イトマキニンゲン

 アパートを出て、駅に向かうまでの道のりで、『今日はいやに人通りが少ないな』と、なんとなくは思っていた。本当に『なんとなく』だ。けれど、両耳は音楽プレイヤーから伸びたイヤーフォンで塞がれて、外の音なんてまるで聞こえはせず、視線はといえば、開いた携帯電話の画面にだけ向けられていたから、最寄駅から地下鉄有楽町線に乗り、池袋で降り、そして改札を出るまで、俺は周囲の異常に全く気付くことができなかった。

 これから、友人と待ち合わせの予定があった。場所は西武線池袋駅前。有楽町線改札からは徒歩で数分だ。けれど、目の前に広がる光景に、そんな予定なんてすぐに頭の隅に追いやられ、そして俺はその場から動くことができなくなっていた。

 有楽町線和光市方面側の改札を出れば、そこは地下一階を長く、そして複雑に伸びる、幅広の地下通路が続く。改札の目の前は吹き抜けの広場で、設置されたエスカレーターからは地上へ出ることができるようになっていた。

 各線の池袋駅は、いくつもの巨大な駅ビルに直結している。西武百貨店に東武百貨店。あまり足を踏み入れることはないが、確かパルコもこの地下通路でつながっていたように思う。この広場もその例に漏れず、メトロポリタンプラザという商業ビルへの入口を兼ねていた。――女性服売り場が多いから、ここもまた、俺にはあまり縁のないところで、一年に一度、八階にある映画館を訪れることがある程度だ――だから休日ともなれば、この広場で多くの人が待ち合わせをしている。しかし、今日は、その『当たり前』の光景は、どこにも見当たらない。

 改札を出た俺の目に、『人』は映らなかった。そのかわりに、ずよずよと蠕く何かが無数にある。それは巨大な毛玉だ。何かを土台に、赤や、黒や、青黄緑白ピンク紫茶――様々な色、様々な太さの、それこそ『糸』としか表現しようのないものが、ぐるぐると巻かれているようなのだ。

 何かのイベントか何かだろうか。そう思いたかったが、そんな思考を許さぬほどに、それは異常な光景だった。

 立ち尽くす俺の横を、茶色くくたびれた糸で巻かれたものが、ふらふらと通り抜けようとした。僅かに俺の肩に、その毛玉がぶつかったが、それは何事もなかったかのように、改札を抜けていく。呆然と見送ったその背(としかいいようがない)で、あちこち糸が絡んでいるのが見えた。

 俺は視線を広場へと戻した。とにかく、正常な人間を探さなければいけないと思ったのだ。この場から動くことは憚られた。動けば、二度とここへは戻って来られなくなるような気がした。

 体を硬くしたまま、視線を巡らせる。

 ふと目に付いた、ベンチに座っているように見えるそれは、目が眩むほどに赤い。目を凝らせば、少し細身なシルエットを持つ赤い糸塊の下から、太く黒い糸が覗いていた。さらに黒の隙間から、だらしなく一本(これは巻かれずに)ピンク色の、電源コードほどの直径を持つ、やけに艶めいた糸が、短く垂れている。

 そのピンク色の糸が、風もないのに、ひらりひらりと何かを誘うように揺らめいていた。何かに似ている。その何かを、俺はすぐに思い出した。何しろ、随分良く似ていたから。釣りに使う、疑似餌に。ワームと呼ばれるタイプのものとそっくりなそれは、動きまでも、魚を誘う際のそれと酷似していた。激しく全体を揺らしたかと思えば、力なく垂れる。暫くすれば、また弱々しく身を捩り――。

 かつ、と乾いた音を立てて、携帯電話が手からこぼれ落ち、タイル床に叩きつけられる。そうして空いた両手で、俺は咄嗟に口を抑えていた。胃の奥から、苦いものがあがってくるのを感じた。目の前で蠕くその物体は、形も動きも、醜悪そのもので、嫌悪感を覚えると同時に、体が拒絶反応を起こしたようだった。

