喫茶店の街

 私が初めて喫茶店というものに入ってみた時、そこの主人はあからさまに嫌そうな顔をして「イヤホーンは外してくれないか」と告げた。

 その言葉に、自然と眉根が寄った。

「イヤホーンなんて、してませんよ」

 刺のある声でそう返し、そして両耳にかかった髪をかきあげた。イヤホーンなんて私はしていないのに、それを外せだなんて、随分と失礼な話だ。

 それでも店主は表情を変えず、

「してるだろう、イヤホーン」

 あくまでもそう言い張るばかりだった。

 この喫茶店がある街には、引っ越した友人と会うために、初めて訪れたばかりだった。友人との約束の時間までは少し余裕があったものだから、待ち合わせ場所から一番近く、そしてたまたま目に止まったこの喫茶店に入ったのだ。だから別段、この店を選ぶに至るような特別な拘りがあった訳でもない。何せ、この街を訪れたのが初めてだったという以上に、喫茶店というものに入ることすら、私にとっては人生で初めての経験だったのだのだから。

 だから、こんな失礼な店はさっさと出て、別の喫茶店を探したって、私は何ら構わなかった。もし他の喫茶店が見付からなければ、少し寒いが待ち合わせ場所で立って待っていればいいだけのことなのだ。とにかく、こんな訳の分からないことを言う男になど、とてもじゃないが付き合っていられないと思った。

「じゃあもう、いいです。出ますから。さよなら」

 私は口早に言って、踵を返した。そして入口扉のノブに手をかける。

「イヤホーンを外さない限り、きみはこの街のどの喫茶店にも入ることはできないよ」

 私の背に向け、店主はそう言い放った。思わずぴたりと動きを止める。イヤホーンのことはともかく『どの喫茶店にも入ることができない』とは、一体どういうことなのだろうか。

 考えかけて、左右に頭を振る。こんな男が言うことなど、デタラメに決まっているではないか。付けてもいないイヤホーンを外せというような妄言を吐く男だ。それに、客を店に入れない喫茶店など、そうそう存在するはずがない。客が来なければ、店は潰れるのだ。インターネットが普及したため、近頃は客の口コミが世間に拡がるのも早い。この店だって、私がインターネット上に悪評を載せれば、きっとすぐに潰れてしまうに違いない。実際にやるかどうかは、別にして。

 だから、何も気にせず店を出れば、それで済んだのだ。……だが、私はなんとなく、そのバカバカしい妄言が頭に引っかかって仕方がなかった。しかし、今更こちらから尋ねるのも癪ではある。そう思いあぐねていると、男は何も前置きせず、静かに語り始めた。

「ここは、喫茶店の街。喫茶店を愛する者が集まる場所だ。

 喫茶店は、単なる時間潰しの場所じゃあない。豆を挽く、湯が沸く、湯を注ぐ。挽いた豆やネルにじわりと浸透していく湯。抽出された褐色の液体が落ちる。立ちのぼる香り。カップとソーサーが触れ合う微かな音。コーヒーを口に含めば、舌先に、その奥に感じる、苦みに酸味。香りが鼻を抜けていく僅かな恍惚感。喉を流れていく感触。それらが胃を満たす安心感。――人間の五感、いや六感を総動員させる幸福。そういったものを味わって貰うために、私は、私たちは喫茶店を経営しているんだ。

 それを、きみは、何だ。私の話を、まるでバカにして聞こうともしない。そんなきみは、イヤホーンをしているのと、何が違うというんだ?

 こうやって私の話を聞いたところで、きみは『たかが喫茶店ごときが』と鼻で笑うだろう。だからきみは、この街のどの喫茶店にも入ることはできない。……何せここは、喫茶店の街だから」

 店主の話が、そこで終わったかどうかは分からない。ただ、それを聞いているうちに、私の頭の中は、ずぶりずぶりと浸入してきた得体の知れぬ茶褐色によって侵されていく錯覚に襲われていた。それを振り払うように、慌ててドアノブを回し、私はそのまま外へ出た。振り返る勇気など、私にはなかった。

 そして、後ろ手に扉を閉める瞬間、私は初めて、店内に充満していた濃密なコーヒーの香りに気がついた。

 喫茶店を出た私の目に最初に飛び込んできたのは、別の喫茶店の看板だった。右を見ても、左を見ても、目に入るのは『喫茶』『カフェ』の文字。そしてそれら全ての店からも、先程の店と同様に、焙煎されたコーヒー豆の香りが漂っている。いや、もしかすると、各店舗から漂ってきているわけではないのかもしれない。この時の私には、この街自身が、ほろ苦い芳香を放っているような気さえした。

 咄嗟に片手で鼻と口を覆い、私は駆け出した。待ち合わせ場所を素通りし、そのまま駅に引き返す。そして、ホームにたまたま到着していた電車に、行き先も確認せぬまま飛び乗った。一刻も早く、この街から離れたかったのだ。

『たかが喫茶店ごときが』などという捨て台詞は、とてもではないが口にできるはずもなかった。

 

 ――あの一件以来、脳の隙間を埋めていくようなコーヒーの香りが、私には恐ろしくてたまらなかった。

 待ち合わせをしていた友人とは、一切連絡を取っていない。友人の口から喫茶店やコーヒーの話が出るのではないかと思うと、関わりあう気には到底なれなかった。

 あれからすぐ、私は仕事を辞め、地方の田舎町に移り住んだ。自分の住んでいた街にも、多くの喫茶店があることに気付いたからだ。喫茶店どころか、民家さえ疎らなこの場所なら、きっとあの香りに怯えることなく暮らすことができるだろう。そう考えたのだ。

 移住してから、もう十年が経つ。けれど今でも時々、店主の言葉がふと思い出されることがある。そして、両手で耳を塞ぐと、どこからともなく漂ってくるのだ。焙煎されたコーヒー豆の、焦げたようで、しかしどこか清清しさのある香りが。

 これはきっと、あの日喫茶店の街で出会った店主が、私に対してかけた呪いだ。私はもはや死ぬまで、あの香りの虜囚なのだろう。

(了)

       
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