を示していた。締め切った厚いカーテンの向こうが、まばゆい程に明るく、思わず目を細める。朝の陽射しは、季節を問わず殺人的だ。白昼から逃避するように、私は瞼を閉じた。しかし瞼の裏までも、陽射しは追いかけてきた。私の視界は、一瞬で真っ赤になった。血管が透けているのだ。閉じた瞼の裏で、私は鮮やかな血の赤と、その脈動を見た。その赤が、先程送られてきた苺の色と不意に重なった。刹那の闇、その後、無が訪れる。

現実を覆うように、私の眼前で無を繋ぎ止めていたものは、ひりひりと鼓膜を鋭利に摩擦する電子音によって断ち切られた。闇に包まれていた視界は一瞬の赤を経て、白へ。そして激しく明滅。酷い頭痛がした。それはいかにも暴力的な覚醒だった。いつの間にか、眠ってしまっていたようだった。目の前には、未だに白い靄がかかっている。

 電子音は止まない。目覚まし時計をかけていただろうか。そう、ぼんやりとした頭でぐずぐずと思考しながらも、しかし私の手は無意識に布団の外へと伸びた。指先は勝手に、冷たく硬質な、角ばったそれを摘み上げる。手のひらでその全体を覆うと、電子音のボリュームが少し下がり、また微弱な空気の振動がそこから感じられた。

 音の出どころは、携帯電話だった。私は相手も見ないまま、また通話キーの位置も確認しないままに、適当にボタンを押す。

「……はい」

 携帯電話を耳にあて、通話口に向かって短く呼びかけた。口腔内は乾いていて、張りついた粘膜が名残惜しげに離れていく嫌な音がして、思わず眉を顰める。天井からぶら下がった、底のない箱型をした古風な電灯器具が、穏やかな橙色をうっすらと映していた。

『起きたのね』

 受話口の、小さなその暗い穴の奥で、幾重にも薄膜を挟み込まれてなお、その声が清浄さを保っていたことは、胸の中心を十字架で穿たれるような衝撃を、私に与えた。私は反射的に、体を布団の上に起こした。頭皮と頭蓋の間にこそ心臓があるのではと錯覚する。目眩がした。

 写真に撮られた赤い苺を、私は思い出していた。夜の女に似た艶やかさを。少女を想起させる清純さを。ふたつを引き立てる萌黄色の滑稽を。そしてそれらを包括する美に対する鮮やかな思慕を、私は確かに思い出したのだ。

『……それとも、まだ眠ってるの』

 私からの返答がない為か、彼女はそんなことを口にした。それが、私の頭の中にある苺のへたを、無惨にも一刀で切り落とした。

「起きたよ」

 憮然とした調子の言葉が漏れた。それは私の心情を如実に現していたのだろうが、しかしこのことさえも、今の私にとっては心外であった。

『ねえ、私、あなたと喧嘩したいわけじゃあないのよ』

 そんな私が、彼女の声に陰ができたのを、見逃すはずもなかった。

「知ってるよ。誰かと苺狩りに行ったから、それを自慢したいだけなんだ」

 苛立ちに任せて、私は言った。携帯電話を耳にあてたまま、いまだ覚束無い両足で立ち上がり、厚いカーテンを摘んで、その隙間から外を覗く。街はすっかり夕暮れの色に染まり、その空の遠いところをカラスが二羽、ゆったりと並んで飛んでいた。

 結局私は、一日中眠っていたのである。土曜の午前中を眠って過ごすことはいつものことだし、その延長で夕方まで目を覚まさないこともあるから、別段珍しいできごとでもないというのに、今日ばかりはそれを許した自分の怠惰が酷く腹立たしかった。

 カーテンを開き、私は薄く瞼を閉じた。そこに見える血液の赤が、今はただ悲しく感じられた。

『ねえ』

「うん」

 彼女の短くも優しい呼びかけに対し、幼子のように素直で自然反射的な呼応が起った。

『苺に、棘はないのよ』

「……うん」

 涙が溢れそうになる。

 写真に収められたあの苺の赤は、血の赤だ。私の中に脈脈と受け継がれてきた、遺伝子の色なのだ。そんな色をした苺を間接的に目にした瞬間、私は臘細工のように美しく艶のある肌に、そっと口付けて、そしてゆるく歯を立て、凶器じみたその甘酸っぱさを享受したいと思ったのだった。その味は、きっと私の胸を深く抉り刺すだろう。苺は赤い十字架だ。尖端の角を落としたとしても、それは歴とした懺悔の標なのだ。

 不意にこつこつと、乾いた音がした。それは玄関から聞こえている。大方、新聞の勧誘か、公共放送の集金だろうと思われた。ひとり暮らしの私の部屋に訪ねてくるのは、殆んどがそういう輩だった。普段であれば、居留守を使うところだが、このまま電話で彼女と話し続けるのは非常に息苦しいことだったので、今日ばかりは、玄関の向こうにいる望まぬ来訪者に感謝した。

 瞼を開ける。水の中にいるかのような、ぼやけて歪んだ視界を、手の甲で拭って破壊する。 

「ごめん。誰か来たみたいだから切るよ」

 私は努めて素っ気なく言った。

 彼女は『そう。じゃあ』とだけ短く答えて、通話を切った。彼女との繋がりが切られた証明である、冷淡な電子音を確認すると、私は携帯電話を布団の上に放り投げ、玄関へと向かった。

 もはや彼女との通話は終わったのだから、律義に来訪者の応対をする必要もないだろう。しかし私は、今回だけは居留守を使わず、正直に応対することにした。新聞の勧誘であれば、一年位はとってみてもいいかなとさえ思ったし、また、観もしない公共放送の料金を払っていいとも思った。