 せりあがる胃液のせいか、胸の、しかし具体的にはどことも言い表せない場所が、何千本もの熱せられた針を押し付けられるように痛む。水彩画に水滴を落としたように、毛玉の赤が、じわ、と滲んだ。涙が、目尻から、目頭から、溢れ、頬を伝う。背中がいやに冷たい。首筋に、どろりとねばついた汗が流れていた。鼻だけで、何とか呼吸をする。吸う。吐く。そしてまた吸う。それを何度か繰り返すうちに、ようやく吐き気が収まる。ただ、口腔壁や舌に、細い針が刺さってしまったような違和感が残った。酷い脱力感が、全身を蝕んでいる。

 両耳に差し込んだままだったイヤーフォンからは、弾けるような金属音、流れるような電子音、暴力的な重低音、甲高い絶叫じみた女の声。それらが連なり、重なり、捻れながら、耳道を駆け抜け、そして脳内を蹂躙するまもなく、消失した。イヤーフォンを耳から引き抜く。ジーンズのサイドポケットから、だらりとイヤーフォンコードが垂れた。

 それから、数分か、十数分か。改札内と地下通路を隔てる鉄柵の前に、俺は力なくしゃがみ込んでいた。そうして、見慣れた景色の中の、異様な光景をじっと見ていた。けれど、見ている以上のことが、俺にできただろうか。足を一歩進めることすら、酷く億劫に感じるというのに。

 拾い上げた携帯電話は、既に手の中にある。表面の、角の部分のメッキが大きく剥がれていた。気怠さに、開けていることすら面倒な目で、ちらとそれを見やる。折り畳まれた携帯電話のサブディスプレイに表示されているのは、ただ、日付と現在時刻のみ。確認すると、自然と溜息がこぼれた。待ち合わせの時間が迫っている――。考えると、溜息の代わりに乾いた笑いが小さく漏れた。待ち合わせのことが気になるということは、この異様な状況にも慣れ、余裕が出たという証拠かもしれない。そう思えば、何だか可笑しかった。

 赤い毛玉は、相変わらずベンチにいる。左側から、空色一色の小さな毛玉がちょこちょことやって来て、改札の中へ。黒と紫の太い糸で巻かれた、どっしりと重そうで、縦にも横にも大きなものが、広場のエスカレーターに乗り、地上へと向かっていく。メトロポリタンプラザ入口の自動ドアを、脂が浮かんできそうな肉色の毛玉と、干からびて今にも枯れそうな植物の色をした毛玉が、寄り添いながらくぐる。虹色の鮮やかな毛玉が軽やかに、汚泥に似た毛玉がどんよりと、いやらしい蛍光紫の毛玉がゆらゆらと、俺の前を通り過ぎていく。本当は、もっと数は多い。それこそ、普段池袋にいる歩行者ほどには。

 ――歩行者。そう、ここに歩行者はいない。ここで周囲を見渡す限り、これまで俺以外の人間の姿はなく、行き交うのは糸でぐるぐる巻になった生物(動いているのだから、きっと生物なのだろう)だけだった。

 ベンチの赤い毛玉に、青くひょろりと細い毛玉が近付いていく。青い方は、全長の、半分よりやや下の辺りに、他の部分よりも分厚く糸が巻かれていて、それはまるで何重にも腹巻を身に着けているようにも見えた。ふくれあがったそこは、どろりと今にも滴り落ちそうな、空気に触れた血液のような色をしている。ベンチにいる毛玉より、それはずっと醜悪な形だった。

 再び吐き気がこみ上げる。胸をさすり、深呼吸した。先程よりも、短時間で治まる。きっと、これも慣れなのだろう。

 赤い毛玉は、青い毛玉と連れだって、エスカレーターで地上へと昇っていく。

 赤の下に潜む黒糸の間から、獲物を誘うように垂れていたピンク色の餌が、触手のようににゅるりと艶かしい動きで、青い毛玉の巻かれた糸と糸との隙間にそっと差し入れられたのは、俺の見間違いだと思うことにした。

