イトマキニンゲン

 玄関の扉を閉める。ぎい、と丁番が軋む嫌な音がした。屋根のない廊下の先にある急な階段を降り、自室の番号が油性マジックで汚らしく書かれたポストの前に立つ。それに指をかけ、引く。かぱ、と間抜けな音がして、アルミ製の蓋が開いた。

 中には一通の封書。送り主は実家の母親だった。大方『働きもしないのならば帰ってこい』という旨の内容に違いない。溜息をつきつつ、乱暴に封を切る。中から出てきたのは、薄っぺらく向こう側が透けそうな便箋が、たった一枚。首を捻りながらも、それを広げた。そこに記された文言に、自然と眉根が寄る。

『勘当する。今後は仕送りも一切しない』

 俺は封筒と便箋を重ねて、細かく千切り、ポストの下に置かれていた共用のゴミ箱に捨てた。

 こんなものは、どうせ脅しだ。来月になれば、きっとまた口座に金が振り込まれるに決まっている。なにせ、俺が大学を卒業して以来、定職にも就けず、また、アルバイトすら長続きしないでも、親は苦言を呈しつつ送金は続けられてきたのだから。

 ――けれど、月が替わっても、金は入ってこなかった。

 苛立っていた。親の携帯電話を呼び出しても、『この電話はお客様の都合により――』などとアナウンスが流れるだけだった。実家に直接電話をかけても、誰も取らないか、すぐに切られてしまうようなことが続いていた。

 仕送りの日から数日後、もしかしたら今日こそは、と思い、ATMで記帳をした。しかし実家からの送金がないどころか、今月分の家賃が引き落とされていた。五万円。もう残高が少ない。月末が近くなれば、携帯電話の利用料だって引き落とされる。併せて光熱費も。それに、食費だって要る。

 誰かに用立てを、と考えるが、そんなことを頼める相手はいなかった。大学の友人たちはみな就職してしまって、最近は仕事で忙しいのか、連絡は長くきていない。

 今日も、俺は部屋の中で、床に広げた通帳を前に胡座をかいて、それをただ眺めていた。眺めるだけだ。何もしない。とりあえず、働かなければとは思う。

 しかし、電話が一度でも親に繋がったなら。その時に謝罪のひとつでもして、許しを乞えば、また送金が再開されるのでは――そんな淡い期待が俺の中にあり、なかなかアルバイトを探しに行く気にもなれなかった。

 つけっぱなしのテレビでは、子供向けの特撮番組が流れている。日曜日特有の番組編成だ。早く日曜日が来るようにと願っていた学生の頃が、急に懐かしく思えた。

 通帳の横に折り畳まれた携帯電話が転がっている。それを目にして、ふと、学生の頃、友人に進められて登録したSNSのことを思い出す。特別興味もなく、また内心面倒だと思っていたから、二三回ほど更新してから放置したままだった。

 俺は携帯電話を手に取って開き、キーを操作し、インターネットに接続した。ブックマークフォルダを探る。

「あ……った」

 思わず呟いていた。ブックマークの中に、SNSの名前を見つける。すかさずそれを選択し、サイトに繋ぐ。すぐに自分のプロフィールページが表示された。画面をスクロールさせ『友人の更新』という項目を確認する。大学時代の友人の名で、いくつも日記が更新されていた。日付はどれも新しい。

 彼らは、こんなところでコミュニケーションをとっていたのだ。だから、俺のところには誰からも連絡が来なかったに違いない。

 深く安堵の息を吐く。ここに、まだ友人がいる。何とか彼らと会えたなら、少しぐらい金を借りることもできるかもしれない。俺はしばらく、友人の日記を読み漁った。

 とりとめのない日常の記述。仕事の愚痴。その中で、ある一文が俺の目をひいた。

『次の日曜日、みんなで集まらないか?』

 俺をこのSNSに誘った友人の日記に、それは記されていた。彼の言葉に呼応し、他の友人(俺が名前を知っている程度の奴から、一緒に飲み会をしたことのある奴まで)数人が、その記事にコメントを寄せている。

『いいね。久しぶりに。場所はどこにする?』

『新宿か池袋? 渋谷はナシなー』

『断然池袋っしょ。ナンジャタウンで餃子食おうぜ』

『了解。じゃあ日曜十時、西武池袋駅前集合ってことで』

 記事の日付を確認する。四日前に書かれたものだった。

「次の日曜……今日のことか」

 今日、十時、西武池袋駅前に行けば――彼らに会える? 