 ドアのノックはいまだ続いている。

 私は返事もせずに、ましてやドアスコープから来訪者の正体も確認せず、ちゃちな錠を回し、ドアを半分ほど開けた。

「どちらさまでしょう」

 そう口にしたものの、私は言葉の途中で、来訪者の正体に気付いた。しかし勢いよく放った言葉は止めることができずに、私はよく知った相手に、そう問いかけてしまった。

「私」

 彼女は少しはにかみながら答えた。幾重もの薄膜を取り払われたそれは、どこかジョウビタキの地鳴きを思わせる。控えめで、清廉さがあり、しかし高く通る声だ。

 柔らかな風を孕んだように、緩く波打った黒い髪。薄く施された化粧の上からもはっきりと判る、薔薇色の頬。やや垂れた目は細められ、視線は他でもない私へと向けられている。

 彼女が突然私の元を訪れたことは、激しい衝撃を私に与えた。同時に、全身をきりきりと捻り上げられるような感覚が襲う。ノブを握ったままの手が震えていた。

「電話で教えてくれればよかったのに」

 言って、何とか表情を繕おうとする。だが、口元は明らさまに引き攣っていた。

「教えたら、あなた、断るでしょう?」

「そんなこと――」

 言いかけて、口を噤む。確かに、彼女の訪問を何度か断ったことがあったからだ。

「……今日は、誰かと一緒だったんじゃないの」

 代わりに、私はそう尋ねた。ノブを掴む手に自然、力がこもる。できるならば、最もしたくない質問だった。けれどそれを口にせざるをえないほど、私の精神は切迫し、今にも捻り切れそうだった。

「ええ。でもあなたのところに寄ると言ったら、先に帰るって。……きっと、あなたに遠慮しているのね」

「…………そう」

 私は僅かに視線を落とした。幸福に満ちた彼女の表情を見るのは辛かった。彼女は背中で両手を組んでいたので、幸いにもその指を見ずとも済んだ。

「ねえ」

「……うん」

「私、あなたと、喧嘩をしたいわけじゃあないのよ」

 彼女は先程と同じことを、再び口にした。

「……それは、知ってるよ。本当だよ」

 念を押すように応える。これが、彼女の求めている言葉でないことは理解していた。だが、彼女の求めに応じることは、私の密かなる純情が、決して許そうとはしなかった。否、それは永遠に許されるはずがないのである。

「……ごめん」

 私は呟くように謝罪した。謝る以外、どうしていいか分からなかった。

「ううん。私こそ、ごめんなさい。やっぱり、連絡せずに来るのはだめね。次は、きちんと連絡してから、ここに来ることにするわ」

 彼女は、声を萎れさせて言った。そうさせたのが自分だと思うと、私の心もみるみるうちに萎れていった。

「でもね、もしあなたさえよかったら、これ」

 彼女は、萎れた声に添え木を当てるように言葉を絞り出すと、私の前に藤籠を差し出した。御伽話の主人公が持っていそうな、取っ手のついた大きなそれには、こんもりと何かが入っているのが見て取れる。しかしその上には白い布がかけられていて、中身を窺うことはできなかった。

「これは何?」

「苺よ。あなた、美味しそうって云っていたから」

 彼女の指先が、白い布を摘んで取り去った。その瞬間、私は見てしまったのだ。彼女の左手を。薬指の根元で銀色に輝く円環は、私の悲しき純情のための、歪な墓標であった。

「そう、こんなにも……。ありがとう、姉さん。ゆっくり食べるね」

 籠を受け取りながら、私はもはや彼女の足元ばかりを見ていた。彼女の履いたブーツに、僅かに土が付着してた。私であれば、この汚れすら見逃すはずはないのにと思うと、腹立たしくもやるせない気持ちになった。

「また、来るわね。……そうだわ。今みたいに、不用心にドアを開けてはだめよ。チェーンは、必ずかけておくの。いい?」

 この部屋に、ドアチェーンなどという高尚な防犯設備はない。鍵だって、簡単に偽造出来てしまいそうな古いものだ。ひとり暮らしをするために部屋を探した際、細かい部分まで確認するだけの余裕は、私にはなかった。すぐにひとりになれる場所があれば、それだけで充分だったのだ。そして彼女は、そんな私の精神的な事情を、何も知らない。「そうだね」と曖昧に答えた。

 そうして、彼女は去っていった。私は閉じた玄関のドアを、暫くぼうっと見つめていた。

 藤籠に山積みにされた苺。その中から無造作にひとつを摘み上げる。

 そこに、写真で見たような艶やかさはもはや存在していなかった。種の部分は寒気がしそうなほど、硬そうに思える。萌黄色のへたは、よく見れば僅かに端のほうが茶色がかっていて汚らしかった。純情さを帯びた緩やかな膨らみは、他の苺と肌を寄せた為か、僅かに窪んでいるところがある。写真の中の苺が見せた美しさは、すっかり失われ果ててしまったのだった。

 籠の中にあるのは、すべてただの苺に過ぎなかった。きっと甘さなどかけらもないのだろうと思われた。

 私は摘んだ苺の先端に、軽く歯を立てた。

 途端、舌の上に春が広がった。それは柔らかく華やかな甘さだった。鼻から抜けていくゆったりと優美な香りは、私が欲し続けているそれによく似ている気がした。

 私自身の歯の痕がくっきりと残った食べかけの苺を、臘細工を扱う丁重さで、私はそっと、胸に抱いた。

 涙が溢れ、こぼれ落ちる。そしてその滴が、山積みになった赤に、ほんの一時の艶めきを与えたのだった。

(了)

       
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