「どう?」

 座り込んだまま、すっかり項垂れていた俺の耳に、唐突に、そんな声が飛び込んできた。成人のものではなく、かといって幼さはなく、また男女も判別できない。けれど悪意は感じられず、そして恐らく他意もないであろう、何とも簡素な問いかけだった。

 ゆっくりと顔を上げる。広場が目に映る。行き交っているのは相変わらず色とりどりの糸で巻かれた何か。ぞう、ぞう、と、足音ともいえぬ音が幾つも重なる。

「どう?」

 再び同じ調子で尋ねられた。声が発せられた場所は、随分近いような感覚を受けるのに、その声の主の姿は見えない。けれど、それを探そうという気も起きなかった。ただ一刻も早く、アパートに戻りたい。今日、ここへ来るんじゃなかったと、今更ながら後悔していた。それなのになお、体は動かない。じっとりと全身にまとわりつく倦怠感、糸巻生物を目にする度こみ上げる嘔吐感、そして同時に沸き上がる不快感。それらの感覚が体の内側で撹拌され、脳の表面をざらつく舌で舐め上げられているような心地さえした。

 そんな状況で、とても長時間目を開けていることなどできない。俺は、周囲にちらと視線を巡らせ、声の主が見当たらないことをもう一度確認すると、また顔を伏せた。クリーム色の、石タイル張りの床だけが視界に映る。鏡のようによく磨かれたそこに、不明瞭ながらも自分の顔が映り込んだ。そう思った。何しろ、自分自身の顔しか映り込みようがないのだから、それは間違いなく、俺の顔なのではないか? ――例えそれが、黒いペンキをべったりと塗りたくられたような色で、さらに目も鼻も存在しなかったとしても。

「っ、は…………」

 叫びたかった。そうすることで、理解できない現実から、少しでも目を逸したかった。それなのに声が出ない。喉が乾いていた。口腔内にいまだ残っていた針が、乾燥しきった粘膜をすかさず深く刺す。体がぐらりと傾き、前のめりになる。しかし顔と床との距離が近付くことで、より鮮明にその異形が目に映り、背筋が震えた。この上に倒れてはいけない気がして、咄嗟に手を床につき、辛うじて体を支えた。

「どうって、訊いてるじゃない。ねえ、どうなの?」

 その黒い顔の、中心よりやや下。その部分が、細長く開いた。そこから真っ赤な舌が覗いている。きっと口なのだろう。ただし、唇も歯もない。ただただ酸素に触れる前の血の色をした口腔の中に、同じ色の舌がぬらぬらと光っている。口腔の奥は、血の色から続く闇へのグラデーション。

 その闇を湛えた口が小さく窄まり、大きく丸く開き、また、横に引き伸ばされたように潰れながら、俺に向かってゆっくりとした声を発していた。

「ど……どう、って」

 思わずそう言うと、俺の口元がへらりと緩んだ。問いの意味が分からない。そもそも、目の前で起こっていることが現実なのかどうかすら、あやふやになってきていた。直面した事象が自身の理解の範疇を超えた時、人はどうやら無表情を通り過ぎ、だらしない笑みを浮かべるものらしい。背中には嫌な汗が伝っているというのに、顔面の筋肉は引き攣りながらも、緩んだままの形で固まってしまっていた。

「そんなの……知るかよ。俺が一体、何を――」

「どう?」

 黒い顔が赤い口で言う。

「だから、」

「人間でなくなった感覚は」

 みし、と、密度の高く硬質な何かが軋む音。

 思わず顔を上げた。

 色とりどりの糸で巻かれた生き物が、ぴたりとすべての動作を止め、俺を『視て』いた。どちらが前か後ろかも分からないそれが、けれど確かに俺の方を向いてじっと視線を送っている。そしてそれらが一斉に、