 携帯電話の画面の隅に表示されている時刻。午前九時二十分。

 慌ててテレビのリモコンを掴み、電源を落とす。画面の周辺から、一瞬で黒が押し寄せ、ぷつりと映像が途切れた。リモコンを床に放る。かわりにテーブルの上に放っていた財布を拾い上げ、ジーンズの尻ポケットに捻じ込んだ。サイドポケットには音楽プレイヤーを突っ込み、そこから伸びたイヤーフォンを両耳に差し入れる。そして開いた携帯電話を手にしたまま、俺は急いで部屋を出た。

 幸い住んでいるアパートは、降車駅に池袋を含む、東京メトロ有楽町線の氷川台駅にほど近い。

 大丈夫、間に合う。焦るな。

 駅に向かいながら、そう自分に言い聞かせた。

「俺はひとりなんだ」

 聞き馴染んだ響きに、我に返る。その言葉は、俺の口から勝手にこぼれたものだった。

「――ち、違う……ひとりなんかじゃ」

 孤独を紡いだのと同じ唇で、それを否定する。そして床に尻をつけたまま、じり、と後退。しかしすぐ背後の鉄柵にぶつかった。

 手の中にある硬質な物体に、ふと意識がいく。メール画面が開かれたままの携帯電話だ。

 息を飲む。正面には、糸巻生物。三日月型の口は、もうどこにも見えない。それらの視線はもはや無関心以上でも以下でもない、単なる視線でしかなかった。

 それらから逃げるように、携帯電話を見る。ボタンを操作し、メールに記載されたURLをクリックした。

 もしかしたら。もしかすると。そんな思いで、僅かな可能性を祈る。

 SNSに繋がる。手紙マークのアイコンの横に、赤く『1』とあった。それを選択。画面が切り替わる。メッセージが表示された。

「な……、え?」

 緊迫感のない声が、思わず漏れた。

 ――あなたの友人登録数がゼロになりました。この状態が長く続きますと、あなたのアカウントは削除されます。引き続き当SNSをご利用になりたい場合は……――

 理解できなかった。このメッセージの意味が、まるで頭に入らない。

 ゼロとは何だ?

 誰もいないということか?

 友人が?

 ついさっきまで『友人一覧』に並んでいた彼らが?

 俺に、友人が、いないって?

「ほら。君に繋がる縁は、もう全部切れてしまった」

 頭の中から、その声は聞こえた。頭蓋骨の中で反響し、言葉が幾重にも重なっている。しかしすべてが同じ響きではなく、ひとつは子供の、ひとつは老人の、ひとつは女の、ひとつは男の、それぞれ違う色を持っていた。

「縁……?」

 脳が軟らかな膜で覆われてしまったように、思考が鈍い。

 俺の右側から、黒い顔が、ぬう、と伸びた。三日月型の赤い口を、さらに細めて笑う。

「縁でもって生きるのが人間だ。だから君は――」

「……人間、じゃない?」

 俺は呟く。黒い顔が大きく頷いた。

 携帯電話を握った右手に目を落とす。力仕事をしない、細い指。屋内で過ごすことが多いせいか、異様に青白い肌。

 左手で、頬に触れる。微かにそこは濡れていた。じっとりと湿り、そして温かい。生きている者の温度だ。

 ゆっくりと顔を上げる。俺に対してすっかり興味を失ってしまったのか、巨大な毛玉の群は、何事もなかったかのように、右へ、左へと動いていき、あるものはエスカレーターを昇り、あるものはメトロポリタンプラザへと入っていく。それらはみな、赤、黒、青黄緑白ピンク紫茶――様々な色の糸で、ぐるぐると巻かれ、ずよずよと蠕く体を持っている。

「あれが」

「そう、あれが人間だよ」

 黒い顔が、俺の顔に重なった。暗転。コールタールのような色のそれは、小動物に似た温度だった。血のように赤い口が、俺の唇に触れた気がした。舌に広がるのは、想像していた通り蜜の甘さ。それが歯列を割り、口腔内をぬらぬらと撫で回し、体の奥へと進入していく。心臓が、大きくひとつ跳ねた。

「割り切ってしまえばいい。そうすれば苦しまなくても済むんだ。人でなくなるのは、意外と楽しいものさ」

 体が内から満たされていく。充足感、そして幸福感が、頭の中を蕩けさせる。

 すべてを委ねてしまえばいい。どうせ、俺は人間じゃない。友人も、家族も、もう――いや、俺にはもはやそんなものは必要ないのだから、考えるだけ無駄なことだ。

 一瞬の浮遊感。体から重さという重さがすべて消えうせる。しかし、

「――残念」

 すぐに落下に似た感覚があった。高熱にうなされた日のように、体が重怠い。――ああ、こんな重みも、もう要らないのに――

 めり、と音をたてて、何かが剥がれた。黒で覆われていた視界が、急激に明るくなる。いつの間にか、目を閉じていたようだった。瞼越しに感じる眩しさに、思わず眉を顰める。

 胃で、食道で、ぬるりとしたものが蠕いた。それが徐々に後ずさっていき、口腔内でのたうち、舌の上で名残惜しげに震え、唇を割って、外へと這い出していった。舌先には、甘い、蜜の味が残る。舌が蜜を追い、唇から外へと伸びるが、再びそれを捉えることはできなかった。

「袖振り合うも多生の縁、ね」

 瞼の向こうから射す光が、僅かに翳った。笑い声が降る。くすくすと。それは、衣擦れの音に似ていた。黒く、艶のある、闇と同じ色をした布同士が、絡まり合う音に。

「おめでとう。そしてさようなら――」

 瞼の向こうで影が揺れた。恐る恐る、瞼を上げていく。視界が開けるその一瞬、俺は黒い顔を見た。赤い口を細めて笑う、あの黒い顔を。

「――人間の君」

 目を見開く。

 黒い顔はもうどこにもない。

 代わりに世界が白で塗りつぶされている。

 大きく体が跳ねた。

 全身から酷い汗をかいている。 

 呼吸が荒い。

 背中に鉄柵の、尻に床タイルの、冷たさ。

 関節という関節が、古い機械のように、ぎいと軋む。

「っ――は、ぁ…………」

 首筋に流れる汗を腕で乱暴に拭う。

 じっとりと湿ったTシャツが、肌に張りついて不快だった。

 視界いっぱいに広がっていた白が、ぞわぞわと逃げていった。

 そうして白一色の世界は、徐々に本来の形を取り戻していく。

 広場のエスカレーターが。メトロポリタンプラザの自動扉が。ベンチが。石タイルの床が。そして行き交う――

「え、あ……」

 俺は、それを目にした途端、思わず何度もまばたきを繰り返していた。

 人の形をしているものが人間ではなく、ぐるぐると糸で巻かれた生物こそが本当の人間なのではなかったか? それが現実なのではなかったか?

 けれど、目の前を通り過ぎる者はみな、俺と同じ色の肌をして、顔にはふたつの目と耳、そしてひとつの鼻と口があり、衣服を身に着け、靴を履いていた。誰ひとりとして『体に糸を巻かれてなどいない』のである。

「人間……人間……これが人間、だっけ」

 ぽつりと呟くが、誰も答えてはくれなかった。口腔に溜った唾を飲み込む。もう甘い味はしなかった。

 背後の鉄柵に左手をかけ、力を込める。両足で地面を強く踏む。ぎちぎちと、噛み合わせの悪い歯車の悲鳴が膝から聞こえた。立ち上がるなり、足元がふらつく。仕方なしに、腰の高さほどの鉄柵によりかかる。

 赤い花柄のワンピースを着た若い女が、広場のベンチに座っている。エスカレーターで地上を目指すのは、体格のよいスーツの男だ。太った女が、丈の足らないカットソーと異様に短いスカートを履いて、つくしのように細長いひ弱そうな男の腕を引いて、メトロポリタンプラザへと入っていく。少年が楽しげに笑いながら、俺の前を通り過ぎた。ぴん――ぽん――。改札が鳴る。

(俺は、人間……じゃない?)

 行き交う『人間』を目に映しながら、そんなことを思う。頭は、どこかまだ痺れが残ったように、ぼんやりとしていた。

『人間の君』

 黒い顔の言葉。

『縁でもって生きるのが人間だ』

 黒い顔はそうも言った。

 行き交う人を目に映しながら、俺は顔の前に右手をかざした。その手には、開いたままの携帯電話。画面に表示されているのは、SNSからの皮肉なメッセージだ。曲げられた五指をゆっくりと開いていく。携帯電話が足元に落ち、がち、と乾いた衝撃音が響く。それを、三度は拾わない。

 ――ずよ。

 視界の隅の方で、蠕く何かがあった。

 ずよ。

 それが何か。俺は知っている。

 ずよ、ずよ。

 俺の右腕を、それは這う。ゆるゆると。探るように。

 ずよ、ずよずよ。

 茶色い、糸。ところどころが切れそうなほど捩れ、擦り切れている。また、もつれあい、玉のようになっている場所もあった。それが腕を伝い、手首を捉え、手のひらに、指先に巻きついていく。

 俺はこの糸を、見たことがある。同じ糸で巻かれた『人間』を。

 肩に温かいものが触れた。

「君」

 しゃがれた男の声。俺はゆっくりと振り返る。

 真横に、それは立っていた。茶色くくたびれた、糸の塊。それが俺の肩に触れている。そのぐるぐる巻きの毛玉の頂点から伸びた糸が、俺の腕へと巻きついていた。糸が、俺とそれとを、繋いでいる。

(これが、縁)

 糸巻人間の糸が、俺へと送られ、糸がなくなった部分から、頭が現れる。中年の男だ。しわが目立つ、疲れた顔をしている。彼がかけている古ぼけた楕円型の眼鏡は、少し傾いているようにも見えた。乾いた土のような顔色。その中で、口元だけが、一際異様な形をしている。

(そしてこれが……人間)

 茶色の糸巻人間は俺を『視て』いた。そして言う。

「さっきからずっとひとりで立っているみたいだけど。どうだろう、君さえ良ければこのあとおじさんと、……ねえ?」

 ぬらりとした赤い舌が覗くその口は、まるで細い三日月のような。

(了)

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