「う、あ……あぁ…………」

 赤の、青の、紫の、空色の、様々な色糸の隙間から、細く長い三日月型の、血のように赤い口を覗かせて、にったりといやらしく笑った。

 ぞう、と血が引く。頭頂部から、顔面、首筋、肩――徐々に体が温度を失っていくのがはっきりと分かる。腰が抜け、その場にへたりと、力なく尻をつく。石の床の、無関心な冷たさが、背筋を突き上げる。

 目を、逸そうと思った。しかし凍り付いてしまったように、体が動かない。だからせめて、視線だけでも、外そうとした。ぎ、ぎ、と、錆びついた歯車が互いを噛み合う音が、強ばった顔面の筋肉から、神経に伝わる。早く、早く、と、胸の内で繰り返し唱えた。けれど、そうしてもなお、視線を逸すことはかなわない。

「ひ……ひ……」

 口から漏れるのは、極めてひ弱な呼吸音。ろくに酸素を取り入れることができず、その回数だけがただ無為に増えていく。

「どう?」

 また声が聞こえた。床に映る顔の声だ。すっかり氷のように冷えてしまった右の耳に、粘度の高くぬるい風が、どろりとまとわりつく。泥にまみれた両手を擦り合わせた時に似た、ぬちぬちと、不快な音。それは恐らく、真っ赤な舌が、口腔で蠕く音だ。声は、俺の顔のすぐ横で発せられていた。耳だけでなく、顔の右側面に、べっとりと汚泥を塗りつけられた気分だった。

「人間の姿は。――ねえ、君はどう思う?」

 それは、囁き。女の、男の、幼子の、老人の。そして誰のものでもない囁き。その中に、俺は、一滴の甘い蜜を見た気がした。

 生温かく、少しざらつき、軟らかく、しかし弾力があり、そしてぬっとりと粘液をまとったものが、右頬を這っていく。

「君はまだ、こんなものになりたいの?」

 はっきりと無邪気でいて、男女が未分化な子供の声で問われる。

 糸巻の生物が、ぴたりと笑みを凍らせた。

 床で、かつ、と乾いた音。反射的に視線をやる。いつのまにか、また手からこぼれ落ちていた携帯電話が、床タイルの上に転がっている。着信ランプが青く光っていた。俺は飛びつくようにそれを両手で拾い上げ、開く。メールが一通届いている。震える指先を何とか動かし、メールを開封する。

 ――あなたへのメッセージが一件あります――

 簡素な言葉で綴られたそれは、登録しているSNSからのシステムメッセージだった。それを確認するなり、ふ、と、全身が軽くなったような気がした。

 俺は待ち合わせをしていたのだ。そう、約束があった。集合は西武池袋駅前。同じSNSに登録している大学の友人たちと、久しぶりに会う予定だった。だから、俺は今日ここに来たのだ。俺が助けを求めれば、すぐ近くにいる仲間がすぐに駆けつけてくれるに違いない。そうだ、そうなのだ。俺は、俺は、ひとりじゃない。助けてくれる仲間が――

「いないよ」

 子供の声。

「いないよ」

 女の甲高い声。

「いないよ」

ため息混じりの男の声。

「いないよ」

 生気のない老人の声。

 そして、辺りに響きわたる嘲笑。糸巻生物が、みな腹を抱え、そして俺を、ぐるぐる糸で巻かれて見えもしない指でもって指し示して、蔑んでいる。先ほど頬を這ったぬめりが、今度は右耳を蹂躙する。形を確かめるように、ゆっくりと。恐怖とは違う何か別のものが、腰の辺りを痺れさせる。

「君は、ひとりだ」

 その声は、耳道に直接流れ込んだ。蜜のようにどろりと粘度の高い言葉が、意思を持ったように蠕き、神経を蝕む。それを指で掬って舌に落とせば、きっと甘い味がするだろう。じいん、と、頭の真ん中が麻痺した。無意識の内に口がだらしなく開いていたらしく、その端から流れた唾液が顎を伝って床に落ちた。

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